樹上へ
ライヌルの手の中で小壜が振られるたび、アルマークの表情は険しくなった。
ウェンディは、あそこにいる。
何の証拠もないが、アルマークにとってそれは疑う余地もないことだった。
ウェンディは、あの小さな壜の中に閉じ込められて、僕が来るのを待っている。
野性の勘。魂の結びつき。その感覚をどう呼びならわせばいいのかは分からないが、アルマークはただそれを確信していた。
その身から放つ殺気とは裏腹に、アルマークが静かにマルスの杖を下ろすのを横目に見たウォリスは、ライヌルの幻影に視線を戻す。
「おい、闇の魔術師」
ウォリスの口調は、クラスメイト達に声を掛けるときとはかけ離れたひどくぞんざいなものだった。
「イルミス先生はどうしたんだ。先生が貴様ごときに敗れるとも思えんが」
「そうだ」
ネルソンが思い出したように大声を上げる。
「そうだよ、イルミス先生がいるじゃねえか」
「ああ、その通りだ」
普段冷静なレイドーも頷いた。
「樹の上にいるイルミス先生と協力し合えば、あいつの言うことを聞く必要なんかないはずさ」
ノリシュやリルティもそれに同意するように頷く。
だがライヌルは余裕たっぷりに目を細め、顎に手をやった。
「ああ、イルミスか」
事も無げにそう呟くと、右手を挙げる。その中指に、金色の指輪が光っていた。
「彼なら、ほら」
まるで映像がずれるようにして、その姿が映し出された。
地面に倒れ伏し、ぴくりとも動かないイルミス。その身体からは夥しい血が流れていた。
女子生徒たちから悲鳴が上がる。
「先生っ……」
ネルソンがそう言ったきり、絶句する。レイドーが、信じられないというように首を振る。
悲鳴こそ上げなかったものの、気丈なレイラですら愕然とした表情で倒れるイルミスを見つめていた。
まさか、あのイルミス先生が。
生徒たちの受けた衝撃は、この日最大のものだった。
さしものウォリスも、目を見開いて驚きの表情を露わにする。
「うっふふふ」
堪えきれぬ笑い声を漏らし、ライヌルは生徒たちの様子を味わうようにじっくりと眺めた。それから、一人の生徒の様子に気付いて不満そうな顔をする。
アルマークだった。
アルマークは、倒れているイルミスを見ても眉一つ動かさなかった。
「アルマーク君」
挑発するかのようにライヌルはその名を呼ぶ。
「尊敬する先生が無様に倒れているから、その情けない姿にみんな絶望しているんだよ。それなのに、君だけがあまり驚いていないようだね」
ライヌルは言った。
「そうか、君はこれが偽の映像だと思っているのかい」
「そ、そうか」
ライヌルの言葉に食いついたのはアルマークではなくネルソンだった。
「これもお前の作った幻か。こんなもので俺たちを怖がらせようとしたってそうはいかねえぞ」
「そうよ」
ノリシュがネルソンに呼応する。
「先生が負けるはずがないもの」
「うん。きっと先生はまだどこかに」
セラハも二人に続く。
「幻ではないよ」
だがライヌルはそう言って彼らの顔を実に愉しそうに見ると、ゆっくりとイルミスに歩み寄り、その背中に自分の片足を載せた。
体重を掛けられてもイルミスは呻き声一つ漏らすでもなく、身じろぎ一つしない。
よく見れば、ライヌルのローブにもイルミスのローブにも、激しい戦いの跡を物語る焦げ跡や切れ目がいくつも付いていた。それは、幻と断じるにはあまりに真に迫った映像だった。
「イルミスは私に敗れ、死んだ。信じようと信じまいとそれは君たちの自由だが、事実は変わらないよ」
「嘘だ」
そう反駁するネルソンの声には、もう先ほどの力がなかった。
「先生が、お前なんかに」
「だから好きにしたまえと言っている」
邪悪な笑みでネルソンの顔を眺めた後で、ライヌルはそれでもやはり表情を変えないアルマークを見てやや不満そうな顔をする。
「アルマーク君、君はまだ信じられないのかな」
「イルミス先生の魔法は」
アルマークは静かに言った。身にまとう殺気とはまるでかけ離れたその冷静な口調に、ライヌルが微かに眉を寄せる。
「あなたよりも遥かに上だ。あなたがいくら汚い闇の力を使おうが、先生の足元にも及ばない」
アルマークは迷いなくきっぱりと言い切った。ライヌルは口元に皮肉な笑みを浮かべる。
「だから君は信じないというのかね。だが」
「それでも」
アルマークはライヌルの言葉を遮った。
「命懸けの戦いの勝敗は、実力だけで決まるものじゃない。実力以外の色々なことが絡むんだ、勝負には」
アルマークの口調はあくまで冷静だった。
“銀髑髏”ギザルテは、僕よりも強かった。でも、勝ったのは僕だ。
それは、戦場で生まれ、戦場で生きてきたアルマークがごく自然に身に着けた考え方。
勝負に絶対はねえ。だから、いつでも今を精一杯生きるんだ。
父から受け継いだ、北の傭兵の生き方そのもの。
「だから僕は先生があなたに敗れたことには驚かない。先生はあなたよりもはるかに強い人だ。その先生が敗れたということは、先生が弱いんじゃなくて、負けそうになったあなたが汚い手段を使ったんだな、とそう確信しただけだ」
図星を刺されたライヌルの顔が歪む。
「汚い手だって? 当てずっぽうで、よくもまあいい加減なことを」
「ははは」
涼やかな笑い声をあげたのは、ウォリスだった。
「そういうことか、闇の魔術師。得意げに先生に勝ったなどと言っているが、その実は」
「君には少し黙っていてもらいたいものだね」
ライヌルはウォリスを睨むと、左手を振る。
それと同時に天からぽたりと一滴だけ、真っ赤な水滴が降ってきた。
水滴は地面で跳ね、とっさに身をかわしたウォリスのローブの裾にかかる。
「ぐうっ」
その途端、ウォリスは苦しそうに身体を曲げて地面に倒れ込んだ。
「ウォリス!」
キュリメが慌ててウォリスに駆け寄る。
「大丈夫、どうしたの」
「これは」
助けようとしたキュリメの腕を振り払って、ウォリスはライヌルを睨んだ。
「貴様」
「とあるお方から、一滴だけ頂いてきたのさ。高貴なその血をね」
ライヌルは満足そうに言うと、アルマークの名を呼ぶ。
「さあ、アルマーク君。答えを聞かせてもらおうか、ウェンディお嬢様の魂を返してほしくばその杖を」
だが、さっきまでアルマークが立っていた場所にもう誰もいないのを見て、ライヌルは首を巡らせた。
「おや、アルマーク君は」
アルマークはすでにウェンディの元へ戻り、その身体を抱き上げていた。
もの言わぬウェンディは、アルマークにされるがまま、表情も変えず、彼に抱きかかえられている。
「行くさ」
アルマークは言った。
「これが欲しいんだろ」
顎をしゃくって、自分の背負うマルスの杖を示す。
「だったらおとなしくそこで待っていろ」
「物わかりのいいことだ」
ライヌルは拍子抜けしたように目を瞬かせた。
「だがまあ、話が早いのは悪いことではないよ」
ライヌルは邪悪な笑顔を浮かべる。
「それではアルマーク君。上で待っているよ」
その言葉とともに、ライヌルの映像は消えた。
「……アルマーク」
ウェンディを抱くアルマークの周囲には、自然と二組の生徒たちが集まっていた。
「本当に一人で行く気か」
「私たちも行くわ」
ネルソンとノリシュの言葉に、アルマークは笑顔で首を振る。
「ありがとう、二人とも。でもあいつは僕だけで来いと言った」
「あんな奴の言うことなんか」
ネルソンはそう言いかけて、悔しそうに地面を蹴る。
「ああ、くそ。でも俺たちが行くわけにはいかねえのか。ウェンディの魂が」
「そうだね」
レイドーの顔も苦しそうだった。
「僕らがついていったんじゃ、あの闇の魔術師にばればれだ」
「大丈夫」
アルマークは心配そうな仲間たちに頷いてみせた。
「一人じゃない。ウェンディもいるしね」
「そんなこと言ったって、今のウェンディは抜け殻みたいなもんじゃねえか」
ネルソンが言い、ノリシュに肩を叩かれて口をつぐむ。
「うん。だけど感じるんだ」
アルマークは、ぼんやりと虚空を見つめるウェンディの顔に目を落とす。
「ウェンディはまだ負けてないよ。戦ってる」
その言葉に、セラハが手で顔を覆って嗚咽を漏らした。
「ウェンディと一緒なら、僕は誰にも負ける気はしない」
アルマークは言った。
「僕がそう言っていたって、モーゲンが戻ってきたら伝えておいてくれないか」
「モーゲンに伝えればいいんだね」
レイドーが頷く。
「分かった。伝えておくよ」
「それはいいけどよ」
ネルソンが悔しそうに唇を噛む。
「本当に一人で行く気なのかよ。俺たちには何もできねえのかよ」
「みんなには、もう十分にしてもらった」
アルマークはそう言って、足元に転がる腕輪を見た。
九つの兄弟石の腕輪。そこで輝く石の一つひとつが、命を懸けて戦ってくれた仲間たちの友情の証そのものだった。
「これからは、僕とウェンディが自分たちの運命と戦う番だ」
「でもよ」
ネルソンはなおも何か言おうとした。それでももう言葉が出てこない。目に涙をいっぱいに溜めたノリシュがネルソンの手を握った。
「ありがとう、ネルソン。ありがとう、みんな」
アルマークは頭を下げる。
「イルミス先生だって、あいつは死んだって言ったけど本当のところは分からない。それも確かめてくるよ」
そう言ってもう一度穏やかに微笑むと、アルマークは歩き始めた。
「頑張れよ、アルマーク」
ネルソンが叫んだ。
「負けるんじゃねえぞ」
「そうだ、アルマーク」
レイドーが普段は見せない粗野な一面をさらけ出していた。
「あんな野郎、やっちまえ」
二組の生徒たちの声を背に、アルマークがうずくまるウォリスの横を通りかかると、金髪のクラス委員は苦しそうな顔を上げた。
「忘れるな、アルマーク」
ウォリスは言った。
「君は一人じゃないからな」
「うん」
アルマークは頷く。
「ありがとう、ウォリス」
ウェンディを抱きかかえて巨大な樹をぐるりと巡る階段へと歩いていくアルマークを、他のクラスの生徒たちも静かに見送った。
涙目のカラーや不満そうなエストン、心配そうなルクスとそれに寄り添うように立つロズフィリア。
彼らの間を歩き、階段へと。
「あんなおっさんに絶対負けんじゃねえぞ、アルマーク」
コルエンが場にそぐわない明るい声で言った。
「ぶっ飛ばしてこい」
その隣で、真剣な顔のポロイスが頷く。
「ああ、行ってくるよ」
アルマークはそう応え、振り返って仲間たちにもう一度手を振った。
今行くよ、ウェンディ。
仲間の声援を背に、アルマークは階段に足をかけた。




