誰だ
「待て」
ライヌルは叫んだ。その首にマルスの杖が叩き込まれる。
べきり、という鈍い音。ライヌルの首があらぬ方向に曲がる。
アルマークの一振りには、大の大人を一撃で絶命させるだけのすさまじい威力があった。
「ぐふっ」
血を噴きながら、ライヌルがそれでも左手を上げようとした。
その手に、アルマークは容赦なく杖を叩き込んだ。
踏みつぶされた枯れ葉のようになった左手から、それでもライヌルの魔法は効果を現した。
ライヌルは台座の前へと転移していた。
逃がすか。
アルマークは追おうとした。
だが、足が動かなかった。
「ああ」
ライヌルが末期の吐息のような呼吸を漏らす。
「やはり、備えは大事だな」
首をあらぬ方へと曲げたまま、闇の魔術師は台座に寄りかかった。
アルマークに打たれた左手がぐしゃぐしゃになっていることに気付き、
「やれやれ。今日二回目だ」
と呟く。
首と左手。ライヌルの傷口から、黒いねっとりとした泥のようなものが滲みだしていた。
「これはさすがに万が一のためとはいえやりすぎかな、と思っていた」
ライヌルは独り言のように言った。
「ここまで予防線を張るのは臆病に過ぎるのではないか、まるで最初から敗北するつもりのようではないかと」
ライヌルは明後日の方向を向きながら、身体だけをアルマークに向けて喋り続ける。
「しかし、アルマーク君。やはり君は恐ろしい」
血をいっぱいに溜めた口で、ライヌルはくぐもった声を出した。
「前回もそうだった。私には君が理解できない。君のその精神性が」
黒い泥がライヌルの身体を包んでいく。それを気にする様子もなく、ライヌルは喋る。
「北の傭兵の息子。それが君にとってどれだけの意味を持つのか、私には分からない。まるでマルスの杖の所有者であることよりもそっちの方がはるかに重要みたいじゃないか。北の荒くれ者の中で生まれたという、ただそれだけのことが。そんな誇れもしない出自が、君の中で何よりも強い光を放っている。それが私には理解できない」
アルマークは身体に力を入れようとする。だが、やはり身体はぴくりとも動かなかった。
「君を支配して、マルスの杖をこちらに渡してもらおうと思っていた。だが私には荷が重かったようだ」
ライヌルは不意に両手をあげて、自分の頭をがしりと掴んだ。
そのまま無造作に、顔を無理やりアルマークの方に向ける。
めきめきと鈍い音がして、少し傾いだライヌルの顔がアルマークを見た。
折れたままの首が異様だった。
「致命傷を負わされたら、自動的に発動するようにしていたんだ。この魔法を」
ライヌルは言った。
動けないアルマークを見て、微かに笑う。
「動けないだろう。私の手持ちの魔法でも特に強力なものだからね。準備に時間がかかるし、滅多に使い道がない。だけどだからこそ、君はもう逃げられないよ」
ライヌルは指輪を嵌めた右手をかかげ、ぎゅっと何かを掴む動作をする。
「君の魂を掴んで、身体との繋がりを絶ったんだ。ウェンディお嬢様にかけた兄弟石の腕輪の魔法の簡易版といったところさ。魔法具もなしに直接魂を掴むことのできる魔術師なんて、私以外にはいないよ。君の尊敬するイルミスにだってできやしない」
喋り続ける口から思い出したように、赤い血が滝となって滴り落ちた。
「だから最後の備えにしたんだ。この魔法が発動するということ、それはすなわち、私では手に負えない相手だということを意味しているからね」
アルマークを見る目に、ライヌルは率直な感嘆の色を浮かべていた。
「君は強い。アルマーク君。魔術の腕がどうとか剣の腕がどうとか、そんな単純なことじゃない。命を懸けた戦いに強いんだ、君は。私はイルミスにだって負けはしなかったのに、君と相対したらわずか一瞬で首をへし折られてしまった。魔術師の戦い方をしようとしたら、北仕込みの傭兵戦法でたちまちこてんぱんにされてしまったというわけだ。完敗だ」
闇の汚泥が、ずるりとライヌルの首を覆う。ライヌルは舌を伸ばしてそれをぺろりと舐めた。
「負けを認めることはやぶさかではないんだ」
ライヌルは言った。
「敗北を重ねてきた私だからね。ライバルに、世間に、運命に、私は負け続けてきた。だが何度敗れても最後に私が立っていればいい。そうだろう」
ライヌルは自分の懐に右手を突っ込んだ。
「君の傭兵の戦いには負けた。だから、次は魔術師の戦い方を教えてあげるよ」
ライヌルが取り出したのは、小壜。ウェンディの魂を入れたものと同じ壜だった。
「最後の一本だ。さっきの気弾の術で割れてしまわなくて、本当によかった」
ライヌルは笑った。
左手を包んでいた汚泥が地面に垂れ落ちる。露わになった左手にはもう何の傷もなかった。
「マルスの杖を私のものとするにはどうすればいいか。それについては、持ち帰って課題とするよ」
ライヌルは言った。
「だが所有者である君の強靭な魂は、私の手に余る。だから切り離させてもらうよ」
ライヌルは壜の蓋を開けると、その口をアルマークに向けた。
ライヌルが何事かを呟き始める。
明らかに人のものではない奇怪な言語。獣の鳴き声のような、洞窟を吹き抜ける風の音のような。
それは闇の魔人ボラパの発する声によく似ていた。
その声に合わせて、ライヌルの身体を包む闇がざわざわと波打つ。
魔術が進むにつれ、ライヌル自身も人から離れていくように見えた。
人ではなく、人の形をした闇に近付いていく。
それとともにアルマークは、自分の魂が肉体から剝がされていくのを感じた。
以前アインとともに図書館で本の罠に嵌ったときや、あるいはレイラとともに戦った魔影に触れられたときのような、魂を乱暴に引き剥がされる感じとは違う。
もっと優しく丁寧に、まるで綿にでもくるむかのような柔らかさと繊細さで。
ゆっくりと、だが確実に魂が自分の身体から離れていく。
抵抗の仕方が分からなかった。
魔影の腕に触れられた時は、襲ってきた強い力に対して強い力で抵抗すればよかった。
だが、まるで包み込むように魂を覆っていくライヌルの闇の魔術には捉えどころがなく、何をすればいいのか分からなかった。
そうしている間にも、魂は剥がされていく。ライヌルの構える小壜へと引き寄せられていく。
くそ。
このままじゃ。
そう思ったとき、アルマークは自分の肉体に残る微かな光を見た。
ああ、そうか。
アルマークにはそれが何なのか分かった。
そうか、君がいたのか。
アルマークの魂が壜に吸い込まれたのを確認して、ライヌルはしっかりと蓋を閉めた。
「ふう」
額に滲んだ汗を拭おうとしたが、汗など一滴も流れていなかった。
確かに汗が滲んだ感覚があったのに。
ライヌルの手は、乾いた皮膚の上を虚しく滑った。
そうか。もう私は、人ではないのだな。
改めてそんなことを思う。
いよいよここまで来てしまったか。
イルミスとの戦いで無理をし過ぎた。
そこへ来て、アルマークのこの想定外の戦いぶりだ。すっかり攪乱されてしまった。
本当はこの最後の小壜には、学院長の魂でも詰めて海へ流してやろうと思っていたのだが。
まあ、仕方ない。
結局誰が来ようが、最後に立っているのは私一人なんだ。それだけは、変わらない。
ライヌルは、自分に向き直ったままの姿勢で固まっているアルマークにゆっくりと近付く。
その手に握るマルスの杖にそっと手を近付けると、やはり凶暴な電流が渦巻くのが分かった。
「まだ私には触らせてくれないのだね」
ライヌルはマルスの杖に語り掛けた。
「なあに、時間をかけて解読してみせるさ」
そう言って、アルマークの背後にぼんやりと立つウェンディに目を向ける。
「“門”の力が手に入れば、私に残された有限の時間が無限へと変わるからね」
じっくりと取り組めばいい。
マルスの杖は、やはりアルマークに握らせたままで持ち帰ろう。
ライヌルがそう思ったときだった。
胸に、鋭い痛み。
ライヌルはまだ自分にそんな人間らしい感覚が残っていたことに驚いた。
そして、胸に突き刺さっているのがマルスの杖であったことにさらに驚く。
「なぜ」
ライヌルは呻いた。
アルマークが真っ直ぐにマルスの杖を突き出していた。
その目に、確かな意思が宿っていた。
だが、この目は。
アルマークの目ではない。
「誰だ」
ライヌルは言った。
「誰だ、お前は」
「誰だ、だと」
アルマークは薄く笑った。
「腐肉くさい闇の手先が、先に俺に名乗れと言うのか」
俺、だと?
ライヌルは目を見開く。
次の瞬間、目にも止まらぬ速さで閃いた杖の一撃が、強かにライヌルの右手を打った。
あっ、と思ったときには、魂が入った小壜はもうアルマークの手にあった。
「俺が手にしていたのが剣ではなくて命拾いしたな、黒き魔術師よ」
アルマークはそう言って口を歪めて笑った。
「まあお望みなら名乗ろうか。俺の名はアルマーク」
違う。お前はアルマークではない。
ライヌルは首を振る。
アルマークの魂は、その壜に入っている。お前は誰だ。
ライヌルの疑問をかき消すように、アルマークは言った。
「ガイベル随一の剣士」
ガイベルだと?
突如アルマークが口にした古代の王国の名に、ライヌルの混乱に拍車がかかる。
「魔女の呪いに落ち騎士ネルソンに敗れた、呪われし剣士よ」
「何を……何を言っている」
言われている意味が分からなかった。
呆然と呟くライヌルを憐れむように見やり、アルマークは壜を地面に叩きつけた。




