無理も無茶も
長剣。
アルマークは、自分の前で白い煙を上げて浮かんでいるそれに、一瞬自分の目を疑った。
これが、今こんなところにあるわけがない。
けれど、すぐに飛びつくようにして剣の柄をひっ掴んだ。
その瞬間に、皮膚が思い出した。アルマークのよく知るその冷たさを。
初めて剣を握ったあの日から変わることのない、北の冷たさを。
アルマークはもどかしくマルスの杖を背にしまうと、両手で柄を握り、剣の感触を確かめた。
幼いころからずっと、アルマークとともに在った手触り。
それはマルスの杖を握ったときとは全く違う感覚だった。
マルスの杖の場合は、初めて掴んだ瞬間からすでに自分の手に馴染んでいた。
あたかも杖のほうが、もうずっと以前から自分の手の形を知っていたかのような、不思議な感覚だった。
けれど、この剣は違う。
アルマークは長剣をしっかりと握り直した。
この剣が手に馴染んだんじゃない。僕の手が、この剣に馴染んだんだ。
何度も何度も皮が剥け、マメが潰れ、やがて木の皮のように硬くなった手のひら。
アルマークのやわな手を最初は決して受け入れようとしなかったこの硬く重い柄が、僕を一から鍛えてくれた。
柄が自分の握りやすい形になったわけではない。
その逆だ。
僕は自分の手を、この剣の柄に馴染むように作り直したんだ。
何度も何度も血を流し、痛みに耐え、この柄を握るに値する手を作り上げたからこその、握り慣れた感覚。
唯一無二の、相棒としての一体感。
「……アルマーク」
不意に、名前を呼ばれた。
目の前で轟音を上げて光と闇とがぶつかり合っているというのに、その囁き声ははっきりとアルマークに届いた。
「アルマーク」
耳ではなく、脳に直接語りかけてきている。そして、この声は。
「アルマーク。聞こえるか」
「聞こえます、イルミス先生」
アルマークは口の中で呟いた。
「僕の声は聞こえますか」
「ああ、聞こえる」
イルミスの声は落ち着いていた。
「よかった、先生やっぱり無事だったんですね」
「無事、とは言い難いが」
イルミスの声は言う。
「とっさに仮死の術で心臓を止めていたのでな。身体に負荷のかかる魔法なので、しばらくはまともに動けない。こちらで闇の奔流からフィタを守るので精一杯というところだ」
「でも、よかった」
アルマークは心からそう言った。
「先生が無事で、本当によかったです」
「心配をかけてすまない。本来は私が君たちの心配をせねばならないというのに」
「そんな。先生がライヌルと対峙していてくれたおかげで、僕らはあいつの裏をかけました。それに、あいつには杖がなかった」
魔術師にとっての杖は、傭兵にとっての剣だ。
もしもライヌルが、イルミスに壊されることなく自分の杖を手にしたままだったら、戦いの状況は大きく変わっていただろう。
果たして、アルマークたちにここまでライヌルを追い詰めることができただろうか。
「私自身の反省は、全てが終わってからすることにしよう」
イルミスは口調を改めた。
「君の最も必要とする物を送った」
その言葉に、アルマークは自分の握る剣を見る。
「そちらに何が送られたのか、私には分からない。だが、君の魂と最も強く結びついている何かが送られたはずだ。残念だが今の私にできるのは、これが精一杯だ。それが君たちの助けになるとよいのだが」
「はい、先生」
アルマークは目の前にはいないイルミスに頭を下げた。
「ありがとうございます。これがあれば百人力です」
「そうか。それならばよかった」
イルミスはそう言った後、一瞬沈黙した。
「すまない、アルマーク」
イルミスの声には無念さがにじんでいた。
「ライヌルを止められなかった」
「僕らが止めます」
アルマークは答えた。
「先生もどうかご無事で」
「無理はするな」
そう言った後、イルミスは自分の言葉に嘆息した。
「などと言える立場ではないな。こうなってしまったライヌルを前にしては」
「思い切り、無理も無茶もします」
アルマークは言った。
「だから、終わったらまた僕らに説教してください」
「説教など」
「約束ですよ、先生」
アルマークの真剣な声に、イルミスは静かに言った。
「ああ、約束だ。アルマーク、君ならできる」
最後にそう言い残して、イルミスの通信は切れた。
ありがとうございます、イルミス先生。
アルマークはゆっくりと剣を抜く。
磨かれた白刃が、ウェンディの放つ光を反射して輝いた。
今までどんな無茶な使い方をしても、決して折れることのなかったアルマークの相棒。
もしかしたら、今度ばかりはそうも言えないかもしれない。
けれど。
アルマークはその刀身に自分の頬を付けた。
冷たい。
これが、僕の命だ。初めてこの剣を握ったあの日から、それは一度だって変わったことはない。
そうでしょう、父さん。
アルマークは片手を上げて自分の髪に触れた。
さっき父に撫でてもらった感覚が、まだ残っていた。
懐かしさと嬉しさと、それからどんな言葉にすればいいのかも分からない感情で、胸が詰まった。
あれは長剣とともにあった父の魂が、一瞬だけ形をとってくれたのではないか。
アルマークは、そう思うことにした。
ありがとう、父さん。
僕はこれからあなたの、“影の牙”レイズの名に恥じない戦いをするよ。
どうか、北から見守っていてください。
大きく、息を吸い込む。
「ウェンディ!」
アルマークは叫んだ。
「まだ僕の声が聞こえるかい」
「聞こえるわ!」
背後のウェンディが叫び返す。
「どうしたの」
「また君に無茶なお願いをするよ」
振り向きもしないままでアルマークは言った。
「いいかい」
「いいわよ」
即答するウェンディの声には微塵の迷いもなかった。
「あなたと一緒に戦うって決めた日から、どんな無茶にも応えるって決めているもの」
「ありがとう」
目の前では光と闇との、この世の終わりのような激突。
だが、もう闇はすぐそこまで迫っていた。
ウェンディが押されているのだ。
「僕に飛び足の術をかけてくれ」
アルマークは言った。
「その後で、ライヌルまでの道を一直線に切り開いてくれ。一瞬でいい。それで、この戦いを終わらせる」
その提案に、さすがのウェンディも絶句した。
一瞬の沈黙の後、ウェンディは確かめるように言った。
「今私がこうやって闇を押し戻そうとしている光を、全部ライヌルの前面に集中するのね?」
「ああ」
アルマークは頷く。
「一瞬でいい」
アルマークは自分の握る剣をわずかに掲げてみせる。
「その瞬間に、僕があいつを斬る」
アルマークの剣がどうしてここにあるのか、ウェンディは訊かなかった。代わりに、でももし失敗したら、と言った。
「その次の瞬間には私たちは闇に飲み込まれるわよ。それでもやるの?」
「それでもやる」
アルマークの答えに迷いはなかった。
「分かったわ」
ウェンディのきっぱりとした返答。
「それでいきましょう」
「ありがとう」
「だって、モーゲンが言っていたもの」
ウェンディの声はあくまで明るかった。
「剣を持ったあなたは無敵だって」
絶対的な信頼。その言葉に、アルマークの胸は震えた。
「私も、そう思っているから」




