名も知らない生徒
「ピルマン」
アルマークがその名を呼ぶと、初等部三年二組最後の生徒、ピルマンはにこりと微笑んで小壜の蓋を開けた。
しゅうっ、という音とともに煙のようなものが一瞬散ったように見えた。
壜の中には、もう何もなかった。
「ああ。よかった」
ピルマンが息を吐いた。
「ようやくこれで役目が果たせたよ」
清々しい表情で笑うその少年の顔を、闇の魔術師は呆然とした表情で見つめた。
「……ピルマン。ピルマンだと」
ライヌルは呟いた。
「いったい誰だ。ピルマン? ピルマンだって?」
訝し気に口の中でその名を繰り返す。
「イルミスでも、アルマークでも、ウェンディでもウォリスでもなく、ピルマンだと? まさかそんな平凡な、名も知らないつまらぬ生徒に」
ライヌルの声がひび割れた。
「崩されたというのか。運命さえも乗り越えたこの私の遠大な計画が」
ライヌルの肩が、痙攣するように二度三度と震える。
アルマークはライヌル越しにピルマンに声を掛けた。
「ピルマン。教えてあげるといいよ、この人に。君が今、どうしてその場に立っているのかを」
「ああ、説明してもいいのかい?」
ピルマンは嬉しそうに頬を紅潮させる。
「だいぶ驚いてるみたいだもんね」
「うん。教えてやってくれ、君の口から」
アルマークは微笑んだ。
ライヌルに対して自分たちの勝利を誇ろうなどというつもりは、アルマークには毛頭なかった。
むしろ、その逆だった。
ピルマンが小壜の蓋を開けた後、アルマークは素早く慎重に、隣に立つウェンディの様子を窺った。
ウェンディのぼんやりとした表情には、その時から今までまだ変化が見られない。
だがアルマークは魂の深いところで感じていた。
ウェンディは、この身体に帰ってきている。
先ほどアルマークの魂がライヌルの魔法に捕らわれたときもそうだった。
代わりにアルマークの身体を動かした呪われた剣士がすぐに魂を解放してくれたものの、アルマーク自身が身体を動かせるようになるまで少し時間がかかった。
だから、きっとウェンディにもそれと同じことが起きているのだ。
魔法の種類が違うので、どれくらいの時間がかかるのか、それははっきりとは分からないが。
だからこそ、今自分に背を向けてピルマンを見つめているライヌルの注意を、ウェンディの方に引き戻すわけにはいかない。
時間を稼ぐんだ。ウェンディが元の彼女に戻るまでの間、ライヌルの気を逸らしておくんだ。
だからアルマークはライヌルの注意をピルマンに向けた。
それは、いじましいまでの作戦だった。
もう二度と、ウェンディの魂をこの男に触れさせはしない。
それはアルマークにとって絶対的な命題だ。
だが、自分の表情にも挙動にも、アルマークはそんな気配は微塵も出さなかった。
逆に、余裕たっぷりの笑みを浮かべる。
かつての学院の首席、今は恐るべき闇の魔術を操る老練な魔術師、ライヌル。そんな恐ろしい男をまんまと手玉に取ったと、得意げに誇る少年。
アルマークはごく自然な演技で、そんな表情をしてみせた。
ピルマンの方はもう少し単純で、自分に課された役割を無事果たせた安堵から、自然と興奮して、口も滑らかになっていた。
「いやあ、ウォリスから、君には別の役割がある、なんて言われた時は本当にどうしようかと思ったよ」
台座の前で、ピルマンはそう言って微かに顔をしかめた。
「姿を隠して、イルミス先生たちが上った後でこっそりと階段を上れ、なんてむちゃくちゃな指示だと思ってね」
「ああ」
アルマークは頷く。
「でも君はすぐに頷いたじゃないか」
「このクラスで姿消しが一番得意なのは、僕だからね」
ピルマンは興奮した口調のまま、早口で言った。
「まあ本気を出したらきっとウォリスの方が上手いんだろうけど。それでも、姿消しは僕の一番の魔法であることに違いはないし、それを使ってウェンディを助けることができるなら最高じゃないか」
それから、ピルマンはこの樹上庭園へとつながる階段の方に目を向ける。
「こっそりゆっくり上ってきたら、この庭園の奥からもの凄い魔力を感じたから、怖くなっちゃってさ。階段の一番上の段に座ってずっと待ってたんだ。その後に爆発の音とかもしてきたから、本当に行かなくてよかったと思ったよ。いやあ、待ってる時間がすごく長く感じたな。だからアルマーク、君が上ってきてくれた時は心底ほっとしたよ」
「あの辺に、君がいると思ったんだ」
アルマークは申し訳なさそうに言った。
「だから、つい声を掛けてしまった」
「ああいうのはやめてくれよな」
ピルマンは苦笑いする。
「ばれるんじゃないかと思ってどきどきしたよ。せっかくここまで隠れ通してたのに」
「ごめんごめん」
庭園への階段を上り切る直前、ウェンディを抱きかかえたアルマークはつい「さあもう少しだよ」と声を掛けてしまっていた。
長い時間じっと姿を隠していたピルマンに対する労いの気持ちがつい出てしまったのだが、今にして思えば軽率だった。
幸い、ライヌルは気付かなかった。
「見つかるかとずっとびくびくしてたけど、実はそんな心配はなかったね」
ピルマンは軽い口調で言うと、ライヌルを見た。
「だってあんた、アルマークのことしか見てなかったからね。この台座まで回り込むこと自体はわけもなかったよ」
ただ、問題は台座に魔法を打ち消す力があったことだ。
だから、台座に置かれた小壜に手を伸ばせばピルマンの魔法が解け、その姿が現れてしまう。
それで、アルマークは命懸けでライヌルを台座から引き離そうと試み、そして見事それに成功した。
「ウォリスの差し金か」
ライヌルが絞り出すように声を発した。
「あの小賢しいガキめ。奴が指示を出したというのは、お前らが九つの石を取りに行く組分けをしているときか」
「ああ、そうさ」
ピルマンは頷く。
「闇の魔術師さん、あんた、あそこで僕らの前に出てきたときもアルマークや先生ばっかり気にして、僕らのことなんてちっとも見てなかっただろ。特に、僕みたいな目立たない生徒なんて、最初からいないみたいな扱いだった」
ピルマンの言葉に、ライヌルは頬をぴくりと動かした。
「あんたは大人だから、別に意識もしてないんだろうけどさ。そういうのって、僕ら子供はたとえ魔術師じゃなくたってすぐに気付くんだよね。ああ、この大人は僕に関心がないんだな、みたいなことはさ」
「関心など、あるものか」
低い、まるで地から湧き出すような声でライヌルは言った。
「お前のような、魔術師の端に引っかかるかどうかという程度の子供に、この私が関心を示すとでも思うのか。そんなむだな時間が私にあるとでも」
自分の言葉に触発されたように、ライヌルの声が太く、大きくなる。
「私が興味を持つのは選ばれた子供、選ばれた中からさらに選び抜かれ選りすぐられた子供だ。この世の全てから隔絶するような力を秘めた子供、数多の無能どもから遥かに抜け出し、世界を導けるような力を持った子供だ」
「でもあなたは、ピルマンに負けたんだ」
アルマークはライヌルの背後からそう声を掛けた。
「ライヌル。あなたがさっき甘いだとか無能だとか言っていたイルミス先生なら、そんなことは決して言わない」
ライヌルの背中がぴくりと震える。
「才能がない者など、この学院にはいない」
アルマークの言葉に、ライヌルがゆっくりと振り返った。アルマークは続ける。
「いるのは、才能を磨く者と磨かぬ者だけだ」
ライヌルは、これ以上は開かぬというほどに目を見開いた。
「イルミスか」
ライヌルは言った。
「それを言ったのは、イルミスか」
アルマークは答えなかった。ただ、黙って肩をすくめただけだった。
だが彼のその態度が、答えを雄弁に物語っていた。
それは夜の薬草狩りのとき、闇に堕ちかけたラドマールに対してイルミスがかけた言葉だった。
「あんな、何一つ私よりも満足にできぬ男が」
闇に侵されたライヌルの口から、醜い本音がこぼれ落ちた。
「貴族の息子でありながら、ろくに人付き合いもできぬ、取り巻きの一人も作れぬような男が。憐れに思ってこちらから友達になってやったというのに、いつの間にか私を裏切って霊鳥などを捕まえていい気になっていたあの男が、いけしゃあしゃあと子供相手にそんな耳あたりのいい御託を並べたのか」
ライヌルは目を見開いたまま、口の両端をぐい、と吊り上げる。
凄まじい形相だったが、アルマークには分かった。
笑った。
口を歪に吊り上げ、闇の魔術師ライヌルは笑っている。
「あの男は、全てを見下していたのだ。自分以外の全てをな」
ライヌルは叫んだ。
その口から、油のような闇が散った。
「自分こそが才能のある者だ、他は全て取るに足らないゴミクズだと心の奥底では思っていた。そうして、誰とも交わらずに孤高を気取って、才を隠し、能を隠し、最後には己の望むもの全てを掴んでみせた。この私が掴むはずだったものまでも。卑怯な男だ。卑劣な男だ。だから私がその息の根を止めてやったのだ。それの何が悪い」
「ライヌル。僕には、あなたの言っていることは分からない」
アルマークは静かに言った。
「イルミス先生との間に、昔何があったのかも知らない」
「ならば口を挟むな」
ライヌルの言葉にもアルマークは怯まなかった。
「でも、これだけは言える。先生は、きっと昔から変わっていない」
「なに」
「分からないのか」
アルマークはライヌルを見た。その鋭い眼光に、ライヌルが微かに眉を寄せる。
「才能のない者など、この学院にはいない」
アルマークはもう一度イルミスの言葉を繰り返した。
「この学院には、と先生は言ったんだ」
イルミスは、優れた魔術師だ。
だから、ありのままに物事を見る。言葉は力を持つ。
そのイルミスが言ったのだ。この学院には、と。
「だからその中には、ライヌル。あなただって含まれているんだ」
アルマークはライヌルから目を逸らさなかった。
「イルミス先生は、ともに学院生活を過ごしたあなたの才能を認めていたんだ」
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