(閑話)ノルク魔法学院一日オリエンテーション午前の部
これは書籍化記念企画「ノルク魔法学院の一日オリエンテーション」をまとめたものです。
初等部入学したての一年生レクトとウルリケが、三年生の先輩たちから学院の各所を案内してもらうという趣向です。
主人公のアルマークは、残念ながらまだ学院にたどり着いていないため、登場しません。(対岸のレルブダで働いている頃でしょうか……)
【プロローグ】
レクトは、ノルク魔法学院に入学したての初等部一年生だ。
ラング公国の片田舎から、このノルク島にやって来た。
寮での生活も、学院での勉強も、まだまだ分からないことだらけだ。でも、今日もしかしたらその心配が少し解消するかもしれない。
今日は、初等部の先輩である三年生たちが学院について案内してくれる日なのだ。
三年生とは、寮ですれ違う程度でこれまでほとんど接点はないが、今日一日、担任のヴィルマリー先生のしかめ面を見なくて済むだけでも嬉しい。
一年生は二人ペアになって、学院内の色々な場所を三年生に案内してもらえるそうだ。
レクトのペアになったのは、ウルリケ。
フォレッタ王国の貴族出身の少女で、レクトとは今まで住んでいた世界が違いすぎていて、同じクラスとはいえ一言も口をきいたことはない。
「今日はよろしく、ウルリケ」
おそるおそるそう声をかけてみると、ウルリケは澄ました顔で「ええ」と頷く。
「さあ、ペアはきちんと組めましたか」
教壇で、ヴィルマリー先生がにこりともせずに言った。
「それでは、それぞれのコースに従って、出発しなさい。三年生にきちんと挨拶をすることを忘れないように。あなた方も、もうノルク魔法学院の生徒なのですからね」
「ええと、僕らは」
レクトは、配布された紙を見る。
「午前中は、武術棟、治癒術棟、魔術実践棟だって。午後は、庭園と森を案内してくれるみたいだ」
「そう」
ウルリケはそっけなく頷く。
「じゃあ、早く行きましょ」
「う、うん」
さっさと教室の出口に歩き出すウルリケの後を、レクトは慌てて追いかける。
何だか、今日一日、先が思いやられそうだ。大丈夫かな。
【武術棟】
「最初は、武術棟だったわね」
ウルリケはそう言うと、レクトを振り向きもせずに一人ずんずんと廊下を進んでいってしまう。
廊下には各教室から学院の各所へと向かう一年生たちが皆出てきていて、レクトは彼らに阻まれてウルリケを見失ってしまいそうになる。
「ま、待ってよ」
他の生徒にぶつかりそうになりながら、レクトは必死にウルリケの背中を追いかけた。
行く場所は皆それぞれだ。校舎の一階に下りて、武術棟への渡り廊下を歩くころには、他の一年生の姿もほとんどなくなっていた。
「武術棟なんて、一番最後でいいのに」
やっと追いついたウルリケが面倒そうにそう呟いたので、レクトは思わず聞き返す。
「えっ、どうしてだい」
「だって、魔術師になるのに一番必要ない場所じゃない」
ウルリケは不機嫌そうに眉をひそめた。そんな表情をすると可愛い顔が台無しだな、とレクトは思ってしまう。
「必要ないのかい」
レクトはおそるおそる尋ねる。
「武術って、僕は一度もやったことないから分からないけど」
「私はここに来る前に少しだけ」
ウルリケは大人びた仕草で肩をすくめた。
「武術なんて、礼儀作法の一種みたいなものよ。平民出のあなたには、私よりもっと必要ないと思う」
「そうなんだ」
レクトは神妙な顔で頷く。
ウルリケが言っていることが正しいのかどうかは分からないけど、とりあえず案内の三年生に失礼なことを言って怒らせたりしないといいけど。
そんなことを考えているうちに、武術棟の入り口にたどり着いた。
レクトが入り口の扉を開き、ウルリケが先に入る。
レクトもその後に続いて武術棟の中に足を踏み入れ、思わず「わあ」と声を上げた。
初めて入る武術棟は、広かった。
高い天井を豪華な装飾が覆い、床には柔らかい土が敷きつめられている。
「すごいな」
レクトはぐるりと周囲を見まわし、観客席までがしっかりと設えてあるのを見て目を丸くする。
「観客席まであるよ。誰か、僕らのことを見に来るのかな」
「あなた、知らないの?」
ウルリケがため息をついた。
「この学院には、二大行事っていうのがあって、その一つが」
「おう、来たな」
快活な声がウルリケの言葉を遮った。
二人の方にすたすたと歩いてくる長身の男子生徒。
三年生だからレクトたちよりも背が高いのは当たり前だが、この高さは。
まるで大人じゃないか。僕の父さんよりも高いんじゃないか。
レクトは気後れして少し後退る。
ウルリケも呆気にとられたように彼を見上げていた。
「三年三組のコルエンだ。お前ら、レクトとウルリケで間違いないか?」
長身の三年生にそう言われて、レクトはヴィルマリー先生の言いつけを思い出した。
そうだ、ちゃんと挨拶しないと。
「あの、ええと」
「一年一組のウルリケ・アサシアです。彼は、レクト。よろしくお願いいたします」
レクトがどもっているうちに、ウルリケにさっさと二人分の挨拶をされてしまった。
「よし、それなら俺の担当だ」
コルエンはにこりと笑う。
「さっきの二人はトルクに取られたからな」
そう言ってコルエンは、レクトたち二人よりも先に武術棟に来て説明を受けていた一年生二人の方を振り返った。
レクトもつられてそちらを見ると、大柄でいかにもおっかなそうな男子生徒が、一年生二人に何やらぶっきらぼうに説明している。
向こうじゃなくてよかった。
レクトはほっとして、コルエンの快活そうな顔を改めて見上げた。
この人なら、大丈夫そうだ。
「二人とも、武術棟に入るのは初めてか?」
コルエンの問いに、二人は頷く。
入学以来、校舎以外の別棟に足を踏み入れるのは今日が初めてだ。
「まあ、そうだよな。一年の時から武術の授業は始まるけど、回数はそんなに多くねえからな」
コルエンはそう言うと、長い両腕を広げて、武術場を示す。
「ここが武術場。武術の授業も、武術大会での試合もここでするんだ」
武術大会?
初めて聞く言葉に、レクトは目を瞬かせた。
「向こうには、控室もある。武術大会の時は、選手はまずそこで待機するんだ。それからこの観客席。武術大会の時にはここが全部」
「あ、あの、いいですか」
レクトが声を上げると、コルエンはきょとんとして彼の顔を見た。
「おう、どうしたレクト」
「武術大会って、何ですか」
「あ、知らないのか」
コルエンが言うと、ウルリケが「私は知っています」と口を挟む。
「そうか。ウルリケは知ってるのか」
コルエンは笑顔でウルリケを見た。
「入学したばかりなのに、たいしたもんだな」
「ノルク魔法学院の武術大会は、有名ですから」
ウルリケは澄ました顔で答える。
「ガライ王もわざわざ臨席なさると、フォレッタでも耳にしたことがあります」
「そう。武術大会には、王様も来るんだ」
コルエンは気取らない口調でそう言った後で、レクトに向き直る。
「毎年、夏の休暇が終わった後に、武術大会が開かれる。初等部の三年生と中等部の生徒は、それぞれの学年でクラス対抗戦をやるんだ。高等部は人数が少ないしクラスもないから、個人戦になるけどな」
「三年生と中等部の生徒」
レクトはコルエンの言葉を繰り返す。
「じゃあ、僕ら初等部一年生は」
「普通の授業だ」
コルエンはにやりと笑う。
「まあ退屈だろうけど、頑張ってくれ。俺はやっと今年から武術大会だ。今から楽しみで仕方ねえよ」
そうか、僕らはまだやらないのか。
やったこともない武術の試合を、いきなり王様の前でさせられるわけではないと分かって、レクトはほっと胸を撫で下ろした。
「ええと、それから」
コルエンは実に愉しそうに、武術場の用具置き場や控室の説明をしてくれた。それを見て、レクトは、この人は本当に武術が好きなんだろうな、と思う。
魔術師なのにな。
「あと何か質問はあるか?」
一通りの説明が終わって、コルエンがそう言ったときだった。
黙ってコルエンの説明を聞いていたウルリケが、冷たい声で言った。
「武術は、魔術師になるために何か役立つのでしょうか」
ああ、ウルリケ。言っちゃった。
レクトは顔を強ばらせてコルエンを見た。
こんなに武術が好きそうな三年生相手に、そんな言い方をしたら、怒るに決まってるじゃないか。
だがコルエンはレクトの予想に反して、むしろ嬉しそうな顔で首を捻った。
「さあ、どうだろうな。魔術師になるための役に立つか、か。考えたこともなかったな」
その答えにウルリケは失望したような表情をするが、コルエンはまるで意に介さずレクトを見た。
「そういえば、レクト。お前、武術をやったことがないって言ってたよな」
「あ、はい」
「ちょっとやってみるか」
「え? でも」
「いいから、いいから」
コルエンはレクトの返事も待たずに長い脚で走っていくと、練習用の剣を持ってきた。
「ウルリケもやるか?」
「私はいいです」
「そうかい?」
コルエンは気にした様子もなく、レクトに剣を持たせる。
「ほら、これが剣だ。ちょっとわくわくするだろ」
「え、あ」
ずしりとした重さ。
コルエンの言う通りだった。男の子のサガと言ってもいいかもしれない。
どうしてだろう。剣を持っただけで、レクトの胸は高鳴った。
「構えてみな」
「ええと」
適当に構えてみる。
「よし、そのまま突いてみな」
言われるがままに剣を前に突き出してみる。
自分ではかっこよかったように思えたが、ウルリケが眉をひそめたのであまりうまくはいかなかったようだ。
「ちょっと脇が開きすぎな気がするわ」
「お、ウルリケ」
コルエンがにやりと笑う。
「やる気になってきたな」
「なっていません」
慌ててウルリケがそっぽを向く。
「まあいいや。じゃあウルリケはちょっと観客席で見てるか」
そう言うが早いか、コルエンはウルリケをふわりと抱き上げた。
「え、ちょ」
驚いた顔で身体を硬直させるウルリケに構わず、コルエンは観客席に歩み寄ると、その長身を生かして最前列の席に彼女の身体を優しく下ろした。
「ここでちょっと見てな」
コルエンはウルリケに微笑んでみせる。
「レクトの突きを、もう少しかっこよくするから」
ウルリケは真っ赤な顔で何か言おうとして、何も口から出てこずにローブの裾をぎゅっと掴んだ。
「レクト。お前の構え、あと三箇所くらい直せばすげえかっこよくなるぞ」
呆気に取られているレクトに、コルエンはそう言いながら歩み寄る。
「ウルリケが言ったみたいに、脇をしめて、それから腰を落とす。そうだ。それと、顎を引いてみな」
言われたとおりにレクトは自分の構えを直す。
何だか、さまになった気がする。
「力が外に逃げねえように、腿の内側にぎゅっと力を入れるんだ。それから、思い切り突いてみな」
言われるがまま、レクトは剣を突き出した。
突きが、今度はぶれなかった。
さっきはしなかった、びゅっという風を切る音がした。
「どうだ、ウルリケ」
コルエンが観客席を振り返る。
「よくなったろ」
まだ頬に赤みを残したウルリケが、素直に頷いた。
「ええ、レクト。さっきの突きよりも今の方がずっといいわ」
「本当かい」
「もちろん、まだ全然足りないけれど」
そう言われて、レクトはがっかりする。
「ま、あとは練習だな」
コルエンがレクトの肩を叩いた。
「お前、武術のセンスあるぜ」
それが本気なのかそれともお世辞でからかっているのか、コルエンの表情からはまったく分からなかったが、レクトも誉められて悪い気はしなかった。
さっきまで得体の知れなかった武術の授業や武術大会が、急に楽しみになってきた。
そうすると、俄然目の前の三年生にも興味が湧いてくる。
これだけの体格を持った生徒の突きって、いったいどんなだろう。
「コルエンさんの突きも見せてくれませんか」
レクトが言うと、観客席のウルリケも頷いた。
「私も。私も見たいです」
「え、俺か」
コルエンは少し困った顔をする。
「俺の場合、本気でやると止まらなくなっちまうから。じゃあ、軽くな」
そう言って、コルエンはレクトから受け取った剣を言葉通り軽く突き出した。
だが、そのしなやかで伸びのある突きは、レクトのさっきの突きとはまるで次元が違った。
びゅん、という突風のような音がした。
「すごい」
レクトが呟く。ウルリケも観客席で目を丸くしている。
ちょうどそのとき、時間を告げる鐘が鳴った。
「移動の時間だな」
コルエンは剣をくるりと回した。
「じゃあ、俺の案内はこれで終わりだ」
そう言って、観客席のウルリケに腕を伸ばす。
「ほら、下ろしてやるから掴まれよ」
「じ、自分で下りられます」
ウルリケは真っ赤な顔でそう言うと、脇の階段から武術場に下りてきた。
「ありがとうございました」
二人が改めてお礼を言うと、コルエンはにやりと笑った。
「俺は別に武術の先生でも何でもねえけど、まあ、あれだ」
そう言って、ウルリケを見る。
「ウルリケがさっき言ってた、魔術師にとって武術が役に立つかどうか。結局のところ、やってみなきゃ分からねえと思うぜ」
「……はい」
ウルリケは頷いた。
「どうせ、授業でやることになるのですから、きちんとやります」
「そうそう。どうせやらなきゃならねえなら、楽しんだ方がいいだろ」
コルエンはそう言ってまた笑った。
「さあ、次の場所に行きな。新しい生徒が来たみたいだ」
【治癒術棟】
武術棟を出たレクトとウルリケは、次の目的地の治癒術棟へと急いだ。
ウルリケはまだ少し赤い顔で、武術棟の方をちらりと振り返って、はあ、とため息をついたりしている。
「コルエンさん、かっこよかったね」
レクトはそう言ってみた。
「そうかしら」
なのに、ウルリケはそう言って首を傾げる。
「背だけはすごく高かったけど。がさつだったし、乱暴そうだし」
けれどそう言いながらも、ウルリケの顔はやっぱり赤い。
「そうかな。親切だったと思うけど」
女の子の考えることはよく分からない。
「僕、武術がんばってみようって気になったよ」
「まあ、そうね」
ウルリケは頷いた。
「あなたのさっきの突き、まあまあだったと思うわ」
素直にそう誉めてもらえて、レクトは悪い気はしない。
コルエンのおかげで二人の間にも少しだけ柔らかい空気が流れた。
渡り廊下を渡って、治癒術棟に入る。
扉を開けた瞬間、独特の匂いが鼻を衝いた。
「薬草の匂いだ」
「これ、慣れるまで大変そうね」
ウルリケが顔をしかめて、ローブの袖で鼻を押さえる。
入った先は、ホールになっていた。
「あら、一年生ね」
二人を出迎えたのは、目の大きな女子生徒だった。
「あなたたち、お名前は?」
「ウルリケ・アサシアです。それと」
「レクトです」
今度はウルリケに全部言われてしまわないように、レクトは慌てて自分の名前を言った。
女子生徒はレクトを見てにこりと微笑んだ後で、頬に指を当てる。
「ウルリケとレクトね。残念だわ、あなたたちは私の担当じゃないみたい」
「ロズフィリア」
女子生徒の背後から、男子生徒が姿を現した。
「ウルリケとレクトなら、僕の担当だ」
細身の、聡明そうな顔立ちの三年生。
レクトは、その顔に見覚えがあった。
「そう。アインの担当なのね」
ロズフィリアと呼ばれた女子生徒は頷き、一年生二人に笑顔を向ける。
「運がよかったわね、あなたたち。エメリアとかキリーブが担当だったら、大変だったわよ」
「君は余計なことを言わなくていい」
後から来た男子生徒は顔をしかめてそう言うと、改めてレクトとウルリケの前に立った。
「僕はアイン。3年1組のクラス委員をしている」
クラス委員。それで見覚えがあったんだ。
レクトは思い出す。
僕らの入学式の時に、在校生の代表としてこの男子生徒が挨拶をしていた。
そんなことを考えているうちに、またウルリケに先を越されてしまった。
「1年1組のウルリケ・アサシアです。こっちは同じクラスのレクト」
「ああ、分かっている。それじゃあ僕についてきたまえ。治癒術棟の案内をしよう」
笑顔で手を振るロズフィリアに別れを告げ、二人はアインの後ろについて歩き出した。
「治癒術棟は、大きく二つに分かれている」
歩きながら、アインはそう言った。
「二階にあるのは、教室だ。座学の授業はそこで受ける」
そう言って、二階へと上る階段を示す。
「まあ、単なる教室だ。珍しいものではないから、帰り際にでも覗いていくといい。治癒術棟の主要部分はこの扉の先の」
アインはホールから奥へと続く大きな扉を指差した。
「実習室だ。来たまえ」
アインが扉を押し開けると、漂っていた独特の匂いがさらに強まった。
広い空間に、薬草を刻んだり下処理したりするためのテーブルがずらりと並んでいる。
その奥の炊事場にはいくつもの鍋が火にかけられるようになっていた。
「わあ」
レクトは思わず歓声を上げた。
「すごい。寮の厨房みたいだ」
「いいところに気付いたな、レクト」
アインは微笑んだ。
「毎日の食事は、僕たちの口を通して体内で命の基礎を作ってくれる。薬湯づくりも、口を通して体内に入るスープを作るのだと考えれば、ここは厨房と言えなくもない」
何だか難しいことを言われて、レクトは瞬きをする。
「じゃあ、毎日の食事が薬湯ということも言えますね」
ウルリケが言うと、アインは笑顔で頷く。
「理解が速いな、ウルリケ。そうだ。毎日の食事も、薬湯も、そこにあるのは効果と濃度の差で、どちらも僕らの生命力を活性化させるものだといえる」
「寮の厨房も、薬湯室ということですね」
「そうだ。そう考えると、薬湯づくりも身近になるだろう」
「はい」
アインの言葉に、ウルリケが嬉しそうに頷く。
レクトにはよく分からない。なんだか、取り残された気分だ。
「薬湯を作る時は、この実習室に半日以上も入り浸りになる。時間をかけて、じっくりと煮詰めていかないといけないからな」
アインは言った。
「もっとも、薬湯づくりは薬草を自分で探してくるところから始まるといえるかもしれないな。この学院の森には多種多様な薬草が生えているんだ」
そこまで喋ったところで、アインの説明は、慌ただしく実習室に入ってきた生徒に邪魔された。
「ああ、アイン。ここにいたのか」
整った顔立ちの三年生が、アインを見てほっとしたように声を上げた。
「どうした、ムルカ」
「ちょっと来てくれないか、フィッケが大変なんだ」
「またあいつか。だが、僕はまだ彼らに説明をしなくては」
アインがそう言いかけた時、ちょうど別の小柄な三年生がふらりと入ってきた。
「ああ、ちょうどよかった、キリーブ」
アインに名前を呼ばれた小柄な生徒は、ぎくりと足を止める。
「な、なんだ。何もちょうどよくはないぞ」
「すまない、僕はクラスの方でちょっと野暮用ができてしまった。彼ら二人に治癒術棟の説明をしてもらえないか」
「ど、どうして僕が」
小柄な生徒は叫んだ。
「僕は自分の担当の説明を終えたところだぞ。その二人はお前の担当だろう。自分が責任をもって説明しろ」
「だから、すまないと言っている」
アインは言った。
「午後の説明は代わりに僕が全部やってやろう。すぐに戻ってくるから、それまでの間だけでいい」
そう言いながら、もうアインは呼びにきた生徒とともに出口に向かいかけていた。
「頼む、キリーブ」
「あ、おい。待て、僕はまだやるとは」
キリーブは抗議の声を上げかけるが、アインはムルカと連れ立って出ていき、扉は大きな音を立てて閉まってしまった。
「なんて自分勝手な」
キリーブは忌々し気に呟いた後で、自分を見つめる一年生二人の視線に気付く。
「まあ、お前らが悪いわけじゃない。お前らもあんな無責任なクラス委員に担当されて災難だったな」
そう言うと、ごほん、と咳払いする。
「3年3組のキリーブ・ベアノルドだ」
「レクトです」
すかさずレクトは言った。
「それで、こっちが」
「ウルリケ・アサシアです」
ウルリケは、さっと名前を名乗ってしまう。
「よろしくお願いします、キリーブさん」
「あ、ああ」
ウルリケに会釈され、キリーブはなぜかきょろきょろと目を泳がせた。
それから、レクトの方だけを見て口を開く。
「この治癒術棟には、数千種類の薬草が保管されている」
それがものすごい早口だったので、レクトは何かの聞き間違いかと思ってキリーブの顔を見た。
だがキリーブは顔を赤くしたまま、ウルリケの方を決して見ようとせずに喋り続ける。
「薬草はノルク島に自生するものも多いな。だけど、それだけだと思うなよ。大陸南部、中原、果てはメノーバー海峡を越えたこの世の終わりみたいな北の地に生えているものに至るまで、世界中の薬草がここと薬草園に集められている。治癒術の先生方が直接管理する薬草園は別の場所にあるんだが、そちらは大陸で大きな天候不順があったときの最後の備えと言われるほどの場所だから、簡単に立ち入ることはできない。この僕と言えども、柵の外から二、三度目にしたことがある程度だ。何をしに行ったかと言えば別に薬草園が目的だったわけではなく、話すのもばからしいことだがうちのクラスのコルエンという男が薬草園の近くにある岩場には薬草園から種の飛んだ貴重な薬草が絶対に生えているはずだから摘みに行こうなどと愚にもつかないことを言い出したおかげで行く羽目になったんだ。僕とポロイスの二人がそんなくだらないことに付き合わされて」
え? 何の話だ、これ。
キリーブの説明は相変わらず早口でよく聞き取れないが、治癒術棟とは全然違う話をしているように聞こえる。
いや、それともこれも関係がある話なんだろうか。
「あそこの柵に触れたことがあるか。びりっと電気が走ったみたいに痺れるんだ。貴重な薬草の芽を動物に食われてしまってはいけないから、それでそういう魔法が施してある。聞いた話ではさらに魔獣除けの強い魔法もかけられているらしいが、僕らは魔獣ではないのでそれは発動しなかった。僕は一度柵に触ってそれで懲りたが、コルエンのばかが面白がって何度も触っているうちに、先生方に気付かれてしまって。慌てて逃げるときにつまづいたんだが、こともあろうにその僕の身体の上をコルエンが」
とにかく早口のキリーブの話がよく聞き取れず、レクトは仕方なく身を乗り出した。
ウルリケも同じだったようで、「え?」と言いながらキリーブの方に身体を乗り出す。
「うわ、待て」
キリーブはなぜか顔を赤くしてそう声を上げると、ウルリケから顔を背ける。その拍子にレクトはキリーブにぶつかりそうになって、思わず身を退いた。
「私、治癒術に興味があるんです」
ウルリケは真剣な顔で言った。
「キリーブさん、さっきの話、良く聞こえませんでした。もう一度聞かせてください」
「ぼ、僕の話をもう一度だって」
キリーブは信じられないという顔つきをした。
「もう一度聞きたいのか」
「はい」
ウルリケは頷く。
「最初から、きちんと聞きたいです」
「よ、よし。いいだろう。二人とも心して聞けよ」
「はい」
ウルリケが返事をする。
レクトも返事をしようとした時、また実習室の扉が開いた。
「思ったよりも早くけりが付いた」
そう言いながら、戻ってきたのはアインだった。
「すまなかったな、キリーブ。助かった」
「な」
キリーブが口を半開きの状態で動きを止める。
「もういいぞ。後は僕が説明しよう」
アインはキリーブの肩を叩いた。
「どこまで説明してくれたんだ?」
それから、何も答えないキリーブに眉をひそめた後で、アインはレクトとウルリケを見た。
「彼からは、どこまで説明してもらったかな」
「ええと」
レクトは返答に困る。
色々と説明はしてくれていたみたいだけど、何と言ってよいのか。
「早口で何を言っているのかよく聞き取れなくて」
悩んでいるうちに、ウルリケがそう言ってしまった。
レクトは、ああ、そんなにはっきりと、と内心冷や冷やするが、ウルリケは平然としている。
「それで、もう一度最初からお聞きしようと思っていたところです」
「そうか」
アインは頷く。
「なら、僕が最初から説明しよう」
その言葉に、キリーブが「え」と声を上げる。
「どうした、キリーブ。それとも君からもう一度説明するか?」
「い、いや」
キリーブは首を振った。
「本来の担当のお前が戻ってきたのに、どうして僕がそんなことを」
そう言いながらも、顔には未練がありありと残っている。
「やりたそうじゃないか。やってくれて構わないぞ」
「い、いいと言っているだろう」
キリーブは赤い顔で首を振った。
「僕の担当する一年生が来るかもしれないからな。ふん」
そう言うと、キリーブは肩を怒らせて奥へと歩いて行ってしまう。
「ありがとうございました」
ウルリケがその背中に声をかけた。
キリーブが振り向く。レクトも、慌てて頭を下げる。キリーブは嬉しそうな顔を必死で押し殺すような、何とも言えない表情をしていた。
「その性格の悪いクラス委員の説明が分かりにくかったら、僕のところに来い。きちんと分かるように説明してやる」
また早口でそう言って、キリーブは去っていった。
「面白い男だ」
アインは笑顔で首を傾げると、二人に向き直った。
「ばたばたしてしまって、すまなかった。さあ、説明を始めよう」
アインの説明はとても分かりやすく、二人がキリーブを訪ねることはなかった。
【魔術実践棟】
魔術実践棟は、治癒術棟とは校舎を挟んで正反対に位置している。
移動時間を告げる鐘が鳴ると、レクトとウルリケは治癒術棟を出て、校舎の一階を足早に歩いた。
「アインさんの治癒術の説明、分かりやすかったね」
レクトは隣を歩くウルリケに声をかける。
「早く治癒術、習ってみたいね」
「そうね」
ウルリケは澄ました顔で頷く。
「あの人はいろいろと詳しそうだったから、もっと聞いてみたいことがあったわ」
確かに、武術棟での興味なさげな態度とは一転して、治癒術棟でのウルリケの熱心さはすごかった。
「私、魔術実践棟はもう行かなくてもいいかも」
「え、どうしてだい」
レクトは驚いてウルリケの顔を見る。
「冗談よ」
ウルリケはそっけなくそう言いながらも、少し歩く速度を緩めてしまう。
「治癒術と薬湯って、この学院で学べるものの中で一番重要だと思うの」
「どうしてだい」
「直接、命を救える魔法だからよ」
ウルリケはそう言って、レクトを見た。
「他の魔法なんて、それに比べたら遊びみたいなものだわ」
「そ、そうかな」
「まあ行かないわけにもいかないから、ちゃんと行くけど」
ウルリケは小さくため息をつく。
「早めに終わらせて、お昼にしたいわ」
そうか。お昼の時間もあった。
レクトは思い出す。
今日は、食堂での昼食も三年生と一緒に食べるんだった。
校舎を抜けて、渡り廊下をしばらく歩き、二人はようやく魔術実践棟にたどり着いた。
いくつもある窓はいつもカーテンが閉められていて、内部を窺うことはできない。
そこをいつも出入りしている灰色ローブの痩せた怖そうな担当教師も含め、魔術実践棟は一年生には近寄りがたい場所だった。
レクトが重い扉を開けると、やはり内部は暗かった。
「お客さんが来たわよ」
暗がりの中で場違いなくらいに明るい声がして、整った顔の女生徒が顔を出した。
「男子と女子の二名様よ。あなたたち、お名前は?」
「レクトです」
「ウルリケ・アサシアです」
二人は同時に名乗ってしまった。
「んん?」
案の定、顔をしかめられる。
「ごめん、いっぺんに言われちゃうと分からないわ」
「私はウルリケ・アサシア、こっちはレクトです」
ウルリケが改めてそう自己紹介すると、女子生徒は建物の中を振り返った。
「ウルリケとレクトだって。担当の人は誰―?」
「おう。俺だ」
闇の中から快活な声がした。
「ルクスね。じゃあ、よろしくー」
女子生徒はそう言うと、また身を翻して暗がりの中に消えてしまう。
どうしたものか、とウルリケとレクトが顔を見合わせると、そこに火の玉がゆらりと舞ってきた。
「うわっ」
レクトは思わず声を上げてのけぞる。ウルリケも驚いた顔で、その火の玉を見つめている。
「ウルリケとレクトだな」
不意に耳元で男子生徒の声がして、レクトは振り返った。だが、誰もいない。
ウルリケも同じようにきょろきょろと周囲を見まわしている。
「この鬼火についてきな。足元に気を付けてな」
男子生徒の声がまた耳元で聞こえ、火の玉が二人を導くようにゆっくりと建物の内部へと飛んでいく。
レクトとウルリケはおそるおそるその後に続いた。
火の玉はやがて、一人の男子生徒を照らし出した。
「3年3組のクラス委員をしているルクスだ」
男子生徒は明るい口調で言った。
その指が火の玉を指差すと、ふわりと高く浮き上がった火の玉は三人の周囲を明るく照らした。
「魔術実践棟にようこそ」
ルクスは言った。
「ここは、いろいろな魔法を練習する場所だ。教室や特別教室で練習する魔法もあるけど、大概の魔法はここで練習を積むことになる」
「さっきの、あの声も魔法ですか」
レクトが尋ねると、ルクスは軽く頷く。
「ああ、あれは風に声を乗せる魔法。この火の玉は周りを明るく照らす魔法だ」
「すごいや。ね、ウルリケ」
レクトが目を輝かせて振り向くと、ウルリケも仕方なさそうに頷く。
「ええ、まあ」
「すぐに二人も使えるようになるさ」
ルクスはそう言って微笑むと、足元に並べられた杖を二本、手に取った。
「まだ杖を持ったことはないだろ?」
二人が頷くと、ルクスは杖を一本ずつ差し出す。
「杖を使っての魔法練習は一年生だとまだやらないんだけど、今日は特別だ。持ってみな」
二人は杖を受け取った。床から自分のお腹くらいまでの長さのあるその杖を、レクトはゆっくりと持ち上げてみる。
武術棟で持った剣よりも少し重い。
魔術師は、これで魔法を使うんだ。
レクトは試しに杖を突き出してみる。
さっき、剣を突き出したときもかっこいいと思ったけど、やっぱり僕にはこっちだ。
魔術師の杖だ。
「そうそう。そうやって使うんだ」
ルクスはレクトの初々しい仕草に笑顔で頷くと、自らも杖を手に取った。
「杖を自分の腕の延長みたいなつもりでイメージしていくんだ。そうすると、こうやって」
ルクスの杖の先端に光が灯った。
と思うと、光はそのまま輝く魚の形になって空中を泳ぎ始める。
「わあ」
レクトは声を上げた。
まるで水中にいるかのように身をくねらせながら宙を泳いだ魚は、ルクスが杖で軽く触れると今度は光の小鳥になって羽ばたいた。
「すごい」
思わず心の声がこぼれてしまった、といった感じでウルリケが呟くのがレクトにも聞こえた。
光の小鳥は空中に浮かぶ火の玉の周りをぐるりと回ると、ルクスの掲げる杖の先端に止まった。
と、鳥の形が曖昧にぼやけた瞬間、それが無数のトンボに変わる。
光のトンボが羽をきらきらと輝かせながら自分たちの周りに飛んでくるのを見て、レクトは手を伸ばした。
レクトの指先が触れると、トンボは綿毛のように細かく弾けて消えてしまう。
ルクスが杖をぐるりと回した。
トンボたちがレクトとウルリケの前の空間に集まり、固まって一つの大きな光になった。
その光が、やがて人の形をとった。
光が散ったとき、そこに立つ美しい少女を見てレクトは息を呑んだ。
少女は二人に向かってにこりと微笑んだ。
まるでこの世のものではないような幻想的な美しさだった。
「光の妖精だ」
思わずそう呟いていた。
ウルリケも魅入られたように、その少女を見ている。
「妖精だってさ、ウェンディ」
ルクスが愉しそうに言うと、ウェンディと呼ばれた少女は、照れたように笑ってルクスを振り返る。
「もう。ちょっと協力してくれ、なんて言うから何をさせるのかと思ったら」
「演出だよ、演出」
ルクスは快活な笑顔でそう言うと、杖を下ろして二人に歩み寄ってくる。
あ。妖精じゃなくて、人なのか。
レクトはもう一度目の前の少女を見た。
それもそうだ。妖精が学院の制服のローブを着ているわけがないか。
でも、光の中から出てきたときは、確かにそう見えたんだ。
「3年2組のウェンディです」
少女はそう言って、もう一度二人に微笑みかけた。
「驚かせてごめんなさい。何か分からないことがあったら、いつでも声をかけてね」
さっきまで三年生にきちんと挨拶できていた二人だが、急な展開に追いつけず、ウルリケまでが「あ」と言ったきり言葉が出なかった。
「ありがとうな、ウェンディ」
ルクスが言う。
「二人とも驚いてくれたみたいで、よかったぜ」
「いいえ、どういたしまして」
ウェンディは頷き、それからレクトたち二人を心配そうに見た。
「ちょっと驚かせすぎちゃったかしら」
「そんなことないだろ。そりゃガレインでも出てくりゃ驚くだろうけど」
ルクスが他人事のようなことを言う。
「あ、あの」
レクトがようやく言った。
「びっくりしました。すごかったです」
「おう、そう言ってもらえるとほっとするな」
ルクスが笑顔で頷く。
「ルクスの魔法はすごいのよ。一年生の頃からずっと別格なんだけど」
ウェンディの言葉に、ルクスはちらりと顔をしかめる。
「あなたたちもここで一生懸命練習すれば、二年後にはきっと彼みたいに自在に魔法が使えるようになるわ」
「はい」
ウルリケが返事をした。
「私も魔法、使えるようになりたいです」
ウルリケったら、さっきまで他の魔法なんて遊びみたいなものだって言ってたのに。
レクトが驚いていると、ウェンディは優しい笑顔で頷いた。
「大丈夫、努力さえ惜しまなければ必ず使えるようになるから」
「いいこと言うな、ウェンディ」
ルクスが言った。
「そう、この学院では一に努力、二に努力だ。お前らも頑張れよ」
ウェンディが去った後、ルクスはクラス委員らしい真面目さで、建物の細かい場所まで熱心に教えてくれた。




