貴種
「ウェンディ!」
アルマークは叫んだ。
駈け寄ってくるアルマークを、ウェンディはちらりと見た。
「ごめんなさい、アルマーク」
ウェンディは言った。
「先に、これの始末を付けちゃうね」
そのまま、両腕をぎゅっと絞るようなしぐさ。それと同時に、ライヌルの放った闇の濁流を包む光の網がぎりぎりとすぼまっていく。
「ぬうっ」
自慢の闇が、これではまるで漁師の網に絡みついた大量の藻草のような無様な姿だった。ライヌルは呻いて腕を振り、闇を全て消し去る。
ウェンディも光の網を消して、手を下ろした。
「これはこれは、ウェンディお嬢様」
ライヌルは慇懃に、ウェンディに向き直る。
「さすが、ご立派な血筋の生まれだけあって、ご立派な魔法をお使いになる」
挑発するように、口元に笑みさえ浮かべながら、ライヌルは言った。
「いかがですか、お目覚めのご気分は。いい夢が見られましたか…な…」
芝居がかったライヌルの軽妙な口調は、途中で不自然に途切れた。
自分を真っ直ぐに見つめるウェンディの強い瞳と目が合ったからだ。
「ライヌル」
ウェンディは静かに言った。
「私は、あなたを許しません」
アルマークのよく知る、クラスメイトのウェンディの口調ではなかった。
だが、アルマークはそのウェンディも知っていた。
夏の休暇、ミレトスの冬の屋敷で警備の人間たちの遺体を前に、全ての責任を背負って立っていたウェンディ。
それは、大貴族の令嬢としての彼女の姿だった。
ウェンディの言葉に、ごく限られたものだけが持つことのできる冒しがたい威厳が込められているのがアルマークにも分かった。
その目が、言葉が、何の小細工もなくただ真っ直ぐに闇の魔術師を捉えていた。
「許さないだと」
ライヌルは、笑おうとした。
許さなければ、どうだというのかね。
そう挑発しようとしたが、口から出てきたのは途切れかけた吐息だけだった。
「か、は」
まるで浜辺に打ち上げられた魚のように、ライヌルは喘いだ。
ライヌルを見つめるウェンディは表情を変えない。
ただ、静かな怒りをその瞳に湛えていた。
「……やめろ」
ついに、かすれた声でライヌルは言った。
「私を、その目で見るな」
ライヌルの声には、隠し切れない恐怖が滲んでいた。
アルマークの前でライヌルがそんな感情を見せるのは、今日初めてのことだった。
宿敵とも言えるイルミスに乱入されたときも、アルマークに傭兵の戦法で一太刀浴びせられたときも、ウォリスの策略に裏をかかれたときも、ライヌルは怒りや焦り、動揺は見せたが、恐怖を見せることは決してなかった。
しかし今、ライヌルの声は無様なほどにかすれ、その身体は取り繕うこともできないほどに震えていた。
そういえば。
アルマークには思い当たることがあった。
魔術祭の時もそうだった。
魔術祭の初日、アルマークとウェンディの前に突如現れたライヌル。
あのときも、ライヌルはウェンディに見据えられ、まるで自分が怯えていることをごまかすかのように卑屈な笑みを浮かべたのだ。
ライヌルは、ウェンディを恐れている。
それが何故なのかまでは、アルマークには分からなかった。
だが、闇の魔術師はいまや、寮の管理人のマイアにいたずらを見付かった新一年生もかくや、という醜く引きつった顔をしていた。
「あなたはたくさんの人を傷つけた」
ウェンディは言った。
「私の大事な人たちを」
「……よせ」
ライヌルは何かから自分の身を護ろうとするかのように両手を前に突き出す。
「やめろ」
それに答えず、ウェンディはゆっくりと目を閉じた。
一瞬のち、その目を開いた時、頬には一筋の涙が伝っていた。
「許さない」
じゃり、と地面を擦る音。
ライヌルが後ずさったのだ。
そうか、光だ。
アルマークは思った。
ライヌルにとって、ウェンディは光なんだ。
あれはネルソンと三人で庭園の迷路に入ったときのことだっただろうか。
そのとき、ウェンディはこう言ったのだ。
灯が強いと、影も濃くなる、と。
光が強ければ、その影で闇もまた暗さを増す。
ならば、その逆もあるのではないか。
闇が深ければ、そこに灯される光もまた明るさを増す。
きっと、ライヌルはウェンディの何物をも恐れない、まっすぐできっぱりとした態度に恐れを抱いているのだ。
魔術祭のとき、ライヌルが卑屈な笑みを浮かべることで恐怖をごまかせたのは、ライヌル自身の闇がまだそこまで深くなかったからだ。
しかし今、ライヌルの全身をくまなく侵しているのは、あの時とは比べものにならないほどに濃い闇なのだろう。
だからこそ、ウェンディの光をあの時よりもはるかに強く感じているのだ。
もはやごまかすことなどできず、ライヌル自身の身体を焼き焦がすほどに。
そのアルマークの推測は、ほとんど当たっていた。
事実、ライヌルは恐れていたのだ。
何の背景も持たぬ自分とは全てが正反対な、この少女を。
ウェンディの背後にそびえる巨大な山脈のような、その一族の歴史の重みを。
ライヌルは別に、貴族を恐れているわけではない。
どんな高貴な生まれだろうが、自分が貴族であることに誇りを持っている者や、それを心のよりどころにしているような輩など、何人いようがライヌルはまるで怖くなかった。
貴族であることを強く意識しているということは、そこをくすぐってやれば取り入ることができるし、逆にそこを崩してやれば支配するも踏みにじるも思いのままだったからだ。
貴族など、弱い。
自分の抱える劣等感の裏返しで、そう考えていた時期もあった。
だが、ライヌルは知らなかったのだ。
本当に恐ろしい、真の貴種とは。
自分が貴種であるという自覚すらなく、あらゆる場面においてごく自然にその気高さを発揮する人間。生まれながらにして持ったもの、持たされたもの、その全てを意識もせずに一個の人格の中に矛盾なく内在させている人間。
ウェンディの目に見据えられると、ライヌルは自分の卑屈な企ての全てが高いところから見下ろされている気がして、落ち着かなくなった。真っ直ぐに見返してやることがどうしてもできなかった。
ライヌルがウェンディの魂を狙ったのは、もちろん彼女が“門の少女”だったからという理由もある。
だがそれ以上に、ライヌルにはウェンディが怖かった。
今、こうして彼女に見つめられているだけで、胸をかきむしりたくなるほどの恐怖が彼を襲っていた。
これは、闇の副作用だ。
闇の力を得たことで、自分の劣等感までもが歪に膨れ上がってしまったのだ。
それはライヌルにも分かっていた。
だが、その恐怖はもはや理屈で制御できるものではなかった。
「ライヌル!」
ウェンディが声を上げた。
「この世界を消して、みんなを解放しなさい!」
「ひっ」
限界だった。
闇の魔術師は無様に身を翻すと、転がるようにして逃げだした。
走り去っていくライヌルの背中を呆然と見送った後で、ようやくアルマークは我に返った。
同じく呆然としていたピルマンと目が合う。
「あいつ、逃げて行ったよ」
「う、うん」
アルマークは頷く。このまま逃がすわけにはいかない。追わなければ。
「あ」
突然ピルマンが慌てたように片手を挙げた。
「僕のことはお構いなく」
「え?」
何がだい。
だがアルマークはピルマンにそう尋ねることはできなかった。
その時には、陰の殊勲者ピルマンはもう横を向いてくれていた。
「アルマーク!」
横から、柔らかな身体が抱きついてきた。
その声にはもう貴族の威厳など微塵もなかった。
明るく優しい、大好きなクラスメイトの少女の声。
「ウェンディ」
アルマークはその身体をしっかりと抱きとめた。
「よかった」




