(閑話)ノルク魔法学院一日オリエンテーション午後の部
【プロローグ】
「ルクスさんの魔法、すごかったね」
「ええ、まあね」
「すごくきれいだったよね」
「それ、魔法のこと? それともウェンディさんの」
「ど、どっちもだよ」
すっかり打ち解けたレクトとウルリケは食堂へと急いだ。
昼食を三年生と食べて、午後からは庭園と森の案内をしてもらうことになっていた。
校舎の別棟の案内はやはり授業の一環という感じがして緊張するが、庭園や森は生徒の遊び場だ。午前よりもずっと気楽な感じがして、楽しみだ。
レクトが軽い足取りでウルリケと並んで食堂の扉をくぐると、もう既に一年生も三年生もほとんどが席についていて、残っている席はそう多くなかった。
「僕ら、遅かったみたいだね」
レクトが言うと、ウルリケは微笑む。
「その分、しっかり案内してもらえたってことじゃないかしら」
「う、うん。そうだね」
さっきは早くお昼が食べたいって言ってたのに。
ウルリケの切り替えの速さに感心していると、後ろから他の一年生ペアが入ってきた。
レクトはその二人に見覚えがあった。
確か、名前はエルドとシシリー。
僕たちの方が早かったんだから、あの二人に座られてしまう前に席を決めないと。
レクトはウルリケを振り返る。
「ウルリケ、座ろう」
「ええ」
前の席が空いている三年生は、活発そうなそばかすの女子生徒、華奢でおとなしそうな女子生徒と、難しい顔をした大柄な男子生徒二人、それに人当たりのよさそうな男子生徒一人。それからもう一人。
ああ、あの女の子、知ってる。
レクトはぶるりと震えた。
この間、同じクラスのいたずら好きな男子たちが、消灯時間を過ぎても騒いでいたら、あの三年生にものすごく怒られたんだ。
それはもう、すごい迫力で……怒られた男子はみんな涙目だった。
あの人の前は、ちょっと嫌だな。
レクトはちらりとウルリケを見るが、彼女はそれほど気にしているようには見えない。
さあ、どうしよう……。
【昼食】
「座ろう、ウルリケ」
レクトがそう言うと、ウルリケは「ええ」と頷き、手近の椅子にさっと腰を下ろした。
あっ、そこは。
レクトは思わず固まる。
ウルリケが座ったのは、そばかすの女子生徒の前だった。
その隣に座っているのは、例のおっかない女子だ。
だめだ、こっちじゃない。ウルリケの反対側に座らないと。
レクトはウルリケの後ろを通ってその反対側の、物静かそうな華奢な女子生徒の前の席に座ろうとしたが、そこを誰かがさっと横切った。
「あっ」
後ろから来た二人組だった。エルドとシシリー。
シシリーがレクトの狙っていた席に、しれっと座ってしまう。
そんな。
「何してるの、レクト」
ウルリケが不審そうにレクトを見上げ、隣の椅子を手で叩いた。
「早く座りなさいよ。自分から座ろうって言っておいて、いつまで立っているの」
「う、うん。ごめん」
もうどうしようもなくなって、レクトは仕方なくウルリケの隣に腰を下ろした。
目の前には、まるで女戦士のような女子生徒が腕を組んで座っている。
魔術師のローブを着ているのに、魔法を使うイメージが全然浮かばない。むしろ、剣とか斧とかを持ってドラゴン退治でもしそうな雰囲気だ。
「よろしくね」
ウルリケの前に座る女子生徒が優しい笑顔で言った。
「私は3年2組のノリシュ。それと、こっちが」
「1組のエメリアだ」
そう。エメリア。確か、そんな名前だった。
「レクトです」
レクトはぴょこんと頭を下げた。
そんな彼を驚いたように見て、ウルリケは会釈する。
「1年1組のウルリケ・アサシアです」
「レクトとウルリケね」
ノリシュは頷く。
「午前中はどうだった?」
「楽しかったです、とても」
ウルリケが笑顔で答える。
「三年生がとても親切に教えてくれて」
「誰が教えてくれたの?」
「ええと」
ウルリケが少し口ごもったので、レクトは隣からそっと口添えする。
「コルエンさんとアインさんとルクスさんだよ」
「ああ、そうだったわね」
ウルリケは頷く。
「武術棟がコルエンさんで、治癒術棟がアインさん、魔術実践棟がルクスさんです」
ノリシュにそう答えた後で、ウルリケは不思議そうにレクトを見た。
「どうして自分で言わないの」
「い、いや」
だって。
レクトは気付いていた。自分たちが名前を名乗ってから、エメリアの顔がすごく不機嫌そうに変わったことに。
何が気に入らないんだろう。この間怒られた男子たちの仲間だと思われてるのかな。
それがレクトには怖くて仕方ない。
ウルリケは全然気にしていないようだ。エメリアの隣に座るノリシュも気付いていない。
「クラス委員二人に案内してもらったの。贅沢ね」
ノリシュが微笑む。
「アインの説明もルクスの説明も、分かりやすかったでしょう」
「ええ、とても」
ウルリケが答える。
「それと、武術棟はコルエンね。じゃあきっと、すごく楽しそうに教えてくれたでしょう」
ノリシュの言葉に、ウルリケは笑顔で頷く。
「はい。あの、コルエンさんってどこの出身なんですか」
「え?」
別にかっこよくなかった、みたいなことを言っていた癖に、ウルリケはちゃっかりノリシュからコルエンの情報を聞き出している。
やっぱりかっこいいと思ってたんじゃないか。
レクトは少し呆れ気味にウルリケを見た。
そこに、食事が運ばれてきた。
いつもなら各自が配膳場所で受け取るのだが、今日はオリエンテーションなので特別だ。隣の生徒からどんどんと回ってくる皿をさらに隣に回していき、じきに全員に料理が行きわたった。
「全員、料理は行きわたったな。足りない生徒はいないか」
テーブルの中央で、三年生の代表が立ち上がってそう言った。
アインだった。
「ウォリス、ルクス、君達の方も大丈夫か」
「ああ、大丈夫だ」
アインからだいぶ離れた席で、ルクスが手を挙げて答える。
「もし何かあったらこちらで対処する。君は心配せずに進めればいい」
涼やかな声でそう言ったのは、金髪の男子生徒だった。
どうやらこの三人が三年生のクラス委員のようだった。
レクトは、穏やかに微笑む金髪の生徒を見た。遠くからでもはっきりと分かる、恐ろしく整った顔立ちをしていた。
「分かった。それでは食べ始めるとしよう」
アインは金髪の生徒の言葉に肩をすくめ、それから口調を改めた。
「一年生の諸君、午前中は三年生から実りのある説明が聞けただろうか。時間が足りずに分からなかったことは、遠慮なくいつでも僕たち三年生に尋ねてくれ。……おい、フィッケ。まだ食べるんじゃない」
アインは顔をしかめて隣の三年生の頭を叩いた。「いてっ」という声とともに周囲からくすくすという忍び笑いが漏れる。
咳払いして、アインは続けた。
「午後も予定はしっかりと詰まっている。先生方が僕たち三年生に君たちの案内を任せてくださったのは、学院での生活では先生方よりも生徒の方がかえって詳しいことがいろいろとあるからだ。特に、森や庭園についてはな。それでは、しっかりと食べて、午後も元気に楽しくやろう。ムルカ、頼む」
アインの合図で、その隣に座っていた男子生徒が声を張った。
「良き食事を、良き魔力の糧に」
それを生徒全員が唱和する。
「良き食事を、良き魔力の糧に」
役目を終えたアインが満足そうに腰を下ろし、食堂は一斉に賑やかになった。
皆が喋りながら食事に手を伸ばす。
レクトとウルリケも食事を口に運んだ。
まずはとりあえずお腹を満たすことだ。
レクトは目の前の不機嫌そうな女子生徒の方は極力見ないようにして、食事をかきこんだ。
やがてお腹もだいぶ落ち着いてきたころ、ノリシュが一年生二人に問いかけてきた。
「良き食事を、良き魔力の糧に。どうしてああいう風に言うか知ってる?」
その質問に、レクトとウルリケは顔を見合わせる。
レクトはその言い回しを、この学院に来て初めて聞いた。
一斉に唱和するのは一年生全員で食べていた入学後の数日以来だが、食堂での食事前にはそう口にするよう指示を受けていた。
そういうものなのだろうと思っていたし、特に疑問は抱かなかった。
ウルリケも同様のようだった。彼女の性格からして、知っていればレクトの顔など見ずに、すぐ答えているはずだ。
「知らないみたいね」
二人の表情を見て、ノリシュは微笑む。
「この学院にはいろんな国から、いろんな生徒が集まってくるでしょ」
ノリシュは言った。
「ノルク島はガライ王国の領土だけど、ガライの習慣に従ったら南のほかの国や中原から来た生徒にはよく分からない。だから、どんな国のどんな出身の生徒でも抵抗のない言葉にしたんですって」
それを聞いて、レクトはもう一度さっきの言葉を反芻する。
「良き食事を、良き魔力の糧に」
そうか。
「出身がどこでも、僕らがみんな魔術師になることは変わらない。だからですね」
「ええ」
ノリシュは笑顔で頷いた。
「私はいい言葉だと思うわ」
そう言った後で、いたずらっぽく肩をすくめる。
「まあ慣れちゃうとみんな、言わないで食べ始めちゃうんだけどね。私も寮だと滅多に言わないかも」
確かに、寮の食堂でその言葉を口にしている生徒はほとんど見なかった。
「二人はどこの出身なの?」
そう訊かれたウルリケが、「私はフォレッタです」と答える。レクトも慌てて、「僕はラング公国」と答えた。
「あら、私もラング公国よ」
ノリシュが顔を輝かせる。
「ラングのどこ?」
「ええと、僕は」
二人はしばらく故郷の話題で盛り上がった。
ウルリケが、黙々と食事を口に運ぶエメリアに話しかける。
「エメリアさんは、ご出身はどちらなんですか」
「ザイデルだ」
短くそう答えたあと、エメリアはじろりとウルリケを見た。
「お前はフォレッタの貴族のご令嬢か」
「はい、私は」
「いや、それ以上言わなくていい」
エメリアはパンの最後の一切れを口に放り込むと立ち上がった。
「えっ」
ウルリケがエメリアを見上げ、ノリシュとレクトも会話をやめてエメリアを見た。
そのまま食堂を出ていこうとするエメリアを、アインが見とがめた。
「おい、エメリア。どこへ行くんだ」
エメリアは面倒そうに振り向く。
「食べ終わったから、帰るんだ」
「今日はみんなで一緒に食べているんだ、勝手な真似をするな」
しかしエメリアは返事もせずに、そのまま食堂を出ていってしまった。
アインは肩をすくめて首を振る。
「アイン。君のクラスにしては、まだあまり統制がとれていないな」
金髪のクラス委員が揶揄するように言うと、アインは不敵に笑った。
「なあに、これからさ」
「ごめんなさいね」
呆気に取られた様子でエメリアを見送ったウルリケに、ノリシュが申し訳なさそうに言った。
「少しとっつきづらいところのある子だから」
「私、何か悪いこと言ったんでしょうか」
ウルリケの問いに、ノリシュは首を振る。
「あなたは何も悪いことなんて言っていないわ。それに、あの子を動かしてるのは言葉じゃないから」
その後、ノリシュやその隣に座る穏やかな顔をした男子生徒があれこれと盛り上げてくれたので、食事自体は楽しく終わったが、二人にはなんとなくもやもやが残った。
【庭園】
「おーい。こっちだ、こっち」
庭園へと向かう途中、昼食の際に起きた出来事のせいで少し沈んでしまった様子のウルリケにどうにか元気を取り戻してもらおうと、あれやこれやと話しかけ、結局最後はうるさそうな顔をさせてしまったレクトは、その声に救われたように顔を上げる。
「あ、ほら。ウルリケ。あそこで三年生が待ってるよ」
「ええ」
ウルリケもやっと顔を上げた。
「なんだか元気の良さそうな人ね」
「うん。すごい笑顔で手を振ってくれてる」
二人が近付くと、その三年生は笑顔で名乗った。
「3年2組のネルソンだ。二人の名前も教えてくれよ」
「1年1組のレクトです」
「ウルリケ・アサシアです」
「レクトとウルリケな」
ネルソンは頷いた。
「次に会うときに名前忘れてたらごめんな。人の名前を憶えるのが苦手でよ」
そう言って屈託なく笑う。
「さあ、行こうぜ。庭園には面白いところがたくさんあるんだ」
ネルソンは張り切って先頭に立って歩き出した。
「まずはこっちだ。鬼ごっこするのに最高な場所があるんだよ」
鬼ごっこ。
武術、治癒術、魔法といった言葉が中心となった午前の場所とは、出てくる言葉がいきなり違う。
ネルソンは実に愉しそうに、庭園を案内してくれた。
鬼ごっこをするのに最高の、小さな段差やたくさんの障害物のある一角。かけっこをするのにちょうどいい、目印になる四つの彫像。羽根打ちをするのにぴったりの、段差のない広場。
「前にここで羽根打ちした時は、どこからともなくムラサキカブトムシが飛んできてさ。みんなでそっちを見てたら、落ちてきた羽根がちょうど通りかかったウェシンハス先生の頭に当たって」
ネルソンの説明は愉快で、レクトはさっそく今日の放課後にもここで遊んでみたくなったし、ウルリケにも笑顔が戻ってきた。
「次はかくれんぼに最高の場所を教えてやるよ」
そう言って小走りするくらいの勢いで歩き出したネルソンの後ろで、ウルリケが囁く。
「ねえ。この人、遊んでばっかりいるのかしら」
「三年生だし、そんなわけないだろうけど」
レクトも囁き返す。
「でも、いろんな遊びにすごく詳しいね」
「あなたが三年生になったとき、こんな風に説明できる?」
その問いに、レクトは意表を突かれる。
「僕が三年生になったら、か」
前を歩くネルソンの背中を見る。
遊びの話ばかりだったけれど、説明には全く淀みがなかった。
この学院での自分の生活に、しっかりとした自信を感じる。
子どもっぽい人だと思っていたけれど、そう考えて改めて見ると、すごく頼りがいのある背中にも思えてきた。
何か困ったことがあっても、この人に相談したら全部、大丈夫だ何とかなる、と笑い飛ばしてくれるような。
「分からない」
照れ笑いとともに、レクトは答えた。
「僕にはまだ、三年生になったときの自分が想像つかないよ」
「そうよね」
ウルリケもそう言って微笑んだことが、レクトには意外だった。
「私も分からない」
「やあ、ネルソン。一年生の案内中か」
ちょうど通りかかった金髪の男子生徒がネルソンに声をかけた。
さっき食堂で見た三年生の三人のクラス委員の一人だ。
「遊び場所ばかりではなくて、勉強のためになることも教えてやってくれよ」
「わ、分かってるよ」
ネルソンはそう言って、その男子生徒とすれ違うと、レクトたちを振り向いた。
「そうだ、ためになることを教え忘れてた」
そう言って、向こうに見える茂みを指差す。
「庭園で遊ぶときは、あそこの茂みには絶対近付かないこと」
「どうしてですか」
ウルリケの問いに、ネルソンは肩をすくめる。
「おっかねえ女がいっつも難しい魔法の練習をしてるんだ。下手に邪魔すると怒られるし、魔法が暴発したら怪我するぜ」
「そ、そんな人がいるんですか」
「そう。いるんだよ」
レクトの言葉にネルソンは頷く。
「まあ、気を付けな。顔だけはすごくきれいだけど、騙されちゃいけねえぞ」
レクトとウルリケは顔を合わせて、それから二人でその茂みを見た。
よく分からないけど、覚えておいた方がいいみたいだ。
「ここ、ここ。ここがかくれんぼに最高なんだよ」
ネルソンがはしゃいだ声を上げた。
二人が振り向くと、そこは植え込みの切れ目だった。
「あ、ここ知ってます」
レクトは言った。
「この中が迷路になってるんですよね」
「おう。よく知ってるな」
ネルソンが嬉しそうに頷き、ウルリケが「迷路?」と呟く。
「庭園にはよく迷路があるのよね。上から見ると、きれいな模様になっているのよ」
「そういう飾り物みたいな迷路は向こうにいくつかある」
ネルソンは反対側を指差した。
「中等部の校舎に近いほうだな。この迷路は、そういうのじゃねえんだ」
「そういうのじゃない?」
「もっと、本気のやつなんだよ」
ネルソンはいたずらっ子のように、にやりと笑う。
「まあ、入ってみようぜ」
迷路に入るとすぐ、ネルソンは二人を先頭に立たせた。
「好きに進んでみていいぜ」
そう言われて、二人は歩き出した。
「植え込みで作れる迷路なんて、たかが知れてるの」
ウルリケが言った。
「そんなに難しいものじゃないわ」
そういうものか、とレクトは頷く。
だが、次々に現れる分岐に、ウルリケは徐々に困惑した顔になり、三叉路でついに立ち止まった。
「こんなに複雑な迷路なんて」
「意外だっただろ」
ネルソンは笑顔で二人の前に出た。
「この先を右に曲がると、ベンチがあるぜ。左に曲がって二つ曲がると、庭師の人の用具小屋があるんだ」
「全部覚えてるんですか」
「まあな」
ネルソンは肩をすくめる。
「ここで遊んでりゃすぐに覚えるさ」
そうだろうか。レクトはウルリケを見た。ウルリケもレクトを見て、小さく首を振る。
「じゃあ、中央のボルーク卿の像だけ見て帰るか」
ネルソンがそう言ったときだった。
「でやあっ」
突然、そんな掛け声とともに誰かが上から降ってきた。
「わあっ」
「きゃあ」
二人は思わず声を上げた。
植え込みの上から誰かが落ちてきたのだ。
「さ、猿?」
ウルリケが言ったが、猿ではなかった。着地したのは、ひょろりと長い手足の三年生だった。
「おう、ネルソン」
その生徒が言った。
「一年生の案内か」
「フィッケ。お前また道に迷ったのかよ」
驚きもせずにネルソンが言うと、フィッケと呼ばれた生徒は照れたように笑う。
「いやー、本当に何度来てもこの迷路、覚えられないんだよな」
そう言うと、目の前の植え込みに向かって突然走り出した。
「あっ」
レクトが声を上げた時には、その身体は軽々と植え込みを飛び越えて、その向こうに見えなくなっていた。
「飛び越えた」
レクトは呆然と呟く。ウルリケも目を丸くしていた。
さっきも、こうやって植え込みの向こうから飛び越えてきたのか。
植え込みの高さは、三年生のネルソンよりもさらに上だ。
そこを、わずかな助走で軽々と飛び越えてしまった。
「あいつ、ばかだけど、運動神経はすげえんだ」
ネルソンは呆れたように笑った。
「さあ、行こうぜ。俺は植え込みを飛び越えさせたりしねえから、安心していいぜ」
ネルソンはその後、まるで自分の家のように迷路の中を進み、中央に鎮座するボルーク卿の像と対面させてくれた。
【森】
庭園を後にした二人は、森へと急いだ。
春を迎えたばかりの気の早い太陽が、もう傾き始めている。
「ウルリケは、森に入ったことはあるの?」
足早に歩きながらレクトが尋ねると、ウルリケは「一度だけ」と答えた。
「面白そうだから行ってみようって誘われて。でも昼間でも暗いし、道はよく分からないし、すぐに帰って来ちゃったわ」
そう言って、レクトを見る。
「レクトは?」
「僕も一回だけ」
レクトは言った。
「森の中でよさそうな遊び場所を見付けたんだけどね。そこはもう二年生の遊び場になっていたみたいで。睨まれたからすぐに帰ってきたんだ」
「そんな動物の縄張りみたいなものがあるのかしら」
ウルリケは呆れたようにため息をついた。
「でもまあ男子なんて、動物みたいなものだものね」
その言葉にうまく反論できずに、レクトは曖昧に頷く。
ウルリケの目には、僕も動物みたいに見えてるんだろうか。
「今日一日で、あっちこっちへ、すごく歩いてる」
ウルリケが疲れたように言った。
「庭園でもずいぶんと歩いたわ」
「そうだね」
レクトも頷いた。
学院に入学してから、色々な授業を受けたけれど、こんなに朝からずっと動きっぱなしの日はなかった。
「大丈夫かい、ウルリケ。少し休むかい」
レクトが尋ねると、ウルリケは首を振る。
「いいわ。森で待っている三年生に悪いもの」
ウルリケからそんな言葉が出るなんて。
レクトは、今日一日での彼女の変わりように驚く。
「レクトこそ大丈夫?」
ほら、こんな風に僕のことまで気遣ってくれる。
「うん、大丈夫」
そう答えながらレクトは頬が緩むのを抑えきれない。そんな彼を、ウルリケは不思議そうに見た。
ようやくたどり着いた森の入り口には、なんだかふかふかと丸っこい男子生徒が立っていた。
ローブの袖からお菓子のようなものを出して、もぐもぐと食べている。
「あっ」
その生徒は、レクトたちが近付いてくるのを見て困ったような顔をした。
「ええと。君たちは」
「1年1組のウルリケです」
「レクトです」
二人が名乗ると、小太りの男子生徒はますます困ったような顔をする。
「そうだよね。ウルリケとレクト。うん、君達の担当はバイヤーなんだけど」
そう言って、森の奥へと続く道をちらちらと振り返る。
「困ったな。あの、別にバイヤーも悪気があるわけじゃなくてね」
もごもごと話すその生徒に、レクトとウルリケは顔を見合わせる。
「君たちを待ってるうちに、我慢できなくなったみたいで、そのちょっと薬草を採りに」
「じゃあ、いないんですか」
ウルリケが言うと、その生徒は額の汗を拭き拭き、頭を掻く。
「いや、きっとすぐに戻ってくると思うんだけどね。あ、そうだ」
そう言って、急にローブの袖に手を突っ込むと、焼き菓子を二枚取り出した。
「おやつ代わりに、これでも食べていてよ」
「え、いいんですか」
「もちろん」
男子生徒の差し出したすごくおいしそうに見えるそのお菓子を二人が受け取ると、森から誰かが出てきた。
「あ、チェルシャ」
男子生徒は救われたような声を上げた。
「バイヤーを見なかったかい」
森から出てきた小柄な女子生徒は、首を振る。
「あ、モーゲン。私は見なかったけど……いないの?」
「そうなんだ。この一年生たちの担当なのに、どこかに行っちゃって。僕の担当の子たちももう来るだろうから、僕はここから動けないし」
「バイヤーの行きそうなところに、心当たりはないの?」
「あるけど、ありすぎて。その中のどこに行ったのか分からないんだ」
「それは困ったわね」
チェルシャと呼ばれた女子生徒も、モーゲンという男子生徒と一緒に困った顔をする。
「でも、ここでずっと待ってもらうわけにもいかないし……モーゲン、あなたがこの二人の案内をしてあげたら?」
「え、僕がかい。でも僕の担当の子もいるんだよ」
「きっとバイヤーもすぐに帰ってくるでしょ。私がここで待っているから、バイヤーが来たらあなたの担当するはずだった一年生を案内してもらうわ」
「そ、そうしてもらうと助かるよ」
モーゲンはほっとした顔をした。
「じゃあそうするよ。二人ともお待たせ。行こう」
そう言って二人を振り返ったモーゲンは、二人がまだ焼き菓子を手に持ったままなのを見て、目を丸くする。
「まだ食べてなかったの」
「食べていいかどうか、分からなくて」
レクトが答えると、モーゲンは感心したように首を振った。
「すごいな。目の前にお菓子があって、食べないで我慢できるなんて。さすがこの学院の一年生だね。優秀だ」
よく分からない誉め方をされた後、レクトとウルリケはモーゲンに勧められるままにお菓子を口に運んだ。
「……んっ」
レクトは思わずウルリケを見た。ウルリケも目を瞬かせてレクトを見ていた。
このお菓子、すごくおいしい。
その時だった。
がさがさと脇の茂みが揺れたかと思うと、神経質そうな顔をした小柄な男子生徒が姿を現した。
「いやあ、採れた採れた」
「バイヤー!」
「やっと戻ってきた!」
モーゲンとチェルシャに咎めるような声を上げられて、バイヤーはうろたえたように二人を見た。
「な、なんだよ。二人ともそんな声を、あっ」
レクトとウルリケに気付いたバイヤーは、しまった、という顔をする。
「ごめん。ちょうどそこに、茎の太いタカマキツメクサがあったんだ」
「ごめんじゃないよ」
モーゲンは頬を膨らませてバイヤーを睨んだ後で、表情を緩めた。
「でもまあ、帰ってきてくれてよかったよ。レクトとウルリケ。君の担当の一年生だよ」
「ああ、お待たせしちゃって申し訳ない」
バイヤーはそう言いながらローブに付いた葉っぱや蜘蛛の巣を手で払う。
「僕はバイヤー。じゃあ、森の案内をするからついてきて」
レクトとウルリケは、手を振るモーゲンたちに見送られ、バイヤーの後について森に足を踏み入れた。
「森には遊びに来ることも多いけど、授業で使う薬草を採りに来ることも多いんだ」
そう言いながら、バイヤーが道の脇の茂みを指差す。
「ほら、そこにオドリビナが生えてる」
とっさに言われて、レクトとウルリケもそちらを見るが、どの草のことを言われているのか分からない。
「ほら、そっちにはアスミグサ。ああ、カゲムラサキの小さいのも生えてるじゃないか」
道を歩くバイヤーの口からは、次から次へと草の名前が飛び出してくる。
「それ、全部覚えてるんですか」
レクトが思わず口を挟むと、バイヤーは当然のように頷く。
「君たちだって覚えるさ。薬湯を作るのに必要なんだから」
「そんなにたくさん、覚えられるかな」
思わず不安になってウルリケを見ると、ウルリケは勝気な瞳でレクトを見返した。
「必要な勉強だもの。今まで他の人にできたなら、私たちにだってできるわ」
「そう、その通り。いいこと言うね」
バイヤーは頷いた。
「この学院では、本当にいろいろなことをやらされるよ。自分の得意なことばかりじゃなくて、できれば御免こうむりたい苦手なことまでね。でもとにかくやってみることさ」
そう言って、二人を振り返る。
「やれば終わるからね。やらないといつまでたっても終わらない。それと、大事なのは」
バイヤーは人差し指を立てた。
「どうせやるなら、楽しんでやったほうがいいってこと。知らないことを知るって、楽しいことだからね。まだこんなに覚えなきゃならない、じゃなくて、まだこんなに新しいことを覚えられる、さ」
それからバイヤーは、森の中の薬草の群生地や、一年生にちょうどいい遊び場をいくつか教えてくれた。
【エピローグ】
暗くなりかけた道を、レクトとウルリケは寮へと歩いていた。
オリエンテーションは、張り切った三年生たちの案内のおかげで、すっかり終了時刻を超えてしまい、一年生たちは最後の場所からそれぞれ解散となったのだ。
「今日一日で、この学院のことが色々と分かったわ」
ウルリケは満足そうに言った。
「魔術師になる夢に、また一歩近づいた気がする」
「うん、僕も」
レクトは言った。
たくさんの三年生に案内してもらったおかげで、不安な気持ちも消えたし、知り合いが急に増えた感じがした。
寮ですれ違う上級生が、話したことのある人だというだけでも安心できる。
もしも何か困ったことがあったら、あの三年生たちに聞いてみればいいんだ。
「レクト」
不意に、ウルリケがレクトの名を呼んだ。
「私ね、思ったことをそのまま口に出しちゃうところがあるの。それでちょっと、生意気な子だと思われたりすることもあって。今日も隣で、はらはらしたでしょ?」
「え、あ、いや」
レクトは慌てて自分の顔の前で手を振る。
確かにウルリケの言動に冷や冷やするところがなかったと言えば嘘になる。
でも、レクトが今日見たウルリケは、それだけの女の子ではなかった。
「そんなことないよ。それに僕の方こそ」
だからレクトはそう言った。
「頼りないから、ウルリケもいらいらしたと思う。ごめんね」
「いらいらなんてしてないわ」
そう言って、ウルリケは微笑んだ。
「私、今日はあなたと一緒に回れてよかったわ」
「僕もだよ」
「ねえ。今度、さっき教えてもらった森の遊び場所に一緒に行ってみましょうよ」
「うん」
レクトは勢い込んで頷く。
ウルリケと二人きりで森へ行ったりしたら、たちまちからかってきそうなクラスメイトの顔が何人も思い浮かぶ。
でも、いいじゃないか。
さっきのバイヤーの言葉が蘇る。
とにかくやってみること。
何事も挑戦だ。僕らの学院生活は始まったばかりなんだから。
レクトが真剣な顔で頷いたのを見て、ウルリケがくすくすと笑った。
「どうしたの、急に真面目な顔をして」
「あ、いや」
レクトは頬を掻く。
すっかり打ち解けた二人の目の前に、寮の建物が見えてきた。
最後の「森」については、投票結果は
チェルシャ4票、モーゲン6票、バイヤー6票、デグ2票、ルゴン1票
でした。他の場所の投票結果については、作者の活動報告をご覧ください。
投票に参加してくださった皆様、ありがとうございました!
引き続き、現在実施中のキャラクター人気投票へのご参加、お待ちしています!!




