門と鍵
ライヌルが走り去っていった庭園の奥へと歩を進める、アルマークとウェンディ。
だが、行く手から漂ってくる瘴気がただならぬ濃さになっていることに、アルマークは気付いていた。
さっきのライヌルも、すさまじい闇をまとっていた。自分の傷を一瞬で治癒してしまうような、人間離れした能力まで見せていた。
けれど、これはもはやその比じゃない。
まるで、北の森。
闇夜、魔笛が鳴り響いた後の、あの地獄だ。
「すごい闇の力だね」
アルマークの隣で、ウェンディがそう呟いた。
「君も分かるかい」
「ええ」
ウェンディは頷く。
「以前に出会ったボラパよりも、ずっと強い」
「うん」
その通りだった。
夜の薬草狩り。あの時、学院の森に現れた闇の眷属、双頭の魔人ボラパ。
強烈な闇の腐臭を放っていたあの魔人よりも、さらに強い闇の力。
それを放つ者は、果たしてまだ人と呼べる存在なのだろうか。
アルマークは自分の握るマルスの杖を見た。
杖よりも、剣。
今は切実に、剣が欲しかった。
長い間、命を預けてきた相棒の長剣。
それがあったところで、何がどうなるものでもないかもしれない。
だが、杖では迷いが出る。
僕はまだ未熟な魔術師だ。
剣ならば、自分自身が一振りの刃となればいいだけだが、杖で戦うためには、身体だけではなく頭を使わなければならない。
培ってきた戦場感覚だけでは、戦えない。
「ウェンディ」
アルマークは足を止め、ウェンディを見た。
「なあに」
「正直な話をするよ」
アルマークは、言葉を選ぶことをやめた。
「どう戦えばいいのか、僕は分からない」
その言葉に、ウェンディが目を見張る。
「僕にはこのマルスの杖がある」
アルマークは言った。
「でも、僕のどんな魔法も、正面からあの人に通用するとは思えない。まして、もうほとんど闇そのものと同化してしまったような、あの人には」
戦いに際して、アルマークが仲間の前で弱音ともとれる言葉を漏らすことは、今までに一度もなかった。
だからその意外な言葉に、ウェンディは驚いてアルマークを見た。
そして、すぐに気付いた。
それが、弱音でも何でもないのだということに。
「何か考えがあれば教えてほしい」
アルマークの目に、恐れの色はなかった。ウェンディの好きないつもの彼の、真摯な瞳だった。
「ウェンディ。君はどう思う」
いつもウェンディの知らないところで、アルマークは命を張ってきた。冬の屋敷でも、図書館や泉の洞穴でも、そしてクラン島でも。
私はあなたとともに戦いたい。いつか、ウェンディはアルマークにそう言った。
だがその願いを実現させることの難しさを、ボラパとの戦いで思い知ってもいた。
あのときは、自分の役割を果たすことだけで必死だった。
けれど、今。
アルマークが、私に意見を求めている。
私を、ともに戦う相棒として。
ありがとう、アルマーク。私を認めてくれて。
ウェンディはその言葉を、感謝の気持ちとともに胸に収める。これから戦いに臨む者としては、あまりに感傷的すぎる言葉だと思ったから。
「あのね、アルマーク」
その代わりに、ウェンディは言った。
「前から薄々感じていたことなんだけど」
「うん」
頷くアルマークの表情はあくまで真剣だ。
「あなたの持つそのマルスの杖。それが近くにあると」
ウェンディは自分の胸のあたりを押さえる。
「この辺が、ざわざわするの」
「ざわざわする」
アルマークは鸚鵡返しに繰り返した。
「それは、どういう」
「鍵」
ウェンディは胸を押さえたままでアルマークの目を見つめた。
「鍵なのよね、その杖は」
「うん」
「だからきっと、反応しているの」
「えっ」
「似ているの。魔術祭でライヌルに無理やり“門”を開けられたときと、感覚が」
魔術祭。
そのときのライヌルの襲撃を思い出し、アルマークは微かに顔をしかめる。
あのとき、僕は何もできなかった。
「だからアルマーク」
ウェンディは言った。
「あなたが私の“門”を開けて」
「何を言ってるんだ」
驚いてアルマークは首を振る。
「どうして、そんなことを」
「ライヌルに勝つには、それしかないと思う」
ウェンディの声にも、少しの迷いもなかった。
だが、それを言うのがどれだけ覚悟のいることなのか、それは青ざめたその頬で分かった。
「“門”を開いたときの、あのすごい量の魔力があれば、きっとライヌルの闇を圧倒できる」
「危険すぎる」
もう二度と君にそんなことをさせないために、この杖を“門”を開ける鍵ではなく閉める鍵とするために、僕は今まで努力を重ねてきたんだ。
だがアルマークがその言葉を口にする前に、ウェンディはきっぱりと言った。
「だって、使えるものは何でも使わなきゃ」
戦場では、使えるものは何でも使え。
「命を懸けて戦うって、そういうことなんでしょ」
戦場ってのは、そういうところだ。かっこつけて生き残れる場所じゃねえ。
どうして、ウェンディの言葉がいちいち父の言葉とかぶるのか。
アルマークは息を止めて、ウェンディの顔をじっと見つめた。そして、理解した。
それは、覚悟を決めているからだ。
ウェンディが、この可憐な南の少女が、北の戦場にその勇名轟く歴戦の傭兵“影の牙”レイズと同じだけの覚悟を。
アルマークはマルスの杖を見て、それからウェンディの顔を見た。
一瞬の沈黙。
自分の無力。その悔しさを、アルマークは心の奥深くに沈めた。
ウェンディの言うことは、正しい。
ほかに、ライヌルに対抗できる手段は思いつかない。
「分かった」
アルマークは頷いた。
「でも、どうやって開けばいいのか分からないんだ」
今までそのことと正面から向き合うことを避けてきた自分を悔いた。
向き合いたくないことだからこそ、しっかりと見つめなければならなかったのに。
「杖を、私に当てて」
ウェンディは自分の胸元辺りを指差した。
「感覚で分かるの。あなたと私がそれを受け入れてさえいれば、きっとそんなに難しいことじゃない」
アルマークは頷いて、慎重にマルスの杖をウェンディに向けた。
杖の先端がローブの上からウェンディの胸元に触れると、ウェンディは小さく息を吞んだ。
アルマークにも分かった。
“門”は、開く。
アルマークはすぐに杖を下ろした。
震えそうになった自分の心をどやしつける。
しっかりしろ、アルマーク。本当に怖いのはお前じゃない。ウェンディの方なんだぞ。
「ここで開いてしまったら、ライヌルの不意を衝けない」
努めて冷静な声で、アルマークは言った。
「この力は、あいつの前で解放してやろう」
「ええ」
ウェンディは頷いた。
「ありがとう、アルマーク」
「え?」
ああ、結局言ってしまった。
ウェンディは苦笑いする。
「何でもないの」
アルマークはわずかに首をかしげたが、それ以上は何も言わなかった。
ウェンディはアルマークの手を取る。
「行きましょう」
「うん」
二人は歩き出した。夜の闇がもうそこまで迫っていた。
最後の残光が空から消えたとき、二人はまるで巨大な獣が暴れ狂ったかのように地面が掘り返され荒れ果てた場所に着いた。
「きっと、イルミス先生が戦った跡だ」
「ええ」
闇に目を凝らした二人は、その向こうに夜の闇よりもさらに黒い何かがうずくまっているのを見た。
「夜が来た」
それは、ライヌルの声で言った。
「さあ、決着を付けようじゃないか。不出来な淵の君の欠片どもよ」




