【第四部】 追跡 一章 科学と魔術 6
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新堂香弥子にとっての原風景は、絶壁の下の波と、鬱蒼と茂る木々である。
物心ついた香弥子に、父も母もいなかった。
年老いた祖父が焚く炎と煙。
童歌のように聞こえる読経。
香弥子の名は、自分がつけたと祖父は言った。
かつて島の風土病を予防するために、蚊帳は、必須なものであったからだと。
高度経済成長を超えようとしていた日本の中で、忘れられた存在の、太平洋の孤島。
風土病が根絶された頃、島の住人は島を離れた。
祖父だけが残った。
残る必要があったのだ。
ある晩、香弥子は強烈な寒気に襲われ、高熱を出した。
三日三晩、発熱と解熱を繰り返した後、香弥子は目覚めた。
香弥子の胸には、蚊取り線香のような、小さな渦巻が隆起していた。
その姿を確認した祖父は、緊急用に設置されていた無線を使って、どこかへ連絡をした。
「はい。確認しました。トキジクです」
それからしばらくして、香弥子は島を離れ、小学校の入学前に、新堂家に引き取られる。
香弥子の父は、新堂本家の婿であった。
本家の跡取り、新堂妃紗枝は、己が夫の、不貞の末に生まれたはずの香弥子を、愛情を持って育てた。
時としてそれは過剰。時を経て異常に変わる。
妃紗枝に、実子はいなかった。
妃紗枝は、香弥子と同じ布団で寝起きし、寝付くまで己の乳房を咥えさせた。その身体に似合わぬ、たわわな質感の乳を、何の疑問ももたぬまま、香弥子はまさぐった。
さらに、毎夜毎夜、妃紗枝は新堂家のしきたりや、言い伝えられている習わしを、香弥子に語り続けた。
「あなたはこの家の跡取りなのよ。覚えてちょうだいね、ぜんぶ」
中学校に入る頃、香弥子の胸は急激に発達し、大人びた風貌とあいまって、同年代の男子のみならず、教師からも視線を集めるようになる。
すると妃紗枝は、急に香弥子の縁談をまとめた。
相手は遠縁の大学生。香弥子が高校を卒業したら、結婚することが決まった。
この婚約と破談が、香弥子の人としての精神を、完全に失わせてしまう。
婚約者となった男性には、将来を約束した恋人がいた。
香弥子との縁談が決まって数ヶ月後、彼らは駆け落ちしたのである。
駆け落ちした二人は、そのまま行方不明とされ、何年か後、死亡の手続きが取られた。
だが
香弥子は知っていた。
彼らに、起こった出来事を。
二人は密かに連れ戻された。
男性は拷問に近い扱いを受け、その途中で亡くなった。
いや、初めから、命を奪うつもりで、屈強な男たちは暴力を振るっていたのだ。
女性は、身ごもっていた。
手足も口も縛られて、男性の命が消えていく光景を見つめていた。
女性の下半身に血が溢れた。
流産したのである。
「そこにいるのでしょう、香弥子」
配下の男たちに指示をしていた妃紗枝は、洞窟に隠れていた香弥子に声をかける。
妃紗枝は、女性の体外に流れ出した、血の塊を拾い上げた。
「これが、あなたの犯した罪。これがあなたの、あなたの母親の業よ!」
立ち上がった香弥子の顔面に、妃紗枝は血の塊を投げつけた。
二人の遺体は、たくさんの蟹と一緒に樽に詰められ、遠くの海で投棄された。
この出来事から数年後、本家の屋敷は全焼した。
新堂妃紗枝は死亡。新堂家の使用人も複数、焼死したという。




