最終形
ずたずたに切り裂かれた闇の魔術師が、まるで突然の暴風にでも巻き込まれたかのように後方に吹っ飛んでいく。
アルマークはそのままライヌルと同じ速度で踏み込んだ。
地面にばらまかれるように散ったライヌルの上半身めがけて、剣が唸りを上げる。だが、邪魔な腕を斬り払って、頭を両断しようとしたところで、ぴたりと剣を止めた。
「……どうしたんだい」
もはや胸から上だけになったライヌルが言った。
「斬らないのかね」
静かな目が、アルマークを見つめていた。
きっと、これだ。
アルマークは思った。
僕が傭兵には向かないと、父さんが言った理由は。
だけど、それでも。
アルマークは剣を下ろす。
「もう、あなたには闇がない」
先ほどまでの、この世のあらゆる憎悪と醜さを凝縮したかのような顔ではなかった。ライヌルの口から滴っているのは、汚泥のような闇ではなく赤い血だった。
勢いに任せて、この男の頭を叩き割るのは簡単だった。
だが、それでもアルマークはライヌルの言葉を聞くことを選んだ。
闇を打ち払った後でこの男が何を喋るのか、それに耳を傾ける方を選んだ。
北の傭兵の息子アルマークは、ノルク魔法学院の生徒であり、魔術師だった。
「指輪だ」
ライヌルは言った。
「あれを砕け。さもないと、また闇の力が私を覆う。君たちは、私ともう一戦交えることになる」
小さく頷き、アルマークはライヌルからやや離れた地面に落ちた指輪に近付いた。
蛇を象った金色の指輪は、アルマークが切り裂いたライヌルの中指に嵌ったままになっていた。
アルマークは無造作に長剣を振り上げ、振り下ろす。
岩に落ちる水滴のような音を残し、あっけなく指輪は割れた。
「よし。それでいい」
ライヌルは言った。
自分をこの世界に繋ぎ止めるために使っていた大きな力が、断ち切られるのが分かった。
間もなく、私は死ぬ。
だが、それは最初から分かっていたことだ。
運命ではない。私が自分の頭で考え、導き出した結論だ。今さら恐れることがあるだろうか。
アルマークがゆっくりと歩み寄ってくる。
魔術師のローブを纏い、手に剣を提げる、理性と野性の美しく結合した姿。
夜だというのに、ライヌルはそれを眩しいもののように見つめた。
理想の魔術師。
私が人生を懸けて作り上げたかった作品。
だが、まさかその完成形が杖すら握っていないとは。
本当に、やってみなければ分からないものだな。イルミス。
「見事だ」
ライヌルはかすれた声で言った。
「鍵の護り手、アルマーク。君たちの勝ちだ」
「ライヌル、あなたは死ぬのか」
このまま楽にしてやった方がいいのか。アルマークの目にそんな躊躇いを見てとったライヌルは、強いて笑顔を浮かべる。
「この程度の闇、私の力をもってすれば制御できるつもりでいた。それだけの研究と修業を重ねてきたという自負もあった。だが、何のことはない。結局はすっかり闇に取り込まれていた」
自分でも、戦いの途中で何を口走っていたのか、はっきりとは覚えていない。おそらくは相当な無様を晒したことだろう。
だが、闇に堕ちるというのは、そういうことだ。
彼らもよく学べたことだろう。
かっこつけていては、何も伝えることなどできない。
全てを伝えるのであれば、全てを晒さなければ。それでこそ、人の心に残る。
「私の計画は、すっかり打ち砕かれたよ」
“門”の少女とマルスの杖を手にして、その力を解明すること。だが、途中からその目的までが捻じ曲がっていたように感じる。
世界への復讐。勝手に、そんなことに目的がすり替わっていた。
世界が全て自分の敵だと、自分を憎み疎んでいると、漆黒の闇の中で確かにライヌルはそう感じていた。
闇は、もうとっくにライヌルの精神を侵していたのだ。
「僕は、あなたを許すことはできない」
アルマークは言った。
「あなたは、僕の大事なたくさんの人を傷つけた」
「ああ」
ライヌルは口元に笑みを浮かべたまま答える。
「そうだろう」
「だけど、あなたを憎むこともできない」
そう言うと、アルマークは背後を気にする素振りをした。
ごく自然に、アルマークの隣にウェンディが立った。
ウェンディは血の気のない真っ青な顔をしていた。
その身体からは、先ほどまで溢れていた膨大な魔力はもう微塵も感じられない。
“門”は閉じたのだ。
「ライヌル」
全てを使い果たしているはずなのに、ウェンディの声にはまだライヌルの心をざわつかせるほどの威厳があった。
「あなたの負けです。この世界を消して、みんなを解放しなさい」
そう言った直後、ウェンディがふらりとよろめいた。それを素早くアルマークが支える。
「ライヌル。きっと、今ならまだあなたも間に合う」
真剣な面持ちでウェンディは言った。
「だから、早く」
何が間に合うというのか。
ライヌルは思わず吹き出しそうになった。
この無邪気なお嬢様は、まさかまだこの私が助かるとでも思っているのか。そして、この期に及んで、まだ私が生に執着しているとでも。
だが傷だらけの二人は、真っ直ぐにライヌルを見つめていた。
その目に嘘がないことは、ライヌルにも分かった。
……思っているようだな。
生は、ある種の人間にとってはただの苦行でしかない。死によってしか救いを得られない者もいる。
くだらない道徳の建前さえ引き剥がしてしまえば、そんなことは誰もが本能的に知っていることだと思っていたが。
このお嬢様は、そんなことを心から信じているのか。
ライヌルは、ウェンディからアルマークに視線を移す。
……そして、君も。私などよりも遥かに死に近い場所で生きてきた、君までも。
互いに支え合って立つ二人の姿を、ライヌルは眩しく見た。
ああ、そうか。
私の目指していた理想の最終形というのは、一人ではなく……。
一人ではだめだ。闇の魔術師よ。
一人では、道を誤る。
さっきの戦いの途中で、誰かからそんな言葉を聞いた気がした。
そういうことか、イルミス。
君が理想としていたのは――……
だが。
ライヌルは表情を改めた。
私は心を鬼にして、この二人に呪いの言葉を贈らなければならない。
これからの苦しい戦いに打ち勝つための、呪いの言葉を。
「仲睦まじいことだ」
ライヌルは言った。
「君たち二人が支え合い、助け合う姿は実に美しい。闇に侵された私の心にも響くものがある」
「ライヌル。私の話を聞いて」
ウェンディがライヌルの言葉を遮ろうとしたが、ライヌルは構わず続けた。
「だが、忘れないことだ。今、君たちが惹かれ合っているのは、君たち二人が“門”の少女と鍵の護り手だからだ。君たちは運命に流されるままに、そう刷り込まれたがゆえに、互いを好ましく錯覚しているに過ぎない」
その言葉に、アルマークが瞬きし、ウェンディが眉を顰める。
「その感情は、借り物だ。作り物だ。紛い物と言ってもいい。何であれ、真に君たち自身の心から生まれた感情ではないのだ。君たちが結びついたのは、単なる運命の要請によるもので、君たちは劇の台本通りに役割を演じているに過ぎない。その感情にそれ以上の意味などない。それを自分たちの見付けた唯一無二の尊い気持ちだなどと思い上がった勘違いをしないことだ」
さあ、どうする。
どう答える。“門”の少女。鍵の護り手。
運命の、最も激しい渦中に立つ二人よ。
アルマークとウェンディは顔を見合わせた。
互いの視線が交錯し、それから二人は小さく頷き合う。
「ライヌル」
二人を代表して口を開いたのは、アルマークだった。
「あなたの言うことは難しくて、僕にはよく分からないけれど、それでも一つ分かっていることがある」
アルマークは言った。
「恩」
「……何?」
「僕たちを結び付けているのは、恩だ。色々な人に受けた恩のおかげで、僕らはここにこうして立っている」
アルマークはもう一度、ウェンディを見た。
僕の言っていることがおかしかったら言ってくれ、ウェンディ。
だがウェンディは微笑んで頷いてくれた。
「運命が僕らを結び付けたと言ったね。違う。僕ら二人を今ここに立たせてくれているのは、たくさんの人から受けた恩だ」
アルマークを南へと送り出してくれたレイズの。
ウェンディを絶望の淵から救ってくれたヨーログの。
アルマークを学院に迎え入れてくれたジードやマイアの。
魔法を教えてくれたイルミスやフィーアたち教師や、ネルソンやレイラ、トルクといったクラスの仲間たち。ウェンディを助けるために命懸けで戦ってくれた学年の仲間たち。
二人の運命を、最も近いところで支えてくれたモーゲン。
みんなのおかげで、今、僕たち二人はここに立たせてもらっている。
「僕たちを結び付けてくれたのは、今まで出会ってきた全ての人たちだ。その中にはライヌル、あなたも含まれている」
その言葉に、ライヌルは目を見開く。
「あなたがそれを運命と呼ぶのなら、僕らはこう答えるよ。そうだよ、何を当たり前のことを、と」
「当たり前」
ライヌルは、その言葉を繰り返す。
「台本通りだから、それは自分の意志じゃない、とあなたは言うのね」
ウェンディが言った。
「でも、私たちは学んだの。劇の台本に、命を込めることだってできる。もう一つの魂を作り上げることだってできるって」
「もう一つの魂……」
それが何かは、ライヌルには分からなかった。
だが、そう答える二人の目に、一切の迷いはなかった。
そこまでの信頼を築くことのできる何かを、この二人は既に得ている。
「そうか」
それだけの修羅場を、二人で潜り抜けてきたということだろう。
やはり、命の危機を越えてこそだ。私のやり方は間違っていなかった。
ライヌルは思った。
おそらく、二人のこの答えではまだ足りない。
それだけでは足りないと、いつか思い知るときが来るだろう。
しかし、種は蒔いた。
今はこの答えで満足すべきだろう。
「分かった」
ライヌルは静かに言った。
私の役目は、ここまでだ。
「私の負けだ。この世界を終えて、君たちを元の学院に――」
そのときだった。
三人の背後に、すさまじい闇の力が立ち上った。
振り向いたアルマークは、さっき砕いた蛇の指輪から闇が膨れ上がっているのを見た。それが、禍々しい何かの形をとろうとしている。
「ばかな」
叫んだのはライヌルだった。
「なぜだ。あの指輪が、私の意志に関係なく勝手に闇を呼ぶことなど」
その脳裏に、一人の男の姿がよぎる。
闇の魔術師の長。
ウォルフ王太子の背後に常にちらつく、黒い影。
あの男の、酷薄な笑顔が。
「アークレイ!」
ライヌルは叫んだ。
「貴様という男は!」




