【第四部】 追跡 二章 先人の涙 4
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軒先に、忘れられた風鈴が一つ、初秋の風にあおられている。
「どこで、この本を…」
恭介の祖母はつと手を伸ばし、懐かしそうに絵本を眺めた。
「ある方からいただきました。作中に描かれた人物の絵が、似ていると言われまして」
祖母はゆっくり瞬きをする。
「母、亜由美の顔に…」
チリ―ン
風鈴の音は、過去へタイムスリップする、合図のようであった。
「確かに、この絵本のモデルになったのは、娘です」
「では、この作者、日下戸、という人は?」
祖母は年老いてはいるものの、さすがに母子、亜由美と似ている。
母と同じような笑顔を浮かべ、恭介を見つめた。
「そうですね、その前に、娘の小さい頃の話など、聞いていますか?」
「いえ、ほとんど何も…」
あれは何時からだったろうか。
母と、触れ合うような時間がなくなったのは。
恭介の身の周りの世話は、住み込みの使用人たちに任されていた。
小学校に通うようになってから、母とは朝晩の挨拶と、一日数分の会話のみ。
「かあさんは体が弱い。手間を取らせるな」
父はそう言って、恭介から母を遠ざけた。
「そうでしたか。では、少し長い話になりますね」
風が強くなる。
軒下の風鈴は、晩鐘のように鳴った。
岩崎亜由美は、小さな部品工場を営む家に生まれた。
父と母と、少し年上の兄に囲まれ、家族の愛情をたっぷり受けて育った。
「母は、病弱ではなかったのですか?」
「たまに熱を出すことくらいはありましたが、元気に学校に通っていましたね」
少女時代の亜由美は、学校から帰ってランドセルを置くやいなや、すぐに家の外に駆け出すような子どもだった。
東京湾が見下ろせる場所で、日暮れまで遊んでいたり、公園で、縄跳びやボール遊びをしたりと、伸びやかな生活を送っていた。
「風変わりな子どもでしたねえ。『今日ね、遠くの方の海から、竜が来たよ』とか『池の亀さんがお腹すいたって言うから、パンをあげたの』とか、空想的な話をよくしていました」
思春期を迎えると、亜由美は持って生まれた器量の良さが、仇になるような場面にしばしば遭遇する。
ストーカーのような大人に追い回されるとか、ガラの悪い輩に待ち伏せされるとか、そういったことが何度もあり、亜由美の自由闊達さが徐々に失われていく。
「一番酷かったのは、誘拐されかけたことでしょうか。深夜まで帰ってこなくて、捜索願いを出すところでした」
埠頭の先の廃工場に、亜由美は無理やり連れ去られた。
泣きわめく亜由美に気付いた学生に、運よく助けられたという。
「そのことがあってから、亜由美は、男性には距離を置くようになりました。男の人は苦手だとも言っていました」
「友だちはいたのでしょうか?」
「女の子の友だちには、恵まれていました。カラオケとか遊園地とかも、女子のグループで行ってましたね」
悠斗は、恭介が質問する理由に気付いていた。
恭介の母、亜由美に似た女性が登場する絵本「天使の願い」
その内容との親近性を恭介は確認していた。
亜由美は、挿絵のモデルくらいにはなっていたかもしれないが、少女時代の話を聞く限り、絵本の設定とは異なるように悠斗には感じられる。
「では、母と父は、どのように婚姻にいたったのでしょうか」
恭介の聞きたい本質である。
男性に苦手意識を持った母が、どうしてあの父との結婚を決めたのだろうか。
「神様からのお告げ」
ふふっと祖母は笑った。
「亜由美はそう言ったのですよ」
西日が祖母の顔に、陰影を刻んだ。




