理想
森を望む三階の空き教室。
そこはいつも、担当する授業がない時の彼の休憩場所だった。
「ライヌル! ライヌルはいるか」
乱暴に開けられたドアを見て、ライヌルは読んでいた書物から顔を上げ、薄く笑みを浮かべた。
「どうした、イルミス。君らしくもないじゃないか。いいかい、ドアというのはそんなに力を込めなくても開くようにできているんだよ」
「ドアの話をしに来たのではない」
足音荒くライヌルに詰め寄ってきたイルミスは、普段は血色の悪いその顔を珍しく紅潮させていた。
「また生徒に無茶をさせたそうだな。今度は負傷者が五人も出たと」
「たった五人で済んだ」
ライヌルは涼しい顔で応じる。
「その三倍は出ると思っていたのだがね。意外に粘った。君の教育の賜物かな」
「ふざけるんじゃない」
イルミスがテーブルを叩くと、上に置かれていたガラス瓶ががちゃん、と音を立てて揺れた。
「君はこのノルク魔法学院の教師というものを何だと思っているんだ。各国の才能ある子供たちを親元から離して預かり、教育するということの意味を分かっているのか」
「分母は多ければ多い方がいいと思っているよ」
涼しい顔で答えるライヌルに、イルミスが片眉を上げる。
「なに」
「その方が、私の求める最後の一人が現れる確率は上がるからね」
「君はまだそんなことを」
イルミスは嘆息した。
「生徒を実験動物か何かと勘違いしているようだが、彼らは人だ。希望溢れる未来を持つ若者たちだ」
「その希望溢れる未来とやらを支えるこの世界そのものが、暗がりに沈もうとしているんだ」
ライヌルはぎろりとイルミスを見上げた。
「ちょっと優秀で気の利いた、王侯貴族の気に入るような魔術師を育てるだけでいいなら、私だってこんな方法は取らないよ。温室の花のように、虫の噛み跡一つなくきれいに育ててみせるさ」
だが、と言いながらライヌルは立ち上がる。
「害虫にどれだけたかられようが、疫病に侵されて周囲の花全てが枯れようが、それでもたった一輪、超然と花を咲かせ実を付ける、そんな苗を育てようとするなら、温室など使うべきじゃない。そうだろう」
ライヌルとイルミス。灰色のローブを纏った二人は、真正面から睨み合う。
「君の言いたいことは分かる」
やがてイルミスはそう言って、一歩引くように腕を組んだ。
「だが、焦りすぎだ。君のやっていることは、花を開く可能性のある苗全てを汚泥の中に沈めようとしているようなものだぞ」
「これでも加減したつもりだったんだがね」
「マイア先生が言っていたよ」
イルミスがその名を口にすると、ライヌルは微かに顔を曇らせる。
「試験や試練は、与える方はいつだって気楽なものだが受ける方はいつでも命懸けだと。その重みの違いについて、君も少し考えるべきだ」
「マイア先生が言うのであれば、仕方ない」
ライヌルは口調を少し和らげた。
「学院長が言ったのなら、もっと激しくやってやろうと思っていたが」
「教師同士の不和は、生徒に見せるなよ。ライヌル」
イルミスは言った。
「そういうことは、生徒にはすぐに伝わるからな」
「ああ。彼らは私の顔色を実によく窺っているよ」
愉快そうにライヌルは口元を緩める。
「このいかれた教師は、いったい今日は何をさせる気なんだ、本当に僕たちを殺すつもりなんじゃないのか、とね。だがその中でも、私の顔色などまるで気にもしていない生徒が数名いる。彼らが私の探し求める大器なのか、それとも単なるとんでもないバカなのか、それはまだ判断つきかねるがね」
「君の眼鏡にかないそうな生徒がいるのなら、それは喜ばしいことだ」
イルミスもやや口調を和らげる。
「私は君の大きな理想に賛同しているし、そのための協力もする。だがやはり私は教師として、全ての生徒に目を配り、鍛え育てていく。そこは決して譲れない」
「私がこんなやり方をできるのも、君の実直な育成があってこそだよ、イルミス」
ライヌルは微笑んだ。
「君は君の思うようにしてくれ。他の生徒たちの水準が低ければ、私の求める大器も磨かれないまま終わってしまうのでね」
「君のためにそうするわけではないが」
イルミスは自分のローブの袖を掴む。
「この灰色のローブに誓ったからな、君と」
「ああ」
ライヌルも彼と同じく、自らがまとう灰色のローブの胸元を掴んでみせた。
「白にも黒にも囚われることなく」
「私たちは自分たちの理想のみに従って、生徒たちを導くと」
そう言い合い、互いの目を見つめ合い、微かに笑う。
「お茶でも飲んでいくかい」
ライヌルの言葉に、イルミスは首を振った。
「そうしたいところだが、私はこれから君の後始末だ。色々と授業の予定を組み替えなければならない」
「それはすまない」
「謝るときは、もう少し申し訳なさそうな顔をするものだ」
そうたしなめるイルミスの口調には、もう怒りは感じられなかった。
「私は君を信じている」
イルミスは言った。
「君と、君の理想を」
「ああ」
ライヌルは静かに頷く。
「君の信頼を裏切るようなことはないと、誓うよ」
それに頷き部屋を去りかけていたイルミスは、思い出したように振り返った。
「そういえば、セリアが怒っていた」
「え?」
ライヌルはぎょっとしたように動きを止める。
「セリアが? どうして?」
「君が生徒たちを怪我させてばかりいるから、もう薬湯庫が空っぽだと。君には当分、薬湯入りの飴は作ってやらないと言っていたぞ」
「そ、それは困る。あれが食べられないなんて私の人生は終わりじゃないか」
ライヌルはイルミスのローブの袖に縋りついた。
「君からも取りなしてくれ。私からも謝りに行くから」
「どうしてさっきはその顔ができなかったんだ」
苦笑したイルミスは、袖をばさりと翻してライヌルの手を振り払うと、そのままドアへと向かう。
「私からも一応は言っておく。だが君も、ただ口で謝るだけでなくせっかくだから食事にでも招待したらどうだ」
「え?」
「この前、いい店を見付けたと言っていたじゃないか」
「ああ、いや」
ライヌルは照れたように首を振る。
「もう少しタイミングを見てから、と思っていたんだが」
「ちょうどいい機会かもしれないぞ」
「む」
「時機を待つというのは、変化を恐れる自分を足止めするには実に都合のいい言葉だからな」
「ああ」
ライヌルは苦笑いした。
「分かっているさ」
「門外漢の私が、余計なことを言った」
イルミスも目を細めて笑う。
「これ以上は野暮というものだな」
出て行こうとするイルミスを、ライヌルは呼び止めた。
「イルミス」
「ん?」
振り返るイルミスに、ライヌルは言った。
「私の友人でいてくれて、ありがとう」
その言葉の意味を測りかねたように、イルミスは首をわずかに傾げたが、それから穏やかな笑顔で答えた。
「こちらこそ」
去っていったイルミスと入れ替わりに、一人の男子生徒がおそるおそる顔を覗かせる。
「ライヌル先生、あの、一つ質問が」
「来たまえ」
ライヌルは笑顔で頷く。
「大丈夫だ。私は君を捕って食ったりはしないから」
激しい衝撃。
すさまじい腐臭と、遅れたように押し寄せてきた痛み。
光と斬撃によって闇が振り払われ、麻痺していた感覚全てがいっぺんに蘇る。
激痛が、負の感情に支配されて澱んでいた彼の思考を鮮明にした。
そのおかげでライヌルは、自分がごく一瞬の幻を見ていたのだと気付く。
私が、イルミスとともにこの学院で教師をやっていた。
ああ。そうか。
もしかしたら、そんな未来もあったのかもしれないな。
ライヌルは微笑んだ。
いったい、どこで間違えたのだろうか。私は。
だが、結局はこうなるしかなかったという気もした。
間違えたのではない。
ライヌルはそう自分に言い聞かせた。
私が自分で選んだのだ。くだらない運命の鎖を断ち切り、灰色のローブの理想に懸けて、自らの手で掴んだのだ。
イルミス。セリア。迷惑をかけたね。
私の授業も、もうすぐ終わる。
闇の教師が、その最後の役割を果たすよ。
次回更新は11/20頃を予定しています。




