【第三部】 開始 六章 遺伝子と環境 6
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準備だけするか、と言って、恭介は小さな容器から取り出した粉末を、悠斗と白井の額に塗った。
「白井は耐性あるから、大丈夫だろうけど、悠斗、適当にタバコ吸ってくれ。持ってるだろ?」
やべえ、という顔をしながら悠斗はウエストポーチからタバコの箱を取り出す。
粉末は、部屋の灯を受け、朱色に光った。
「俺が、臨海学校で泣いたのは、怖かったのもあったけど、それだけじゃない」
窓を叩く音に全く気にもかけていない様子の恭介は、いつもより饒舌になる。
「あの時、実は俺、殺されかけた」
悠斗は、咥えてたタバコを落としそうになる。
「なんだと?」
「悠斗は知ってると思うけど、俺は泳ぎが苦手だ。遊泳時間中、侑太に無理やり沖の方まで引っ張られ、そこで首を絞められた」
白井が唾を飲み込んだ。
「俺は意識を失いかけたまま、海に沈んだ。そこで見たんだ」
窓を叩く音は、徐々に大きくなる。
「な、何を見たの?」
白井の声は震えていた。
「海の底で縄に繫がれ、輪を作っている八人の女性を」
パキーンという軽い音をたて、窓ガラスが割れた。
生臭い風が吹き込んでくる。
同時に黒い靄が室内に立ち込める。
修羅場に慣れているとはいえ、悠斗の顔色は青くなっていく。
白井は、今にも胃のなかの物を全部、吐き出しそうな気がしていた。
靄は窓際で密度を増し、朧げな人の形を成した。
恭介は動じることなく、その靄を見つめた。
―ようやく、呪縛が抜けました。だから、お返しいたします―
靄の形は、女性の姿になった。
ノイズの多い白黒テレビを彷彿させる声が伝わってくる。
恭介は朱色の粉末を、薄墨色の女性に向けて吹きかけた。
「あなたたちの行く末が、幸せでありますように」
泥水が流されるかのように、女性を覆っていたものが剥がれ落ちる。
色白の、日本人形のような女性がそこに立っていた。
女性は深々とお辞儀をした。
―ありがとう これはお礼です―
チリーンという鈴の音が聞こえた。
瞬く間に、女性の姿は消えた。
あとには、濡れた畳と貝殻が一つ。
そして掌に乗る大きさの、糸切ハサミ。
割れた窓から、海風が吹いてきた。
三人はしばらく無言だった。
「あのさ」
白井が口を開く。
「悠斗ってタバコ吸う人だったの?」
「え、ああ。生徒会に出入りしてた頃、タバコより、もっとアブナイものを吸わされそうになったりして、あいつらの前では咥えてたな。今はあんまり吸わない。てか、キョウ、知ってたのか?」
「うん」
「それより、今の何? 海の底からやって来るって奴? ああ、そうだ、殺されかけたって…」
白井が畳みかけるように恭介に質問した。
「どこから話したらいいかな。 この地方に言い伝えられてる悲恋の話、あれは真実とは違う話だったんだ」




