【第四部】 追跡 二章 先人の涙 8
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冷静に考えれば、不思議に思うべきであった。
十何年ぶりかに、いきなり顔を出した孫。涙する祖母。
更に言えば、いくら疎遠であったとしても、その孫の海難事故は、大々的に報道されたはずである。
奇跡的に生存していた上、祖母の元へと現れた孫の姿を、祖母は見た瞬間に識別できた。
誰かが、恭介は生きていると主張し、尚且つ、亜由美の実家を訪れる可能性を示唆していなければ、ありえない出来事であった。
亜由美はあの夜覚醒してから、身の回りの最小限の荷物だけ持ち、自分の実家へ帰った。
亜由美の母、即ち恭介の祖母、岩崎律は、着の身着のままで辿りついた亜由美を泣きながら迎えた。
その後、亜由美の元には、何度か仙波から連絡はあったが、実家で療養していると答えると、それ以上の追及はなかった。
「帰らなくていいの?」
律は亜由美に尋ねたが、亜由美の答えは幼い頃のような、風変わりなものであった。
だって帰ってくるから
あの子が、恭介が帰ってくるから!
空を飛ぶ雀さんが私に教えてくれたの
雲の上の龍神さんが、約束してくれたの
海を統べる大亀さんがそう言って笑うの
律は真剣に悩んだ。
亜由美の心は思っていた以上に傷ついていて、もはや常軌を逸しているのではないかと。
ところが、本当に恭介はやって来た。
会った瞬間、律は様々な思いが込み上げてきたのである。
亜由美は慈しむ様に、恭介が持参した絵本に触れた。
「学生時代、地域の子どもたちと歌ったり、遊んだりするサークルに入っていてね」
そのサークルに、子どもたちに絵の指導をする人がいた。
「沖都凪さんと言ったの。初めて会った時は、男性だと思ったわ」
男性に少々苦手意識があった亜由美だが、凪とは最初から会話ができた。
「凪さんには妹さんがいたそうで、私は妹さんに、きっと、どこか似ていたのね」
ある時、亜由美は、凪が女性として生まれていたことを知る。
亜由美は別に構わなかった。
一緒にいて、一番心が落ち着く相手だった。
「沖都凪というお名前も、ペンネームみたいなものだった。あの人の、決意の表れ」
沖都凪
おきど
それは「オーキッド」の音を、漢字に当てたもの。
凪は、オーキッドを止めた、という意味を含ませた名。
「え、ごめん、かあさん、意味が分からない」
恭介は母に問う。
亜由美は少し困った顔をして、
「その…女性の、赤ちゃんを育てる場所全体、蘭の花にたとえることがあるの」
そう言ったあと、頬を赤くした。
恭介も顔が熱くなった。
悠斗は恭介の脇腹を肘で突いて、「保体の教科書読んどけ」と囁いた。
「いや、読んだけど、洋ナシとか書いてあったよ」
そんな恭介の呟く姿は、生き別れになった、小学生時代の表情と変わっていないと亜由美は思う。
「凪さんは、蘭に思い入れがあったのよ」
「へえ、なんで?」
「ご家族が、いっとき住んでいたのは、蘭が咲いていた島だったから」
「えっ」
「漢方薬の原料になるっていう、なんだっけ…」
「まさか、石斛!?」
「そうそう、その名前の島、セッコク島」




