崩壊の音
少し眠るだけのつもりが、いつの間にかずいぶんと寝入ってしまっていたらしい。
というよりも、おそらく実際には、気を失っていたという方が正しいのだろう。
トルクが目を開けると、すでに周囲には夜の帳が下りていた。
どうしてこんな暗闇の中で自分は寝ているのか。それを思い出すのに、わずかな時間を要した。
ああ、そうか。
トルクは、思い出す。
黒いローブの初老の男が繰り出す獣の爪のような漆黒の力を。
そして、闇の力の助けによって自分の理想のままに魔法を使いこなすことができた、胸が疼くような体験のことを。
そうだ。俺は闇の魔術師が作り出した異空間で、黒の石の魔術師と戦っていたんだった。
石は手に入れたが、こっぴどく怪我をして、デグに治癒術をかけてもらっていたんだ。
そう。
デグだ。
「デグ」
闇の中で、傍らにいるはずの仲間の名を呼ぶ。
しかし、返事がない。
「デグ」
もう一度呼んでから、もしかして自分が勘違いしているのかもしれないとトルクは考えた。
俺はガレインを先行させたつもりでいたが、石を持って先に行ったのはデグだったか。
「ガレイン」
トルクは言った。
「そこにいるのか」
やはり返事はなかったが、そこに何かがいるのが分かった。
トルクは上体を起こす。黒のイディムに切り裂かれた肩に、鈍い痛みが走る。
そこを中心として、身体全体がじんじんと熱を持っていた。
デグがかけてくれた治癒術だけでは、やはり足りなかった。
自分でも、治癒術をかけ直さなければならないだろう。
トルクから数歩の距離のところに、影が屈みこんでいた。
その姿を見て、トルクはやはり俺が先に行かせたのはデグだったのか、と思った。
うずくまる黒いそれは、ガレインに似たずんぐりとした体格をしていたからだ。
「ガレイン」
もう一度呼びかけると、それはわずかに身じろぎした。
やっぱり、ガレインか。
「ガレイン。俺はどれくらい寝ていたんだ」
トルクが尋ねると、それは初めて顔を上げた。
その途端、強い腐臭がした。
「さあ、俺には分からんな」
と、それは言った。
「だって、お前はまだ……の中にいるんだから」
はっ、と目を覚ました。
一面紫色のアンチュウマソウの草原の中に、トルクは横たわっていた。
傾きかけてはいたが、太陽はまだ空にあってトルクの身体を照らしていた。
荒い息を吐いて上体を起こすと、傍らで「トルク!」という聞き慣れた叫び声が聞こえた。
「……デグ」
「よかった、トルク」
デグは涙目だった。ローブの袖で、ぐい、と涙を拭う。
「なかなか目を覚まさねえから、俺の治癒術じゃ足りなかったのかと」
「……いや」
トルクは、自分がびっしょりと冷たい汗をかいていることに気付いた。
夢の中で見たものの衝撃が、まだ残っていた。
あの、おぞましい姿。腐臭。
あれは、ガレインなんかじゃなかった。
あれは――
腐乱した、俺だった。
「黒のイディムは」
トルクは言った。
「確かに、倒したよな」
「ああ」
デグが頷く。
「トルクが倒してくれたんだろ。俺たちはぶっ倒れちまってたから、よく見てねえけど。とにかく、黒い石に戻ったのは間違いねえよ。それをガレインが持っていったじゃねえか」
「……そうだよな」
「大丈夫か、トルク」
心配そうに、デグがトルクの顔を覗き込んでくる。
「記憶が混乱してるのか」
「ちょっと寝ぼけただけだ」
トルクは答える。
「うっかり寝すぎちまった」
恐ろしい夢を見た、などとは言えなかった。
最後に、俺の姿をしたあいつは何と言っていたのか。
お前はまだ、何の中にいるって? 夢の中? それとも……。
いや。
トルクは頭を振って、その考えを振り払った。
今は、そんなことを考えているときじゃねえ。
「さあ、俺たちも帰ろうぜ」
そう言うと、わざと勢いよく立ち上がる。肩が鈍い痛みを発して、思わず顔をしかめたが、それでも身体は命令通りに動いてくれた。
「いつまでもこんなところで寝てたら、ガレインが嘘つき呼ばわりされるかもしれねえからな」
「ああ。そうだぜ、トルク」
いつものトルクの口調に、デグが心から安心した顔をした。
「さっさとみんなのところに戻ってさ、俺なんかよりうまいやつに、ちゃんと治癒術をかけてもらおうぜ」
「要らねえよ」
トルクは答えて、歩き出す。
「お前の治癒術で十分だ」
行きは上り坂で苦労した分、帰りには下り坂で楽ができるはずだったが、負傷したトルクの身体には坂を下りるときの衝撃の方が堪えた。
ようやく森を抜けて、草原に出た頃には、もう日は沈んでしまっていた。
とはいえ、ここまで来れば仲間たちの待つ拠点まではもうすぐだ。
薄闇の中とはいえ、闇の魔術師の作り出した巨木とその上に広がる樹上庭園が、彼方にはっきりと見える。
あの根元まで。
それくらいならば、問題なく歩けるはずだ。
デグの照らす灯の魔法を頼りに草原を歩いていると、遠くからもう一つ、光がゆらゆらと揺れながらトルクたちに近づいてくるのが見えた。
風に乗って聞こえてきた賑やかな喋り声に、トルクは舌打ちした。
「アインたちだ」
あからさまに嫌そうな顔をしたトルクとは対照的に、仲間と巡り合えたデグは安堵の表情を見せた。
「良かった、俺たち以外にもまだ残ってたんだな」
「ふん」
トルクたちが彼らに気付いたように、彼らもトルクたちの存在に気付いていた。
「おーい、そこにいるのは誰だー」
近付いてくる灯から、元気な声が聞こえてくる。
「フィッケの声だ」
デグが笑う。
「あいつ、元気だな」
「誰だー? 誰ですかー? おーい、聞こえますかー? えーと、まさか魔影じゃねえだろうな、違いますよねー? 人間ですよねー?」
能天気だったフィッケの声は、だんだんと小さくなっていく。
「ばかだ、あいつ」
デグは笑って、声を張り上げる。
「フィッケ、俺だ! デグだ!」
「おお、デグか!」
フィッケの声が元気を取り戻す。
「一人か!?」
「いや、トルクもいる!」
「こっちもアインとエメリアと一緒だ! 一緒に帰ろうぜ!」
「おう!」
おい、デグ。勝手に決めるんじゃねえよ。
トルクは舌打ちをしたが、もうフィッケたちは顔が見えるくらいまで近づいてきていた。
「よう、デグ!」
「おう、フィッケ!」
デグとフィッケがハイタッチする。
「トルクもデグも、ローブがぼろぼろじゃないか」
フィッケの後ろから姿を見せた一組のクラス委員は、二人の姿を見るなりそう言った。
彼の言う通り、トルクとデグのローブは土で汚れ、ところどころを切り裂かれている。特にトルクのローブの損傷はひどく、肩口などはざっくりと大きく切り裂かれたままになっていた。
「よほど激しい戦いがあったようだな。怪我の方は大丈夫か」
「お前こそ」
トルクは薄笑いで応じた。
「一組の独裁者様ともあろうお方が、ひでえローブじゃねえか」
「む」
皮肉交じりの指摘に、アインは自分のローブを見る。確かに彼のローブも焼け焦げ、穴が開き、ひどい有様だった。
「お怪我はございませんか、クラス委員殿」
挑発するようにトルクが言うと、アインは肩をすくめた。
「そうだな、これは僕のミスだ。君は心配する必要のない男だった」
「どういう意味だよ」
「言葉通りの意味さ」
アインは自分のローブの袖を摘まむ。そこにも焦げ跡があった。
「僕たちが戦ったのは、赤のプラー。炎を操る強敵だった。これくらいの被害は仕方ない」
「そうそう」
フィッケも得意げに頷く。
「やばいやつだったぜ。こーんな、天まで届くような火柱をおっ立てやがってよ。アインじゃなきゃ今頃みんな消し炭だったぜ」
「そんなことはない。勝てたのは、君やエメリアがいてくれたおかげだ」
「え」
アインの意外な言葉に、フィッケが振り返る。
「アイン、今なんて」
「君たちは、僕の良き手足だった」
アインは言った。
「自分の頭で余計なことを考えず、ただただ僕の命令通りに、よく動いてくれた。そう、それはまさに手足のような働きだった」
「誰がお前の手足だ」
エメリアが不機嫌そうに鼻を鳴らす。
「私は自分の考えでお前に協力したまでだ。命令をお行儀よく聞いたわけじゃない」
「いや、俺は嬉しいよ!」
フィッケがはしゃいだ声を上げる。
「アインのいい手足だって! 初めて言われたぜ! 俺、いい手足!」
「何でそんなことで喜ぶんだ」
エメリアが諦めたように首を振る。
「もういい。お前らは二人で一つだ」
「いや、エメリア。それは違う」
「何がだよ、アイン! 二人で一つ、すげえいいじゃねえか!」
「あのよ、俺たちだって」
アインたちの会話に対抗するように、デグが割って入った。
「俺たちだって、すげえ相手と戦ったんだぜ。炎なんてもんじゃねえ、あれは」
「よせ、デグ」
トルクはデグの肘を引いた。
「自慢するほどのことじゃねえ」
「でもよ」
デグは不満そうだったが、トルクは首を振る。
やばいやつと戦った。それは確かだ。
だがそれは自分の中で分かっていればいいことだ。
ガレインには黒のイディムは強かったと吹聴するよう焚き付けたが、それはあくまで自分が戻れないことの言い訳代わりだ。
かつてアルマークと一緒にジャラノンを倒したとき同様、単なる自慢をするつもりはなかった。
「ああ、すごい相手だったんだろうな」
不意に、アインがそう言ってトルクの目を覗き込んできた。
「そうか、君は闇と戦ったのか。よく無事でいたものだ」
「なに?」
「だが、ただの治癒術では足りないぞ。しかるべき正しい治療を受けたほうがいい」
「どうしてそんなことが分かる」
「分かるさ」
トルクを見つめるアインの目が、灯の術を反射して赤くきらめく。
「君の身体は、闇に侵されている。自分でも気づいているだろう」
「なんだと?」
トルクが目を剥いてアインを睨みつけた、その時だった。
轟音。
突如、耳をつんざくような巨大な爆発音が響いた。
「上だ!」
フィッケが叫んだ。
「樹の上の庭園が!」
五人は空中庭園を見上げた。
広大な庭園を支える巨木の枝が、激しく揺れている。
激しい光が庭園から溢れ出していた。まるでそこに太陽があるかのような、凄まじい光の奔流。その余波でトルクたちの周囲も昼間のように照らし出される。
次の瞬間、再度激しい爆発音。
庭園の一角が崩れ落ちていく。
巨木の裂ける、めきめきという音。
それは、世界の終わりのような光景だった。
「……君か、アルマーク」
アインが呟いた。
「君たちが、勝ったのか」




