抱擁
時折よろめきながら、灰色のローブの魔術師が庭園の向こうへと走り去っていくと、厳しい表情でそれを見つめていたウェンディはようやく緊張を解いた。
貴族の令嬢はたちまちあどけない少女に戻った。
「アルマーク!」
目を潤ませてアルマークに駆け寄ったウェンディは、そのまま彼に抱き着いた。
「ウェンディ」
彼女の身体をしっかりと抱き締め、その存在を確かめるようにアルマークは名前を呼んだ。
「よかった」
「ありがとう、アルマーク」
ウェンディはアルマークの肩に顔をうずめる。
「あなたが無事で、本当によかった」
「僕だけじゃないよ」
ウェンディを安心させるように、アルマークはウェンディの背中を叩く。
「みんなも無事だよ。モーゲンもネルソンもノリシュもレイラもトルクもリルティも、みんな全員。君を助けるために、みんなが戦ってくれたんだ」
その言葉に、ウェンディは苦し気な吐息を漏らす。
「私、みんなを大変なことに巻き込んじゃった」
「君じゃない」
アルマークは即座に否定した。
「巻き込んだのは、ライヌルだ」
「でも」
「君が気に病む必要なんか、少しもない」
アルマークはそう言って、努めて明るい口調で続ける。
「そんなことより、やっぱり君はすごいな」
「何が?」
「ライヌルのことさ」
アルマークはウェンディの肩越しに、ライヌルの逃げ去った方向を見た。
「僕にはあいつの気を逸らすのが精一杯だった。でも君は一睨みしただけであいつを退けてしまった」
「そんな」
ウェンディは顔を伏せたまま、小さく首を振る。
「あの人は自分で勝手に何かに怯えていたわ。あれは別に私の力じゃない」
庭園の奥から、濃い瘴気のようなものが立ち上っていた。
ライヌルはそこに逃げていったのだろう。
おそらく、イルミス先生と戦った場所だ。
先生の安否も気にかかる。追わなければならない。
アルマークには、ここまでの準備をしてきたライヌルが、無様に逃げ出したままで終わるとはとても思えなかった。
ライヌルは、この戦いに全てを賭けていたはずだ。
それは、前回は避けたイルミスとの戦いを今回は逃げなかったことからも明白だった。
だからこそ、ウォリスの作戦でピルマンに出し抜かれたとき、あんなにも怒りを露わにしたのだ。
きっと、次はない。ライヌルがその覚悟を持っている以上、ここで勝負を決するべきだ。
頭ではそう分かっていたが、アルマークの感情は別だった。
アルマークの心は今、抱き締めたウェンディのことでいっぱいだった。
「ウェンディ」
アルマークはもう一度名前を呼んだ。
「うん」
肩に顔をうずめたままのウェンディが、くぐもった声で答える。
本当に戻ってきたんだ。ウェンディが。
それが嬉しくて、アルマークはまた「ウェンディ」と呼びかける。
「うん」
ウェンディが答える。
「ウェンディ」
「うん」
「ウェンディ」
「うん」
「ウェンディ」
「……もう」
目を真っ赤にしたウェンディが恥ずかしそうに顔を上げた。
「何回呼ぶの」
少し困ったような言い方が、愛おしかった。
「何回でも」
アルマークは答える。
「君がちゃんと僕の腕の中にいるんだって、僕がはっきりと信じることができるまで、何回でも呼ぶよ」
北から来た少年の直截的な物言いに、南の少女は頬を染める。
「私はここにいるわ」
ウェンディは言った。
「あなたや、みんなのおかげで。今ここにこうして立っているわ」
「うん」
アルマークはウェンディを抱き締める腕にもう一度力を込めた。
「本当によかった、ウェンディ」
「うん」
頷いて、ウェンディは切なそうな吐息を漏らす。
「……あの腕輪に捕らわれている間、みんなのそれぞれの戦いが見えていたわ。きっと私の魂が石の魔術師たちと繋がっていたんだと思う。声は聞こえなかったけど、みんなの表情まではっきりと見えていた」
ウェンディの声は震えた。
「恐ろしい石の魔術師を相手に、みんなそれぞれすごく傷ついて、それでも必死に戦ってくれていたわ。私、みんなに何てお礼を言えばいいのか分からない」
「それは」
君のせいじゃない、とアルマークはもう一度言おうとした。
けれど、ウェンディの次の言葉にアルマークは言葉を失う。
「でも、きっとそれが運命を背負うっていうことなんだろうね」
ウェンディは言った。まだ微かに震えてはいたが、それでもしっかりとした声で。
「私はこれからも、そうやってたくさんの人を自分の運命に巻き込みながら、生きていくしかないのね」
「ウェンディ」
「それが当然だとは思わない。でも、私は自分のことが可哀想だなんて絶対に言わない」
その声に込められた強い決意に、アルマークの胸は詰まった。
「私、ライヌルに捕らわれている間中、ずっと考えていたの。自分にできることは何だろうって」
そう言うと、ウェンディはゆっくりとアルマークから身体を離した。
腕を下ろして向かい合ったアルマークの顔を、ウェンディがまっすぐに見つめる。
闇の魔術師を怯えさせた、その気高く強い意志を秘めた目で。
「運命に負けないこと」
ウェンディは言った。
「自分の背負うものに恐れをなして、歩みを止めてしまわないこと。私がみんなから受けた恩を返すには、きっとそうするしかないんだって思ったの」
恩。
懐かしいその言葉の響きに、アルマークの心は震えた。
そうか。君も。
アルマークは思った。
君も、恩を背負って生きていく人なんだな。
ウェンディは、強い。
改めてそう実感する。
きっと、この学院の生徒の誰よりも。
「だから、今はあの人を止めなきゃならない」
ウェンディの声に、迷いはなかった。
「そうよね、アルマーク」
「ああ」
アルマークは頷いた。
「君の言う通りだ。今はライヌルを追わないと」
やるべきことを果たす。
いつまでも自分の感情に溺れている場合ではない。
アルマークもきっぱりとその切り替えのできる、というよりもできなければ生き抜けない環境で育ってきた少年だった。
二人は頷き合って、それからピルマンを振り返った。
ピルマンは魔力を打ち消す台座の上に腰かけ、二人に背を向けて足をぶらぶらさせていた。
「ごめん、ピルマン」
アルマークは声を掛けた。
「お待たせ」
「ああ、終わったのかい」
ピルマンが振り返る。
「僕のことなんか気にしなくていいのに」
「ありがとう、ピルマン」
ウェンディが言った。
「怖い思いをさせて、ごめんなさい」
「君が無事でよかったよ、ウェンディ」
ピルマンはにこりと微笑んだ。
「元気な君に、ありがとうって言ってもらえて嬉しいよ。でも、ごめんなさいは無しだ。他の子に会うときもだよ。僕らは、君から謝られるようなことは何一つされていないんだから」
その言葉にまたウェンディが目を潤ませる。
「……うん」
「これから、あいつを追うんだろ?」
ピルマンは言った。
「いよいよ最後の戦いだね」
「ああ」
アルマークは頷く。
「そのことなんだけど、ピルマン」
そう言って、アルマークはちらりとウェンディを見た。ウェンディも彼の意図を察し、頷く。
「ここからは、僕とウェンディの二人で行こうと思う」
アルマークは言った。
「申し訳ないんだけど、君は……」
「ああ、分かってるよ」
ピルマンは片手を挙げてアルマークの言葉を遮った。
「ウォリスからの任務だけは何とか果たせたけどね。僕も正直、これ以上は場違いだぞって思ってた。ここからはもう、君たちの足手まといにしかならないだろうなってね」
「足手まといとか、そういうつもりはないんだ。ただ……」
「いいんだ」
ピルマンは微笑む。
「ウォリスにも、君は役目を果たしたら帰ってこいって言われてるしね。実際、闇の魔術師と対峙するのはすごく怖かったよ。自分でも分かる。ウォリスに言われなくたって、これ以上は僕には無理だ」
そう言って、台座からぴょんと飛び降りる。
「階段を下りて、みんなのところに戻るよ。ウェンディが目を覚ましたって伝えておく」
「うん」
「ありがとう、ピルマン」
「僕の方こそ。君たちの力になれなくてごめんよ」
ピルマンはそう言うと、少しだけ悔しそうに付け加えた。
「きっとモーゲンなら、それでも君たちと一緒に行くって言うんだろうな」
モーゲン。
その名前を聞いただけで、アルマークは自分の心に穏やかな風が吹き抜けるのを感じた。
そうだ。この場にモーゲンがいてくれれば。
僕と、ウェンディ。そしてモーゲン。
この三人が揃っていたなら、どれだけ心強かったことだろう。
「うん、モーゲンならそう言うと思うわ」
アルマークと同じ気持ちだったのだろう、ウェンディもピルマンの言葉に笑顔で頷いた。
「だってモーゲンは、この世で一番勇敢な人だから」
「すごいな」
ピルマンは笑った。
「君にそんな風に言われたって知ったら、きっとモーゲンも喜ぶね」
そう言った後でピルマンは、いや、と首をかしげる。
「それとも、困った顔をするかな」
「きっとそっちよ」
「僕もそう思う」
アルマークも笑顔で頷いた。
「それじゃ行くよ。二人とも、どうか無事で」
手を振って歩き去っていくピルマンを見送り、アルマークとウェンディは、はるか向こうに立ち上る瘴気の方角に向き直った。
そこに、ライヌルがいる。
「行こう、ウェンディ」
「ええ」
空を、夜の闇が包もうとしていた。
二人は並んで歩き出した。




