【第四部】 追跡 二章 先人の涙 9
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「また来るから」
そう言って恭介と悠斗は岩崎の家を辞した。
既に日は暮れ、虫の音が聞こえる。
「お前だけでも、泊まっていけばよかったのに」
悠斗に言われたが、恭介は得た情報を頭の中で整理したかった。
「元気な顔が見られたから、それで十分さ」
それに、仙波が追ってこないところを見ると、亜由美と岩崎の家は、今のところ安全であろう。
話を聞けば聞くほど、恭介の知らなかったことが次々現れる。
ネオンライトのように、長く見つめると視覚がおかしくなるような感覚だ。
亜由美が実家に恭介を連れて帰ったのは、亜由美の父の葬儀の時だった。
以来、亜由美は岩崎家と、年賀状のやり取り程度しか付き合いをしていない。
電車で僅か三十分程度の距離が、長い間縮められなかった。
その理由の一つが、亜由美の兄、江一の存在である。
江一は藤影から資金援助を受けて、補聴器や当時の携帯電話の革新をもくろんだ。
だが同時期、ほぼ同じ概要の製品が一足先にアメリカで発売された。
結果、江一のアイデアは世に出ることなく、莫大な借金が残ったそうだ。
その尻ぬぐいをしたのが、藤影創介だったという。
江一は以来、岩崎の家業を放棄。そのまま海外へ出奔。
亜由美は岩崎家と、事実上縁を切った。
二人は恭介の家の近くまで帰ってきた。
真新しいコンビニがオープンしている。
恭介はコーヒーを二つ買い、悠斗は店外で喫煙した。
「こんなところに、コンビニあったっけ」
「ちょっと前まで、空き地だったよな」
店舗を眺めながら、コーヒーを飲んでいると、いきなり透明のプラカップが震えた。
自分が震えているのかと、恭介は指先を見る。
瞬間、足元がせりあがるような感覚に襲われ、立っていられなくなった。
強烈な眩暈と吐き気。
隣の悠斗も同様で、地面に膝をつけていた。
手に力が入らなくなった恭介は、プラのカップを落とす。
カップから零れたコーヒーが、地面で波紋を作っていた。
どこかの家で、赤ん坊の泣き声がする。
犬が狂ったように吠え始めた。
「キョウ、大丈夫か!」
悠斗の声が歪んで聞こえた。
何かの毒物が、コーヒーに混入されていたのか。
最初はそう思った。
しかし、目の前に落ちて来た蝙蝠と、カップに残ったコーヒーが、小さく波うつところを見て悟る。
低周波音による刺激反応。
二十ヘルツくらいの低周波音は、通常人間が聞き取ることはない。
しかしその影響は、全身に及ぶことがあり、特に重心を保つことは困難になるという。
低周波刺激なのか
刺激?
まさか
攻撃!
膝をついたまま、立てない二人の周囲を、黒いスーツ姿の男たちが取り囲んでいた。
男たちはヘッドホンを装着し、手ぶりでコンタクトを取っているようだ。
恭介の推測は確信へ変わる。
だが、体を立て直すことができない。
じりじりと、男たちは近づく。
その時
調子のはずれた歌声が、近づいてきた。
恭介はその瞬間、勢い付けて立ち上がり、一人の男のヘッドホンを奪い取る。
悠斗もさらに早いスピードで、男二人の足を払った。
男の頭から、ヘッドホンが転がる。
男たちはあわてて、スマホで何かの操作を行った。
恭介と悠斗は、真っすぐに立つことが出来た。
「あれ、キョウと悠斗じゃん。こんなとこで何してるの?」
歌声の主は、幸せそうな笑顔を二人に向けた。
「白井が来るの、待ってたんだ」




