運命
「学院長は、私に計画は成就しないと言った」
ライヌルは大きな声で言った。
目の前のイルミスに聞かせるだけであれば、必要のないはずの大声。
彼の感情に触発されたように、漆黒の蛇がぎりぎりとイルミスの身体を締め付けた。
イルミスは身をよじろうとしたが、ライヌルは彼に向けて笑顔で首を振る。
「その蛇が巻き付いた以上、君は自分の魔力を魔法に結び付けることができない。おとなしく聞きたまえ」
イルミスは答えなかったが、ライヌルはもう彼の反応を待たなかった。
「私は病で、あと数年で死ぬのだと、あの星読みはそう言ったんだ」
ライヌルは言った。
誇らしげに、自分の両腕を広げる。
「見ろ、イルミス。私の身体を」
ライヌルは口元を歪めた。
「これが、病で死んだはずの身体だ」
そのままの姿勢で空を見上げる。
「運命、運命、星の定めた運命」
ライヌルは叫んだ。
「何が運命だ。私を縛ってみろ。この身体が醜いか。闇に侵された醜い身体と嗤うか。ならば、縛ってみろ、私よりもよほど醜い星どもよ。この私を貴様らの思うように翻弄してみるがいい」
ライヌルが激高する様を、イルミスは無言で見つめた。
しばらく空を睨んだ後で、照れたような笑いとともにライヌルは冷静さを取り戻した。
「ああ、また興奮してしまった。この話題になると、どうしても冷静さを欠くんだ」
「魔術師を育てる、か」
イルミスは言った。
「君がそんな大望を抱いていたとはな。初めて知ったよ」
「そうだろう」
ライヌルは頷く。
「君にも言っていなかったからね」
「病魔を振り切ったんだな、ライヌル」
イルミスはライヌルの顔を見た。
「君は、自分の身体もろともに」
「ははは」
ライヌルはその言葉に笑う。
「振り切ったのは、病魔などというちっぽけなものではないよ、イルミス」
そう言ったライヌルの目に、先ほどの熱病に浮かされたような光が戻ってきた。
「運命」
ライヌルは言った。
「私が振り切ったのは、運命そのものさ」
その意味するところが、イルミスには分かった。
「君が時間がないと言う理由が、それで分かった」
イルミスは言った。
「だが、いったいどうしてガライの宮廷魔術師になったのだ。それだけ筆頭の座にこだわった君が」
「魔法の後進国であるフォレッタならば、筆頭の座に、と言ったまでさ」
ライヌルは肩をすくめる。
「ガライであれば、さすがに筆頭とまでは言わないさ。いずれはそこに座るとしてもね。最初はまあ、有象無象の位置から始めるつもりだったよ。とはいえ、私にはもうそんな地位への執着は微塵もない」
「君は、確かウォルフ王太子のお付きをしていたな」
イルミスは鋭い目をライヌルに向けた。
「君の変容と、今回の画策。そこに王太子も関与しているのか」
「ウォルフ殿下を巻き込んだつもりはないよ」
ライヌルは微笑む。
「あの方が何をどうお考えなのかまでは、分からないがね」
「これだけの強力な魔法具を、君が独力で準備できたとは思わない」
イルミスは言った。
「君のその身体も含め、背後には必ず大きな力が動いている。それほどの力を持つ存在と言えば」
「イルミス」
ライヌルは穏やかに旧友の言葉を遮る。
「野暮なことは言いっこなしだ。今、私は現にここにいる。それがすなわち、あの星読みの敗北であり、運命に対する私の勝利なんだよ。そうだろう」
それに、イルミスは答えなかった。彼が無言でライヌルを見返すと、黒い蛇が主への不敬を咎めるかのようにずるりと動いた。
「魔術師の養成、と言ったな」
代わりに、イルミスはそう言った。
「ならばあの奇妙な腕輪を使って生徒たちに強いている、試験紛いの行為もその一環ということか」
ライヌルは答えずに、薄く笑う。イルミスはその顔から、旧友の感情を読み取ろうとした。
「彼らを死地に追い込むことで、鍛えあげ、優秀な魔術師として育成しようという、それが君の意図なのか」
だが、ライヌルはイルミスの顔を見つめたまま、答えない。
「答えろ、ライヌル」
イルミスはライヌルを睨みつけた。
黙っていたライヌルが、不意に、ぐふっ、と声を漏らした。
背を折り、肩を震わせる。
闇の魔術師は笑っていた。
「ああ、イルミス。イルミス・トゥールイン」
笑いながらライヌルは、イルミスの名を呼んだ。
「君は本当に甘いな。学生の頃のイルミスのままだ」
そう言いながら、ライヌルは笑い続けた。
「まるでセリアのいつか作ってくれた飴のような。ああ、本当に、吐き気を催すほどの甘さだ」
「違うのか」
イルミスは尋ねた。
「君の意図は、そうではないのか」
「さっき私が君にしたのは、昔話じゃないか」
まだ笑いの余韻をその顔に残しながら、ライヌルが言う。
「学院に縛られ、運命に縛られ、病に縛られていた頃の私の、他愛もない願望だ。私がそれを今でも大事に抱えて、それで魔術師を育てるという夢のためにこんなことをしたと、君はそう言いたいのか」
ライヌルの顔に浮かんでいるのは、先ほど学院長に対して怒りを露わにしていたときとは、また違う種類の表情だった。
底の知れない暗さ。正しかったはずの何かを無理やりあらぬ方向に捻じ曲げたような狂気。
「イルミス。これは復讐だよ」
ライヌルは言った。
「ほかの生徒たちと石の魔術師どもとの戦いなんて、前座の余興に過ぎない。どう転ぼうが、さして興味はないよ。私の狙いは最初から、アルマーク君とウェンディお嬢様にしかない」
その声が、嗜虐的にひび割れる。
「私を受け入れなかったこの狂った世界を終わらせるためには、彼らの力が必要なんだよ」
「ライヌル」
イルミスは言った。
「それは、本気で言っているのか」
「本気のわけがないだろう」
ライヌルは舌を出した。
「この世界は、全てが冗談みたいなものさ。本気で生きる価値なんてないんだよ、君には分かるまいがね。だから私も冗談半分に、全て壊してやるのさ。あの北から来た少年と、健気な南のお嬢様の力を使ってね」
皮肉めいた言葉とは裏腹に、ライヌルの顔にはもう笑いはなかった。目の奥の闇が、さらにその濃さを増したように見えた。
「そうか」
イルミスは目を伏せた。
「分かった」
「……君にはそこから全てを見届けてもらってもいいのだが」
ライヌルは微笑んだ。
「何をやるか分からないのが、君の怖いところだからね。それに、教え子の前でそんな姿を晒すのも惨めだろう。ほら、見たまえ」
ライヌルは空を示す。
「いつの間にか、あの鳥もいなくなっている。主の惨めな姿を見たくなかったのかな。それとも自分が主を選び損ねたことを恥じて逃げていったのか」
その言葉通り、空にはもう霊鳥サグエルガルの姿はなかった。
「だから私も、ここでけりを付けようと思うよ。君との因縁に」
ライヌルがイルミスに向けて杖をかざすと、イルミスの身体を締め付けていた黒い蛇たちが絡み合い、巻き付いて、一匹の奇怪な鰐のような魔獣に変じた。
魔獣は、イルミスに巻き付いたままで巨大な口をばくりと開ける。
「さようなら、イルミス。運命に縛られた憐れな旧友よ。恨むのならば、己を縛る星々を恨みたまえ」
「運命に縛られた、か」
イルミスが不意に笑った。
その呟きに、ライヌルが反応する。
「なんだい、イルミス」
ライヌルは目を細めた。
「何か言いたいことがあるようだね」
「言ってもいいのなら言わせてもらうが」
魔獣に巻き付かれた身体を微かによじって、イルミスは言った。
「まあ、大したことではないさ」
「ふむ」
ライヌルは両手を下ろし、イルミスに向き直る。
「私だけが喋りすぎたかな」
そう言って微笑むと、右手をイルミスに差し出す。
「どうせ最後だ。言いたまえ、イルミス」
その言葉に、イルミスは軽く頷いた。
「それでは言わせてもらうが」
醜悪な魔獣の牙に晒され、それでもイルミスは臆した様子を微塵も見せなかった。
「ライヌル。君は私を、いや、私を含めた多くの人々を運命に縛られた人間と憐れむが、私には今の君の方がよほど」
イルミスは、ライヌルを憐れむように見る。
「運命に縛られているように見えるぞ」
「ばかな」
ライヌルは笑った。
「さっきの話を聞いていなかったのか。学院長に病で死ぬと言われ、それから何年が経つと思っているんだ。それでも私はまだここにいる。それが運命に縛られていない何よりの証拠じゃないか」
「君は優秀な魔術師だった」
イルミスは言った。
「私などよりも遥かに。私が君を上回っている点など、全てにおいて存在しなかった。だが、運命にこだわる君のその姿勢が、視野を極端に狭めたのか」
「視野を狭めただって」
ライヌルは笑う。
「私は自由になったんだ。君たち定命の人間には見えないものが見えている」
「そうかもしれないな」
イルミスは認めた。
「だが、かつての君であれば見えていたはずのものが、今は見えていない」
「なに」
その瞬間、光が舞った。
輝く無数の軌跡が、イルミスを食わんとしていた闇の魔獣に吸い込まれた。
「魔法は封じたはずだぞ、おかしな真似を」
ライヌルが目を見開く。
「魔獣よ、イルミスの頭に喰らいつけ」
そう叫んだが、闇の魔獣は反応しなかった。
代わりに魔獣は、身体の内側から切り裂かれるようにしてばらばらになって飛び散った。
「なっ」
「ああ、ずいぶんと絞められた」
イルミスは首に手を当てて、軽く捻る。
闇の残骸の中に光るものを見て、ライヌルが顔を歪めた。
「霊鳥の羽根か」
それは、地面に散っていたはずのサグエルガルの羽根だった。
「サグエルガルが、何の意図もなく羽根を散らして飛び去ることなどあり得ない」
イルミスは歯軋りするライヌルを哀しそうに見た。
「そんなことは、かつての君なら造作もなく見抜いていたはずだ」
イルミスは、ライヌルに向かって一歩踏み出す。
「ライヌル。運命の話はもういい」
その杖から発される強い光に、ライヌルが後ずさる。
「私は君を倒し、生徒たちのもとへ帰らねばならない」
イルミスは言った。




