夏の終わり
「ヨーログ様は、ある日突然訪ねていらっしゃいました」
ウォードは淡々と話し続ける。
「威厳のあるあのご老人が、一人の伴も連れずに屋敷にいらっしゃいました時は、何事かと騒ぎになりました。ヨーログ様は名乗られたあと、すぐに、お嬢様に会いたい、とおっしゃられてお嬢様の部屋にお一人で入っていかれました。魔法学院の学院長が一体何の用だと、エルモンド様も大変心配され、外から覗いたり、聞き耳を立てたりなさいましたが、ヨーログ様とお嬢様が向かい合って椅子に座ってずっと何かお話をされている、それしか分からなかったようでございます」
アルマークも五歳の時に、ヨーログに会ったことがある。
もう既に記憶も薄れかけているが、老人が父と長いこと話していたのを覚えている。
今にして思えば、その日、アルマークの生きる道が決まったのだ。
そして、ウェンディのところにも学院長が来ていたとは。
「お二人は長いこと、それはもう長いこと、話をされていました。時折、お嬢様のすすり泣く声も聞こえ、エルモンド様は気を揉んでおられました。ようやくお二人で出てこられたとき、お嬢様はまるで憑き物が落ちたようにさっぱりとした顔をなさっていました。そしてヨーログ様は、エルモンド様にこうおっしゃいました」
ウォードは、咳払いを一つして、言った。
「この子を九歳になったらノルク魔法学院へ。素晴らしい素質を持っています」
「すごい」
モーゲンが声をあげる。
「学院長の直接の推薦だ。僕なんか選抜試験にたまたま受かっただけだからなぁ」
「モーゲン殿、あの学院にたまたま、などということで入れる方はいらっしゃいません」
ウォードはモーゲンをそうたしなめてから、話を続ける。
「その日以来、お嬢様はとても明るくなられました……以前のように。ティリアのことをお忘れになったということではなく……何か吹っ切れたご様子でした。エルモンド様は魔法学院にお嬢様を入れることに最初は難色を示しておられましたが、塞ぎこんでいた頃のご様子をご覧になっている以上、もう結論は出たようなものでございました。そして九歳の春、お嬢様はノルク魔法学院に入学されたのです。その後のお嬢様のご様子は皆様のほうがご存知かと思います」
話はこれで全部でございます、とウォードは言った。
何と言っていいか分からないでいる二人に、ウォードは真っ直ぐに向き直り、背筋を伸ばす。
「この事を外部の方に話すのは、お二方が初めてでございます。何故このお話をしたか……どうか、私の気持ちをお汲み取りください」
そう言ってウォードは深々と頭を下げた。
「わたくしではもはやお嬢様のお力にはなれません。どうか、お嬢様のことをよろしくお願いいたします。お嬢様をお守りください」
「ウォードさん、頭を上げてください」
慌てて二人が言うが、ウォードは二人に何と言われようとも頭を上げようとはしなかった。
「……話してくれてありがとうございました」
アルマークは、ようやく頭を上げたウォードにそう言った。
「僕、分かったんです。あの夜にウォードさんの話を聞いて、何故涙が流れたのか」
ウォードがアルマークを見る。
あの夜のやり取りとアルマークの涙を思い出したのか、少し表情が翳る。
「初めてだったんです。こっちに来てから、僕が傭兵の息子であることを知って、その上で、僕を信じる、と言ってくれた大人は」
アルマークは、恥ずかしそうに目を伏せた。
「ウォードさんが」
とても嬉しかった、とアルマークは言った。
「僕も、ウォードさんの信頼に応えたい。ウォードさんは僕たちにご自分の一番大事なものを託してくれた。こんな子供の僕たちに」
アルマークは、ウォードの目を真っ直ぐに見て、言った。
「ウェンディは僕たちが守ります」
アルマークの隣で、モーゲンも力強く頷く。
アルマークは繰り返した。
「僕たちが、必ず」
冬の屋敷の正面の大扉……まだ応急処置でガタガタいっているが……を出たところに、ウェンディが待っていた。
今日は、いつもより袖丈が少し長い。
ウェンディの言うとおり、夏はもうすぐ終わるんだ。
アルマークは思った。
ウェンディは二人に微笑みかけるが、やはりどこか元気がない。
「門まで見送るね」
「うん」
ピクニックの時のようには話は弾まなかった。
三人はなんだかぎこちなく黙ったまま、中庭を歩いた。
門まで近くなった頃、ウェンディが口を開いた。
「来てくれて本当にありがとう」
それから、笑顔を見せる。
「先に学校で待っててね。私も休みが終われば戻るから」
「うん」
モーゲンが頷く。
「待ってるよ」
アルマークもそう言った。
「門の外まで見送ると、離れがたくなっちゃうから。ここで……」
ウェンディがそう言って、立ち止まる。
「うん。ウェンディ、いろいろありがとう」
モーゲンの言葉に、ウェンディが、何言ってるの、こっちの台詞だよ、と笑顔で答える。
アルマークも何か言おうとした。
ウェンディも、アルマークの言葉を待っている。
不意に、胸が詰まった。
このまま簡単に別れてしまっていいのだろうか。
アルマークは思った。
何かウェンディに言ってあげたかった。
本当は、あの襲撃の夜、たくさんの遺体の前で跪く小さな背中に言葉をかけてあげたかった。
力づけてあげたかった。
それがウェンディのためなのか、それとも単なる自己満足のためなのか、アルマークにはそれすらもよく分からなかった。
今さら何か言ったところで、もう間に合わないのかもしれない。
でも、この屋敷を出てしまったら、本当に絶対に間に合わない。
休暇明けに再会したウェンディに、今のアルマークの気持ちはもう届きはしない。
もしも、まだほんの少しでも、ウェンディの心に届く可能性があるのなら。
陳腐な言葉でもいい。
何か、言葉をかけてあげたかった。
「あのさ……」
そう言って、またアルマークは言葉に詰まった。
ウェンディが不思議そうに彼を見る。
アルマークは柄にもなく焦って、ウェンディから目をそらして庭に目をやる。
ちょうど、庭の一角のあの場所が目に入る。
あの日、アルマークが斬った傭兵たちの遺体が寝かされていた場所だ。
ウェンディが傭兵の遺体を見下ろし、許さない、と言った場所。
その小さな背中に、バーハーブ家の全ての責任を背負って、立っていた場所。
そんなに一人で背負わなくていいんだよ。
僕たちがいるじゃないか。
陳腐な言葉が浮かんでは消える。
伝えたいことはそんなことじゃない。
そんな実感のない言葉ではきっとウェンディの心に届かない。
傭兵の息子の僕が分かりもしないことを言ったところで、実際に責任を背負っている貴族の令嬢であるウェンディに生きた言葉として伝わりはしない。
傭兵の息子。
その時、アルマークの脳裏に、かつての父とのやり取りが蘇った。
『アルマーク、お前は……』
あの夜、思い出せなかった言葉。
それを思い出した時、アルマークにも語ることのできる言葉が一つだけ見付かった。
「ウェンディ」
ようやく口を開いたアルマークを、ウェンディが見る。
「うん」
「今日、僕らと別れても、忘れないでほしいことがあるんだ」
ウェンディが瞬きをする。綺麗な睫毛が揺れる。
「覚えていて」
アルマークは言った。
「僕たちは魔術師だ」
ウェンディがきょとんとする。
「魔法の一つも使えない、僕が言うことじゃないのかもしれないけど」
アルマークは、必死に言葉を繋いだ。
苦しいほどにウェンディを見つめていた。
届け。
「ウェンディ、僕たちは魔術師なんだ」
アルマークはもう一度言った。
貴族でも、平民でも、傭兵でもなく。
「身分なんて関係なく、僕たちは魔術師なんだ」
届け。
届いてくれ。
「だから、ありのままのウェンディで帰ってきてほしい」
ウェンディの瞳が揺れる。
「待ってるから。ノルク島で。ノルク魔法学院で」
ウェンディは頷いた。
何も言わず、ただ何度も何度も頷いた。
モーゲンと並んで白馬車の待合所へ向かいながら、アルマークはいつかの父とのやり取りを思い出していた。
焚き火の炎に照らされる父。
傭兵の死体は誰も拾っちゃくれない。
そう話す父に、アルマークは聞いた。
「じゃあ僕が死んでも、父さんは僕の死体を拾ってくれないの?」
父は、炎から目を離し、アルマークの顔を見た。
戦場で見せるのとは全く違う、優しい表情。
父は大きな手を伸ばし、アルマークの頭を乱暴に撫でた。
「アルマーク、お前は戦場では死なない」
父は、ゆっくりとそう言った。
「お前は、魔術師になるんだ」
どうして忘れていたんだろう。
きっと、その頃の僕は魔術師になんてなりたくなかったから、記憶の底に封印してしまっていたのかもしれない。
記憶の中の父の声が、眼前の道を照らす道標のように、アルマークの頭の中で何度も響いていた。
『お前は、魔術師になるんだ』
その言葉に、父はどれだけの思いを込めたのだろう。
僕がウェンディに言った言葉にも、せめてその半分でも思いが込められていたのならいい。
「僕たちは、魔術師だ」
アルマークはもう一度、確かめるように呟いた。
「そうだね。僕も君もウェンディも」
隣でモーゲンが頷いてくれた。
「アルマーク、君と旅できて良かったよ」
「……僕の方こそ。ありがとうモーゲン。君がいてくれて良かった」
二人は微笑んで肩を組み、道を歩いていった。
終わりかけの夏の太陽が二人を照らしていた。
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