過ち
ごく自然な、体重移動。
アルマークは目の前のライヌルも気付かないうちにわずかな前傾姿勢を取っていた。
表情には極力出さず。
身体の動きは最小限に。
命を懸けた決死の場面においては、誰であろうと身体に力が入るものだ。
だが滑らかで素早い動きをするためには、不必要な力は邪魔になる。
無駄な力みは身体を固くし、その動きを妨げてしまう。
アルマークが決死の覚悟を決めながらも力むことなく動けたのは、傭兵として常にその命を懸ける日常を過ごしてきたからだった。
彼の魔力にばかり注目していたライヌルは、そこを見誤った。
前触れもなく―――少なくともライヌルには何の前触れもなく、アルマークが矢のように突っ込んできたことは、想定外の事態だった。
未熟で粗削りだが十分な才能を秘めた魔法の一つや二つ見ながら、そこにイルミスの教えの片鱗でも見付けてやろう。ライヌルはそう思っていた。
本気を出せばいつでも捻りつぶせることに間違いはないのだから。
彼にとって想定外だったのは、アルマークもそんなことは重々承知で、端から魔法で競う気などなかったということだ。
「ちいっ」
己の迂闊さを悔やんだライヌルは、それでもこの少年が自分のもとにたどり着くまでに魔法を撃ち込める技量は十分に備えていた。
手っ取り早く、まずはその足を止めようか。
ライヌルはごくわずかな動作で魔法を発動した。
不可視の壁。
アルマークと自分を隔てるように、目には見えない透明の壁を瞬時に築き上げる。
その勢いのままで顔をぶつけて、鼻血でも出すといい。
だが、その瞬間にアルマークが跳躍した。
まるで透明の壁が見えてでもいるように、いや、まるでその魔法を使われることが分かっていたかのように、アルマークは跳んだ。
「ばかな」
ライヌルは目を見張った。
闇の魔術師がわずかに左手を動かすのが、一直線に突っ込んでいくアルマークの目にも見えた。
その瞬間に、身体が動いていた。
どう身体を動かせばいいのか、迷いなくはっきりと分かった。
それがなぜなのか。どういう理屈なのか。アルマーク自身、頭では分かっていない。決して言語化はできない。
だが、瞬時に理解した。
クラン島の幽霊船の上で、“銀髑髏”ギザルテは、まるでアルマークの撃つ魔法が見えているかのようにかわしてみせた。その理由が今分かった。
口で説明することはできないが、アルマークの身体がそれを理解していた。
極限まで研ぎ澄ませば、魔法は見える。
アルマークはライヌルの魔法の壁を跳び越えて、彼の眼前に着地した。
その時にはマルスの杖は振りかぶられていた。
瞬時に、杖に魔力を込める。
ライヌルがいつもの転移の術で身をかわそうとしていることは分かっていた。
だから、いつもより半歩前から。
振り下ろした杖は、のけぞったライヌルの身体に届かなかった。だが同時に撃ち出された気弾の術がライヌルの胸を打った。魔法をまともに受けたライヌルが大きくよろける。
ライヌルが退いたことで、アルマークの目の前にはもう、ウェンディの魂の入った小壜が置かれた台座があった。
そのまま飛びつけば掴めるところに、ウェンディの魂がいた。
ウェンディ。
だが、ライヌルにもそれは分かっていた。
「させないよ」
口から血を垂らしながら、ライヌルは叫んだ。
なるほど、子供離れした威力の気弾の術だった。一撃で骨が砕けるような衝撃を受けた。
しかし、それでも所詮は未熟な魔法であることに違いはなかった。
こんな魔法で、私を排除はできないよ。
不意を突かれたからこそ受けてしまった一撃。
それはライヌルに届きはしたが、この闇の魔術師を倒すには至らなかった。
君はそこに賭けたんだな。君の覚悟を見誤ったよ。
ライヌルは思った。
魔術祭のときのアルマークは、意識を失ったウェンディを抱えて激高していた。だから魔法など使わずに杖を振り回すのだろうということは容易に想像がついたし、事実アルマークはそうした。
しかし、今目の前で向き合ったアルマークは、落ち着き払っていた。
冷徹な、魔術師然とした目をしていた。だから、まさか皮膚一枚剥がしたその下にこんな激情を隠しているとは、思いもしなかった。
南で少しは分別が付いて魔術師らしくなったじゃないか、などと思った自分を、ライヌルは嗤う。
何のことはない、北の荒くれ者のままじゃないか。
しかし、彼に簡単に小壜をくれてやるつもりはもちろんなかった。
自分に目もくれずに台座へと駆け寄ろうとするアルマークに向けて、右手を突き出す。
「闇よ!」
だがその瞬間だった。
アルマークが身を翻し、ライヌルに向かって踏み込む。
台座へ向かおうとしたのではない。身体を回して勢いをつけたのだと理解するのにわずかな時間がかかった。
ライヌルを見る少年の目に、一点の曇りもない殺意が宿っていた。
闇すらも切り裂くような、混じりけのない殺意。
ばかな。
ライヌルは驚愕する。
大事なウェンディお嬢様の魂の入った小壜だぞ。
自分の放った闇の渦をアルマークがかいくぐるのを、ライヌルは信じられない思いで見た。
あんなに君が欲しがっていた小壜が目の前にあるんだぞ。それなのに。
アルマークが鋭く踏み込む。もうそこは、北の傭兵の間合いだった。
それなのに君は、私を殺すことしか考えていないのか。
アルマークは自分の体重を乗せて、思い切りマルスの杖を振り下ろす。
今度は何の魔力も込めていなかった。
アルマーク、負けるんじゃねえぞ。
ネルソンの悔しそうな声が蘇る。
あんな野郎やっちまえ。
粗野なレイドーの声。
ぶっ飛ばしてこい。
焚きつけるようなコルエンの声。
当たり前だ。
アルマークは友人たちの声に答える。
こいつをぶん殴らないで、気が済むわけないだろ。
戦場で一度過ちを犯せば、命が危うい。
ライヌルはすでに二度の過ちを犯していた。
北の戦場には、二度も判断を間違えて生き延びられる者などいない。
「待て」
それでもライヌルは叫んだ。
そしてそれと同時に、杖を叩き込まれた自分の首の骨が折れる音を聞いた。




