【第一部】絶望 二章 地上と地底 4
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泉の水は、地球創生以来の歴史と知識を保存しているかのようだった。
水面に手をかざし、知りたい項目を念ずると、たちまち空間に映像化される。
たとえば、昆虫について知りたいと恭介が思う。
すると、三億年前の大型トンボがいきなり現れてみたり、ファーブルと一緒にアヴィニョンの路上で、フンコロガシの生態を観察してみたり、という体験ができる。
教育プログラムでは最先端と言われていた狩野学園でも、ここまでの設備は当然ない。
恭介は自然科学から人文科学、社会科学まで、日々学んでいた。このところのお気に入りは地球の成り立ちである。
ふと生じた疑問には、リンが胸を張りながら説明してくれる。
だが、少々くどい。
そこで、たまに大亀のレイを訪ね、質問をすることにしていた。泉のほとりにいる時に、時折、奇妙な現象が起こるのだ。
レイはいつも同じ場所にいる。
恭介が、初めてこの地底で会ったところである。
首を少し伸ばして、目は閉じている。
一見しただけでは、巨大亀の石像だ。
恭介が訪ねると、うっすら目を開ける。
「どうした?」
レイの頭の傍に座り、恭介は奇妙な現象について聞いてみた。
「俺が泉の側にいると、時々水中から、人間の腕みたいなものが伸びてくるのですが、あれは一体…」
「みたいなものじゃなくて、人間の腕そのものだよ」
泉の水中から伸びてきた腕は、もがくように指先を動かし、また消えていく。青白っぽい色の腕もあれば、指先が黒ずんでいるのもある。
いずれにしても、なんとなく気持ち悪いものだった。
「俺みたいに、海で溺れた人の腕か何かですか?」
「いや、それとは違う。あの腕の持ち主は、地上で生きている誰かだ」
生きている人の体の一部が、地底に現れるということだろうか。
何故か。
「この地底のことを、お前さんも少しはわかってきただろう。此処は地球の中のもう一つの地球。そして辿り着くには、とても難しいところだ」
「俺はなんだか、あっさり辿り着けましたけど」
「あとから話すが、お前さんは特別だ。古代から地底には、神が住まう場所があり、それは理想郷だと信じられていた」
その話は、恭介も既に知っていた。
「必ずしも間違いではないが、正確でもない。ここは、膨大な先人たちの知識と知恵の集積所であり、それを管理している場所なのだ」
超巨大なデータベースですか、と恭介が問うと、「まあ、そんなところだ」とレイは答えた。
「誰にでも、この集積所に意識を運ぶことはできるのだよ。寝ているときならば」
まれに、覚醒状態でも、この集積場所まで意識を飛ばす者がいる。
例えば霊能者や呪術者と呼ばれる人たち。
ただし、混沌と災いや、他者への不幸を求めて意識を飛ばしても、地底は受け付けない。
受け付けられなかった者たちの執着が、泉から腕の形で現れるそうだ。
「それでも、どんな術を駆使したものか…まあ、やり方はだいたい分かっているのだが…今まで何人か、悪しき者がやってきて、尊い知識を盗んでいった」
レイが『悪しき者』と名指しした中には、有名な独裁者や、どこかの国の王も含まれていた。
「そして、今から十数年前だったか、強引に集積所をこじ開けた者がいたのだよ…」
レイは遠くを見つめた。
「お前さんは、霊能力や術とは別なのじゃ。とは言え、ここに来たのは偶然ではないぞ」
では、何の必然が恭介を呼んだのか。
「今日はもう疲れたわい」
レイは再び目を閉じた。




