(閑話)野良犬の焦燥
時々、無性に胸がざわつくことがある。
人知れず続ける、厳しい研鑽。
地道な努力の日々。
その隙間に。
自分では意識していない心の奥、普段はまるで深い水の底に沈んでいるようなそれが、何かの拍子に、ぽかりと水面に顔を出すことがあった。
そうすると胸がざわめき、時にはかきむしられるような苦しさまで覚えた。
苦しさの正体は、自分でも分かっていた。
屈辱と、焦燥。
自分の中に烙印のように刻み込まれた負の感情。
それは、消したいからといって消えてくれはしない。
消すためには、自分が何者かにならなければならないのだから。
傲岸に胸を張って、世間の目を見返すことのできる、何者かに。
だからその屈辱と焦燥は、もう切り離すことのできないトルクの一部だった。
学院に入学して一年が過ぎ、トルクといつも一緒にいるデグとガレインも彼のそんなところをおぼろげながら理解するようになっていた。
最初のうちは不用意に近付いて殴り合いになったりしていたが、最近は二人とも距離感を覚えて来たらしく、トルクが荒れていることに勘付くとあまり近付いてこない。
だからといってトルクはこの二人を自分の理解者だと尊重するつもりはなかった。
離れたいなら、いつでも離れて行けばいい。俺は他人に、ましてや平民の有象無象に合わせてやるつもりなんてこれっぽっちもない。
おかしなもので、そういう態度をとればとるほどガレインとデグはいっそうトルクに心酔するようになり、彼を閉口させた。
いつものように、トルクが二人を引き連れて森の中の小道を歩いているときだった。
「どうするんだ。こんなことをしてしまって」
突然そんな声が聞こえてきて、トルクはそちらに目をやった。
上級生。
自分達よりも一学年上の、三年生の男子が険しい顔で女子生徒を睨みつけていた。
「ティアだ」
デグが呟く。三年生に睨まれて今にも泣き出しそうな顔をしているのは、同じ学年の女子のティアだった。
そんな名前だったか。
平民の女子の名前になど何の興味もないトルクは、肩をすくめる。
「これじゃ採取どころか観察もできやしないじゃないか。君が責任を取ってくれるのか」
妙にねちっこい口調で、三年生の男子生徒は言った。
「ごめんなさい」
ティアが消え入りそうな声で謝罪したが、三年生はまるで心を動かされてはいないようだった。
「まったく、どうしてこんなところに入り込んだんだ。無知とは恐ろしいものだな」
「あいつ、デリブだ」
デグが囁く。それがこの三年生の名前だった。
「いつもモルフィスやジェビーとつるんでる嫌なやつ」
トルクには、その気取った喋り方をする生徒の名前もどうでもよかった。モルフィスやジェビーの名は、以前殴り合いのケンカをしたことがあるので知っていたが、こんな奴は知らない。
くだらねえ。
無視して通り過ぎようとしたトルクだったが、デリブが次に口にした言葉に足を止めた。
「本当に今年の二年は揃いも揃って無能ばかりだな。貴族の生徒にしたところで、ほとんどが貴族にあって貴族にあらず、みたいな家の出ばかりだし」
ため息交じりのその言葉が、トルクの気に障った。
ぽこり、と例のあれが水面に浮上した気がした。
その瞬間脳裏をよぎったのは、自分が初めて参加したガライ貴族のパーティの記憶。
華やいだ場の中心で堂々としている長兄が、誰よりも輝いて見えた。その光の下で、トルクは自分も特別な存在なのだと信じることができた。
だが二度目のパーティでは、全てが変わっていた。
前回、あれほど親しく一緒に遊んだはずの同年代の少年たちが。笑顔で兄を取り巻いていたはずの青年たちが。こちらに話しかけたそうにちらちらと視線を送ってきていたはずの少女たちが。
まるで別の何かを見るような、あの目。目。目。
それとともに囁かれていた言葉。
家名が残っただけでも幸運とすべきだ。
シーフェイ家はもはや、貴族にあって貴族にあらず。
うるせえな。
突然デリブたちの方へ足を向けたトルクを、デグが驚いたように呼び止める。
「トルク、行くのかよ」
トルクは返事もしなかった。
気に入らねえ。
彼の心を占めていたのは、ただそれだけだった。
「よう、聞こえたぜ」
突然、乱暴な口調で割って入ってきたトルクに、デリブは眉をひそめた。
「ん? 何だ、君は」
そう言って値踏みするようにトルクを見る。
「関係のない人間は、入ってこないでくれ」
「関係あるだろう」
トルクは凶暴な笑みを浮かべた。
「俺だって、揃いも揃って無能な今年の二年の一人なんだからよ」
「なに?」
デリブはあからさまに面倒そうな顔をした後、ああ、と何かを思い出したように頷く。
「そうか、君は確か」
だが、そこで口をつぐんだ。トルクの後ろからさらに体格のいい二人の少年がやって来たからだ。ガラの悪そうな二年生の男子三人を前に、デリブは己の不利を悟ったようだった。
舌打ちとともに、邪険に手を振る。
「まあいい。僕は彼女がここに勝手に立ち入ったことを叱責していただけだ」
そう言って、真っ青な顔で成り行きを見守っていたティアをもう一度睨む。
「ここにはエイルアリの巣があったんだ。無知な君たちは知らないだろうが、エイルアリは踏み荒らされた場所にはもう二度と巣を作らない。あのアリの蟻酸には魔術的に非常に貴重な」
「ここに、勝手に立ち入った?」
デリブの話に構わず、トルクはゆっくりと周囲を見回した。
「どこにも立ち入り禁止の柵も看板も見当たらねえけどな」
そう言って、挑戦的にデリブを見る。
「それともここだけはお前の私有地なのか」
「屁理屈を」
失礼な物言いにむっとしたデリブだったが、トルクの凶悪な眼光と、その後ろに立つ二人のトルクに盲目的に付き従いそうな気配に、やや怯んだ顔をした。
「とにかく、君達はもう少し森の知識を深めるべきだ。ここは魔術師にとって貴重な学びの場なんだ、ただの遊び場所ではない」
そう言うとデリブはもうティアには目もくれず、さっと身を翻した。
「このことは先生に報告するからな!」
捨て台詞を残して足早に去っていくその背中を見送って、デグが「へっ」と笑う。
「あいつ、ジェビーたちと一緒のときはすげえ強気なのにな。一人のときは口ほどにもねえな」
「あ、ありがとう」
ティアがおそるおそるお礼を言いかけたときには、トルクはもう彼女に背を向けていた。
屈辱と焦燥。
デリブの言葉に勝手に触発された、身を焦がすような苛立ちだけが不完全燃焼のまま残っていた。
デグだろうがガレインだろうが、少しでも気に障れば殴り飛ばしてしまいそうだった。
一人にならなければ、見境なく誰でも傷つける。
「いいって、いいって。災難だったな、あんな奴に絡まれて」
デグが自分の手柄のようにティアに応えているのに構わず、トルクはその場を後にした。
「あ、トルク」
追おうとするデグの肩を、ガレインが掴む。それでデグも察し、後を追うのをやめた。
「おい、トルク・シーフェイ」
寮の廊下の暗がりで、不意にそう呼び止められたのは、その日の夜のことだった。
姓まで付けて名を呼ばれるのは久しぶりだった。
振り返ると、気取った笑顔のデリブが立っていた。
その両脇には、体格のいい男子生徒が二人。いずれも、名前も知らない三年生だった。
「君、今日はこの僕に対してずいぶんと生意気なことを言ってくれたじゃないか」
仲間がいるおかげで、昼間とはうって変わりデリブは余裕たっぷりだった。
「エイルアリの貴重さも分からない無能な二年の中でも、君は飛び切りの無能だ」
デリブはそう言って、トルクに指を突き付けた。
「君のそのごろつきみたいな態度は、今すぐに改めるべきだ。そんな品のない態度でノルクの街を闊歩されでもしたら、学院全体の評判に関わる。今まで諸先輩方が連綿と築き上げてきた――」
デリブはそれ以上、言葉を続けられなかった。ものも言わずに、トルクが猛然と殴り掛かってきたからだ。
「ぐぶっ」
まともに顔面を殴り飛ばされたデリブが吹っ飛ぶのを見た両脇の生徒が、慌ててトルクの身体を押さえ込む。
「貴様っ」
「恥を知れ、野蛮な真似を」
うるせえ。
押し倒されそうになりながら、トルクは野獣のように拳を振るった。
相手が何人だろうと関係なかった。
心の水面に顔を出した屈辱と焦燥が、トルクの身体を激しく衝き動かしていた。
何者でもない自分。
トルク・シーフェイでしかない自分。
何者かになるには、時間が要る。だが、それを待てない。
自分の成長を、努力の結実を、待つことができない。
いつだ。それはいつなんだ。
くそみたいな地道な努力をいつまで続けたら、俺は強くなれるんだ。
現実に逆らうかのように、トルクは荒れ狂い、拳を振り回し続けた。
結局は、多勢に無勢だった。
魔法で身動きまで封じられたうえで、トルクは散々に殴られた。
それでも立ち上がろうとする下級生を見て、三年生の三人はさすがに潮時と考えたようだった。
生徒同士の多少のケンカに学院は立ち入らないが、下級生にあまり大きな怪我をさせれば、話は別だ。
「もう僕らに関わるなよ」
最後の警告のつもりだったのだろう。デリブが言った。
「こっちは君みたいなつまらない人間に関わっている暇はないんだ」
そう言って、切れて血で染まった唇を手の甲で拭く。
「ああ、痛い。君も、それが噛み付いても良い相手かどうか、よく考えることだ。野良犬みたいに誰にでも見境なく噛み付こうとするな」
野良犬だと。
トルクが、跳ねるように立ち上がった。
その目に、それまで以上に凶暴な光が宿っていた。
「うっ」
気圧されたデリブが身を引く。
俺は、誰だ。
流れる鼻血もそのままに、トルクはまた飛びかかっていった。
俺は、トルク。
シーフェイ家のトルクだ。
野良犬でも、飼い犬でもねえ。
「こいつ」
「押さえろ」
三年生たちの怒号。
大ごとになるのを恐れたのか、デリブの顔が引きつっていた。
腹を、肩を、額を殴られ、それでもトルクは拳を振り回した。
噛み付く相手は、俺が決める。
誰の指図も受けねえ。
俺が決めるんだ。
それが虚勢であることは自分でも分かっていた。
そんなわがままを貫き通せるほど、自分が強いわけではないということも。
けれど、身体を衝き動かすその屈辱と焦燥を鎮めるすべを、トルクはほかに持たなかった。




