(閑話)トルクとレイラ 後編
「きっと、向こうにある川の方ね」
トルクの後ろを歩くレイラが言った。
そんなことはトルクにだってとっくに予想はついていた。
「ああ」
ぶっきらぼうに返事すると、レイラは、それなら、と言った。
「私、ちょっと先に行くわね」
「あ?」
俺の歩くのが遅いってのか、と言おうとしたトルクの背後で、びゅう、と風が吹いた。
「な」
すぐ後ろを歩いていたはずのレイラの背中が、自分の前に現れた。
再び、風。
レイラの姿が消え、またその少し先に現れる。
「転移の魔法……」
嘘だろ。
トルクは絶句した。
それは中等部で学ぶことになる高位の魔法の中でも、難易度の高さで知られていた。結局最後まで使えないまま卒業した生徒も少なくないと聞く。
学院の教師たちは、この魔法によって遥かな距離を一瞬で翔ける。
レイラのそれは、まだごくわずかな距離を跳ぶことしかできないようだった。だがそれにしても、すでにその基礎を体得したということなのだろう。
たちまち遠ざかっていくレイラの背中。
「ったくよ」
本当に、どいつもこいつも退屈させねえな。ありがたくて涙が出るぜ。
トルクは彼女の背中を追って走り出した。
冷たい風が流れてくる。
それとともに、水の流れる音が聞こえてきた。
レイラから相当遅れて、ようやくトルクが川辺に姿を現すと、すでにレイラは一人の小柄な女子生徒を石の上に座らせようとしているところだった。
一年だな。
トルクは、ぐすぐすと泣いているその生徒の体格を見て判断する。
「川に落ちたのか」
そう声を掛けると、レイラが振り返る。
「あら、意外と早かったのね」
「うるせえ」
全く悪気のない顔。
そういうところがムカつくんだ。
「この子、あそこにぶら下がってたのよ」
レイラが指差したのは、川の上に張り出すように伸びた倒木だった。
夏には生徒たちが上がって遊ぶのに格好の場所だ。だが、冬場は川の冷気で表面が凍っていて、上ろうとする者などいない。
「試験前にこんなところで身体の鍛錬か。感心なことじゃねえか」
「そんなわけないでしょう」
レイラがじろりとトルクを睨む。その目がトルクのよく知る冷たい目だったことに、トルクは逆にほっとする。
「分かってるよ。あれだろ」
トルクが指差したのは、木の上ににょきりと伸びている小さな青色のキノコ。
エゾラダケ。
「授業で使うのか」
少女がこくんと頷く。
「こんなところに上らなくても、エゾラダケなら他でいくらでも生えてる」
「そうね」
レイラが頷く。
「後で教えてあげるわ」
そのレイラの靴がぐっしょりと濡れていることにトルクは気付いた。
泣いている一年生の女子の服はどこも濡れていないというのに。
「お前、足元どうしたんだ」
「ああ、これ?」
レイラは微かに笑う。
「この子が木にぶら下がってるのが見えたから、転移の術と引き寄せの術を同時に使おうと思ったのよ。川辺に飛びながら、その着地地点にこの子の身体を持ってこようって。そうしたら目測がずれて川の中に踏み込んでしまったわ。やっぱりまだまだ練習不足ね」
たかが一年を助けるくらいのことで、そんな高度なことをするんじゃねえよ。
トルクは舌打ちした。
落ちたところで、溺れるような深さじゃねえだろうが。
「私はここで少し靴を乾かしてからこの子と帰るから、あの場所はあなたに譲るわ」
レイラは靴を脱ぎながら言った。
「追いかけてきてくれて、ありがとう」
だが、石の上に座らされた一年生の少女が一向に泣き止まない。
「どうしたの、デルマ」
レイラがその少女の名前を呼んだ。
「どこか、怪我をした?」
デルマは首を振る。
「指輪が」
「指輪?」
途切れ途切れにデルマは話した。
祖母の形見の、燐光石の指輪。
入学の時、御守りがわりにと持たせてもらったそれを、今日は一人で森に入るから指に嵌めてきたのだという。
だが、まだサイズの合わないそれは、木にしがみついているときに指から外れて川に落ちてしまった。
「指輪か」
トルクは川面を見た。
細い川は、水の流れが速い。小さくて軽い燐光石の指輪なら、もう下流まで流されてしまっているかもしれない。
「燐光石なら、少しだけれど魔力を発しているはずね」
レイラが言った。
脱ぎかけていた靴を履き直すと、川面に歩み寄り、手をかざす。
「魔力を感知すれば、場所が分かるかもしれないわ」
「なるほどな」
トルクは頷いた。
デルマも鼻をすすりながら、期待を込めた目でレイラの手を見つめる。
二人の見守る中で、レイラは魔力を川面に伸ばしていく。
しばしの静寂。
真剣な顔で見守るデルマから離れて、トルクは川辺の石を並べ、その辺りに散らばる枯れ枝を集めた。
「……だめだわ」
やがて顔を上げたレイラは、首を振った。
「相当下流まで行ってしまったのかもしれない。探知できない」
「ああ」
デルマが肩を落とす。
「どうしよう」
「俺がやってみる」
トルクがレイラの隣に立った。
目を閉じて、すうっと息を吸い込む。
しばらくして目を開けたトルクは、川下に向かって歩き出す。
「見付けたの、トルク」
「拾ってくる」
トルクはぶっきらぼうに答えると、顎でレイラたちの背後を示した。
「靴でも乾かして待ってろ」
そこには、トルクが枯れ枝を集めて起こした小さな焚火ができていた。
「いつの間に」
レイラが目を見張る。
後ろで俺がずっとごそごそしてただろうが。
トルクは内心でため息をつく。
デグやガレインなら一瞬で気付くぜ。
そんなことにも気付かず集中できる。それも一つの才能なんだろうな。
複雑な思いを抱えて、トルクは川沿いを歩いていく。
川下の石に引っかかっていた指輪を回収したトルクが戻ってくると、レイラとデルマは二人で並んで焚火の前に座っていた。
レイラの白い足が、火に暖められて赤みを帯びている。
石に立てかけられた靴は、乾くまでもう少しかかりそうだった。
「ほらよ」
無造作に指輪を突き出すと、デルマは両手で抱きしめるようにしてそれを受け取った。
「ありがとう…!」
「さすがトルクね」
レイラは言った。
「靴が乾いたら、この子とエゾラダケを取って帰るわ。ありがとう」
トルクはその傍らにどさりと乱暴に腰を下ろす。
「さっきの、魔力の指向性の話だけどな」
「え?」
「お前、川は向こうに向かって流れているからって、そっちに真っ直ぐに魔力を伸ばしただろう」
トルクは川下を指差した。
「ええ」
レイラが頷く。
「そうよ。それが間違っているの?」
「自然の川ってのは、曲がりくねってるんだ。蛇みたいにな」
トルクは自分の手を蛇のようにぐねぐねと動かしてみせる。
「俺はこの三年間、ガレインやデグと一緒に森の中を歩き回っていたから知ってる。この川はしばらく行ったところで右に曲がる。次に左に。小さな落差の滝があって、その後ですぐまた右に曲がる」
すらすらと川の蛇行について説明するトルクに、レイラが目を見張る。
「それに合わせて魔力を伸ばす。だから、遠くまで届く」
トルクはそう言って、レイラを睨んだ。
「それだけのことだ」
時間と労力をかけて積み上げたこと。
逆に言えば、時間と労力さえかければ誰でもできること。
それを人は才能とは呼ばない。
だが、俺にはこんなやり方しかできない。
「じゃあな」
立ち上がったトルクに、デルマがもう一度、「ありがとう」と言った。
「トルク」
レイラがその背中に声を掛けた。
「ありがとう。すごく参考になったわ」
トルクは振り向かなかった。
振り向けば、レイラはきっとあの笑顔を浮かべているはずだと分かっていたからだ。
魔術祭で見た、あの笑顔を。
ああ、余計なことを話しちまった。
トルクは自分の愚かさを呪う。
才能のあるやつは、才能に溺れていてくれ。
そうして、いつか足をすくわれてくれ。
けれど、レイラの濡れた靴が、トルクの頭から離れなかった。
失敗を恐れずに水に飛び込むこと。
それも一つのやり方なのだろう。
レイラが俺のやり方を参考にしようとしているように、俺もレイラのやり方を取り入れた方がいいのか。
試験前にそんな迷いが生じること自体が最悪だった。
アルマークの野郎。
何故か急に頭に浮かんだ北の少年の顔目がけて、トルクは八つ当たりの拳を叩き込んだが、少年は涼しい顔でそれをかわした。




