挑発
「イルミス先生はあなたの才能を認めていたんだ」
アルマークの言葉に、ライヌルはぎょろりと目を剥いた。
一瞬の沈黙。
闇の魔術師はそれから鼻で笑ってみせた。
「何を言うのかと思えば」
呆れたようにため息をつく。
「君のそういうところが、私には本当に理解できない。まるで老練な兵士のごとき抜け目なさを見せたかと思えば、その一方でイルミスの語る薄っぺらい理想論を無邪気に信じていたりもする。まあその歪さこそが、君がこの南の世界では異邦人なのだという証なのかもしれないがね」
ライヌルはそう言って、アルマークの顔をまたその黒々とした目で覗き込んだ。
「だが、北の人間すべてが君のようだというわけではないのだろう? 音に聞く野蛮な北の傭兵どもが、君のように奇妙な二面性を両立させている人間ばかりだとはとても思えないがね」
「話を逸らすな、ライヌル」
アルマークはぴしゃりと言った。
「あなたは自分の都合が悪くなると、そうやって人を煙に巻こうとする。それで全てをうやむやにしてしまうんだ。だけど、もう向き合う時だ。本当はあなたにだって分かっているはずだ。イルミス先生がどんな人で、あなたをどんな風に見ていたか」
「黙れ」
アルマークの言葉は、ライヌルに遮られた。
先ほどまでの軽い口調が嘘のような、低い声だった。
「分かったようなことを。初等部を卒業してもいないひよっこが、私とイルミスの関係を語ろうというのか。よりにもよってこの私に。運命をも手玉に取ったこの魔術師ライヌルに」
ライヌルの言っていることは、ひどく混乱している。
それはアルマークにも分かった。
初めて会った武術大会から、魔術祭の初日、そして今回。
それぞれの場面で様々な側面を見せてきたライヌルだが、その言動には一貫した狙いのようなものが垣間見えていた。
だがこの庭園で対峙してから、ライヌルの言動は加速度的に破綻をきたし始めている。アルマークはそう感じていた。
その原因は、おそらく。
アルマークは、ライヌルの首のあたりでまだなお蛆虫のように蠢く闇の塊を見た。
ライヌルの中に入り込んだ、闇。
それが、この極めて優秀な魔術師をもってしてもなお、子供に容易くその論理の齟齬を指摘されてしまうほどに、言動を破綻させてしまっているのだ。
闇の力。
いままでアルマークはその邪悪な力そのものとも言える闇の眷族どもと戦ったことはあった。だが、闇の力をその身に宿した魔術師と対峙したことはなかった。
だから、闇が人を内側から食い尽くしていこうとするさまをこうして目の当たりにするのは初めてだった。
ライヌルという一個の人格が、死に瀕している。
それでも、今この男に同情するわけにはいかなかった。
自分たちの一挙手一投足に、仲間たちの、そしてウェンディの命と未来とが懸かっているのだから。
「ああ。そんなくだらないことよりもほかに、私にはもっと大事なことがあったじゃないか」
不意にライヌルが不自然な平板さで言う。
「なあ、アルマーク君」
ピルマンに出し抜かれた怒りが徐々に冷めつつある。
まだ早い。
アルマークは思った。
ウェンディにはまだ、もう少し時間が要るんだ。
「運命を手玉に取っただって?」
そう言って、アルマークは口元に薄笑いを浮かべた。
「子供にすら簡単に手玉に取られたあなたが、かい?」
その言葉に、ライヌルが微かに眉をひそめる。
いいか、アルマーク。
挑発は、相手を見て言葉を選べ。
父の言葉が蘇る。
誰にでも、同じ言葉が効くと思うな。
相手によって、触れられたくない部分は違う。刃みたいに心に突き刺さる言い回しだって、それぞれ違うんだ。
頭が単純な人間を相手に遠回しな皮肉を言ったって、わかりゃしねえ。
逆に教養人ぶっている相手に子供の口喧嘩みたいな悪口を言ったところで、こっちが見下されるだけだ。
だから、相手をよく見ろ。
心を見透かして、そいつの一番誇りに思っているものを、一番言われたくない言葉で傷つけてやるんだ。
そこまで話したところで、明らかにアルマークの顔が曇っていたからだろう。
まあ、お前には向かねえか。
そう言ってレイズは、自分の言葉を和らげるかのように、アルマークの頭を撫でた。
いいか。大抵の傭兵は、臆病者だと言われることを嫌う。だから言ってやれ。足が震えて前に出てこられねえんだろうから、こっちから行ってやるよ。漏らしたしょんべんの始末でもしてそこでおとなしく待ってろ、ってな。お前みたいなガキにそんな風に言われたら、誰だって逆上する。
レイズはそんな風に、いくつかの挑発文句を教えてくれた。
それは、北から南への長い旅の途中、アルマークの命を救う助けにもなった。
けれど。
アルマークは目の前に立つ闇の魔術師を見た。
この人には、その言葉は通用しない。父さんの教えてくれた言葉は、傭兵やそれに類する人たちには効果覿面だろうけれど、どれもこの人には当てはまらない。
だが、魔術師の世界に足を踏み込んだアルマークには分かる気がした。
今のライヌルの、言われたくないことが。
だから、アルマークは口を開いた。
「運命はあなたを逃がしてなんかいないさ」
薄笑いを浮かべたまま、アルマークは言った。
「ライヌル、あなたはこの空の下で」
そう言って、マルスの杖を真っ直ぐに掲げて空を差す。暗くなりかけた空に、星が瞬いていた。
「太陽と星の照らすところ以外の、どこへだって行けやしない」
次の瞬間、ライヌルの身体の中で闇の力が爆発的に膨れ上がるのが分かった。
かかった。
アルマークはこれ見よがしにライヌルの前を横切るようにして走った。
「あなたの魂は、今も運命の鎖に繋がれたままだ、ライヌル!」
「貴様がそれを言うか!」
ライヌルは叫んだ。
「己が何者かも弁えずに貴様が! よくもぺらぺらと!」
いいぞ。
アルマークは走った。
僕を追って来い、ライヌル。
ウェンディの魂が戻るまでの間、どこまでだって逃げ回ってやる。
だが、ライヌルはアルマークを追わなかった。代わりに闇の魔術師は、にやりと微笑んだ。
「君はそうやって、私を自分の手の中で転がしたつもりかね、アルマーク君」
「なに」
アルマークは足を止める。
ライヌルは、振り向いた。ピルマンの方を。
「慣れない挑発などするものではないよ。私こそ、君の嫌がることが手に取るように分かる」
ライヌルがピルマンに向けて左手をかざす。たちまちその手が黒い闇に覆われた。
いけない。
「逃げろ、ピルマン!」
アルマークは叫ぶ。
「う、うわ」
ピルマンがとっさに姿消しの魔法で姿を消した。
「ふん」
だが、ライヌルは身じろぎ一つせずにその魔法を打ち破った。
まるでローブを乱暴に剥ぎ取られるかのように、ピルマンの姿が露わになる。
「この私の前で、そんな児戯をこれ以上得意げに見せるな」
「やめろ、ライヌル!」
アルマークの撃った気弾の術は、ライヌルに届くまでもなく四散した。
「言ったろう、次は魔術師の戦いだと。雑魚にはさっさと退場してもらう」
ライヌルの手から闇の濁流が迸り、ピルマンを呑み込んでいく。
「うわあああっ」
ピルマンの絶叫。
「ピルマン!」
叫ぶアルマークの視界を、闇が全て覆い尽くしていく。
耐えがたいほどの腐臭と、暗黒。
「……は」
ライヌルが息を吐いた。
その吐息が、震えていた。
「これは」
まだ、太陽の残光は空にあった。闇はそれを包み込めはしなかった。
なぜなら、闇の濁流はぴたりと押し留められていたからだ。
一筋のほつれもない、光り輝く美しい網によって。
まさに自分の目の前ぎりぎりのところで闇が止まったのを見たピルマンが、ぺたりと尻もちをつく。
「まさか」
ライヌルの声に、この日初めて見せる感情が混じっていた。
怒りでも焦りでもない。
それは、恐怖だった。
……ああ。
アルマークは我を忘れて、駆け出していた。
右手を真っ直ぐに掲げるその少女の目に、強靭な意思が宿っていた。
伝説の魔法具をもってしても傷つけることのできなかった気高い魂が、今その身体に戻っていた。
「ウェンディ!」
駈け寄りながら、アルマークは叫んだ。
厳しい表情のまま、けれど力強く、ウェンディが頷いた。




