【第四部】 追跡 二章 先人の涙 6
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話は少し前に戻る。
白井と瑠香の奮闘により、香弥子の呪力が打ち破られた深夜。
藤影亜由美は目を覚ました。
スイッチが入る、という表現の如く、パチンと音が響くように、彼女は瞳を開いた。
カーテンの隙間に見える空は、闇が東雲に切り替わる、直前の色を成す。
長い長い、夢を見ていた。
懐かしい風景と、悍ましい物語。
毎夜毎夜、それらが交互に現れ、消えていく。
いったい今日は何年何月だろう。
あれから何年たった。
息子が
恭介がいなくなってから。
亜由美は起き上がる。
よろけながらもベッドから床に降り、ベッドサイドの机から手鏡を取る。
鏡を見るのも久しぶりだ。
亜由美の自室には、刃物や紐類は一切置かれていない。
恭介が行方不明となり、亜由美は昼夜、絶叫と慟哭を繰り返した。
その後、落ち着きを取り戻したかに見えてはいるが、創介をはじめ、周囲の者が、自殺企図を憂慮している。
ただ、鏡と化粧品は、部屋に置くことが許されていた。
亜由美はしげしげと、鏡の中の己を見つめる。
ひどい顔だ。
色白の肌を通り越し、青ざめた皮膚。
潤いは、まったくない。
眉間には、彫られたような縦の皺。
無駄に伸びた髪が頬にまとわりついて、口元に一層影を落とす。
ああ
創介さんが寄り付かないわけだ。
女を捨てた?
いや、既にそんなレベルじゃない。
亜由美は溜息をつく。
女として、人間としての誇りを取り戻さなければならない。
もう、泣いてばかりいられない!
こんな姿でもし恭介に会っても、母と気づかれないかもしれないじゃない!
手鏡を伏せようとした瞬間、鏡面から黒い腕が伸びてきた。
それは亜由美の手首を縛り、鏡の向こうへ引きずりこもうとする。
これもまた夢か。
黒いものに、手足を押さえつけられる夢は年中見ていた。
押さえつけているものの、本体の姿も。
されど
覚めない夢など
ない!
亜由美は手鏡に絡まれた右手を、思い切り窓ガラスに叩きつけた。
割れた窓を通して、雲の端に黎明の光。
小鳥の囀り。
手鏡は粉々に壊れ、亜由美の手首を掴んでいた腕も、黒い粒子となり消えていく。
――口惜しい…
そんな声が亜由美に聞こえた。
聞いたことのある、声であった。
あまり聞きたくない声でもあった。
砕けた鏡の破片すべてに、その顔が浮かんでいた。
香弥子の泣き顔。
亜由美の前で、泣くことなどありえない女性。
亜由美と亜由美の息子を、事あるごとにいたぶった女性。
――お前諸共…地の果てに…
ああ、彼女は逝ったのか
亜由美は思う。
相容れぬ縁だった。
ただ一点だけ、重なり合ってしまった。
同じ男性を愛したということ。
亜由美は割れたガラスを拾い、腰まで伸びていた髪を躊躇なく切る。
訣別。
香弥子と私の悪しき縁を切る。
そして、人形のように生きてきた、この十数年の人生を。
香弥子が亜由美に持つ、むき出しの嫉妬心には、出会った時から気付いていた。
気付いても譲れないものが、亜由美にもあった。
藤影創介は亜由美にとって、忘れられない男性であったからだ。
当時、いくら小娘であっても、二人の関係くらいは分かっていた。
せめて、妻として母として、あるべき理想像を追及した。
しかしながら
「わたしは、あなたが思っていたより、ずっとお転婆だったのよ」
鏡の破片から、香弥子の姿は消えていた。
ガラスが割れた音に気付いたのか、使用人がバタバタ、走って来る足音が聞こえた。




