過去
両目からどろどろとした汚泥のような血を流して、巨大な闇の獣が地に伏した。
ぎざぎざの牙の間から、ふしゅ、と水蒸気のような息を吐いたきり、獣は動かなくなる。
地上には無数の羽根が散らばっていたが、それでも霊鳥サグエルガルの姿はまだ空にあった。
「勝ち誇るなよ、サグエルガル」
闇の魔術師ライヌルが、唸るように霊鳥を睨んだ。
「デリュガンの刃に切り刻まれて、飛んでいるのもやっとじゃないか」
「ライヌル」
イルミスは刺すような目を旧友に向けた。
「何度も言うが、君の相手はサグエルガルではない。その視野の狭さが、デリュガンの敗因の一つだ。サグエルガルに恨みをいくらぶつけたところで、君の手には何も残りはしない」
「本当に、知った風な口をきく」
ライヌルはイルミスにも敵意のこもった目を向ける。
「私の手に何が残るのか、君に分かろうはずもない」
そう嘯くライヌルのまとう灰色のローブには、いくつもの焦げ目がついていた。
対するイルミスのローブにも、袖や裾に切られた跡が付いていたが、その数はライヌルのものよりも明らかに少ない。
学院の同期生同士の戦いは、ここまでのところイルミスが有利に進めていた。
「それでは、私の相手は君だと?」
ライヌルが捻じれた杖を手に、前に出た。
「そこまで代わりに魔法を受けたくば、喰らうがいいさ」
杖が漆黒の渦をまとう。
それはただの闇ではなかった。
孕んだ熱に、足元の石畳がしゅうっと音を立てた。
闇の炎。
それを見たイルミスは自分の前に杖をかざした。ライヌルが目を細める。
「闇で鍛えた炎をそんな杖で受けられるものか」
ライヌルが杖を突き出した。黒き炎はイルミスの身体を包み込むように大きく広がる。
だが、それを阻むようにイルミスの杖が白い光を発した。
「むうっ」
白と黒。
冷気と炎が二人の間でぶつかり合った。
巻き起こった強風に、二人の髪が揺れる。
頭上のサグエルガルが、けえっ、と鋭く吼えた。
霊鳥の警告。
イルミスは片眉を上げる。
もの言わぬ骸と化したデリュガンの身体が、不意にぐずりと崩れた。そのまま腐臭を放つ泥沼に変わっていく。
「敗因だと?」
ライヌルが口元を歪めた。
「倒したつもりだったかね、デリュガンをこれしきのことで」
ライヌルがそう言った瞬間、泥の中から何本もの縄のようなものが飛び出した。
「むっ」
杖から放つ白い冷気でライヌルの黒い炎を受け止めていたイルミスには、とっさにそれを防ぐ余裕はなかった。
イルミスの身体に呪いの紋様のように巻き付いたそれは、縄ではなく全て、黒い蛇だった。
「捕まえたぞ」
ライヌルはにやりと笑って飛びのいた。
黒炎は冷気とぶつかり合って消えたが、イルミスに絡みつく蛇は消えなかった。
「ああ、イルミス。いいざまだ。本当はもっと早く、無様な君をこうして眺めたかった」
ライヌルは、動きを封じられたイルミスをうっとりと見つめた。
「そうだ。君はさっき、私に訊いたな。あの日、何があったか、と」
思い出したようにライヌルは言った。
「高等部の三年の春だった。ガライの猟官活動から帰って、ちょうど君に出会った日のことだったな。あの日、君と別れてから私は学院長を訪ねた」
ライヌルは自分に酔ったかのように勝手に話を進めていくが、イルミスは何も口を挟まなかった。
闇の蛇がイルミスの身体の上でずるりと動き、灰色のローブに黒い染みを付けていく。
「友の質問には、誠実に答えなければならない。魔術師として、当然のことだ」
ライヌルは暗い瞳を旧友に向け、笑った。
「教えてあげようじゃないか、イルミス。あの日、私が学院長に何を言われたのか」
「学院長先生、こちらにいらっしゃいましたか」
本校舎のテラスから校庭を見下ろしていたヨーログは、自分にそう呼びかけて歩み寄ってくる青年を見て、青い目をきらめかせた。
「やあ、ライヌル」
「ずいぶんと探しました」
「すまないね。風の声を聞きたくてね」
ヨーログはそう言いながら、快活そのものだったはずの青年のこけた頬を見て、微かに痛ましそうな表情を覗かせる。
「学院に戻るのは、久しぶりではないのかね」
「ええ」
ライヌルは穏やかな笑みを浮かべた。
「ここ最近は、卒業に向けて猟官活動に勤しんでおりました」
「ふむ」
ヨーログは頷く。
「成果はあったかな」
「いいえ」
ライヌルは肩をすくめる。
「何も。この、世界に冠たる魔術師養成機関、ノルク魔法学院の首席という肩書をもってしても、私の手では何も掴めませんでした」
「ライヌル」
ヨーログは微かに眉をひそめた。
「君ともあろう者が、物事を恣意的に省略するのは良くない。何も掴めなかったのではなく、君は」
その青い目が、ライヌルの心を見透かすように微かに輝く。
「何も掴む気がなかったのだろう」
「何をおっしゃるのです」
ライヌルは肩を揺すって笑った。
「それならば、なぜ私はこれほどまでに猟官活動をしているのです。南の国々ばかりではない。中原の国々にまで足を運んで」
「フォレッタの件は聞いたよ」
ヨーログの口調は静かだった。
「宮廷魔術師の口がなくなったと」
「出自のせいですよ」
ライヌルは軽い口調で言う。
「悪意ある誰かが、私の出自をばらしたのです。平民にもなお劣る卑しい身分の出であると。それで、急遽その話は無かったことに」
「君は、いきなり宮廷魔術師の筆頭の座を要求したそうだな」
ヨーログは眼下の校庭を見下ろしながら言った。
「すでに宮廷にいるほかの魔術師たちを差し置いて、自分をその筆頭に置けと」
「当然の要求ではないですか」
ライヌルは答えた。
「最も優れた者が、最も高い地位に就く。生まれや出自など関係なく。魔術師の世界とは、そういう実力主義ではないのですか」
「理想は、そうだ」
ヨーログは認めた。
「そして理想とは、それが当然であるかのように要求するものではない。自らの手で、一歩ずつ実現していくものだ」
「私にとっては、最初の一歩のつもりでしたけれどね。宮廷魔術師の筆頭の地位などというものは」
悪びれもせずに、ライヌルは言った。ヨーログは顔を上げて彼を見る。
「君ほどに聡明な男が、自分の要求がどういう波紋を引き起こすのか、想像がつかなかったわけはあるまい」
ヨーログは、覗き込むようにして教え子の目を見た。
その奥底に、暗い炎を宿した目を。
「君は敢えて自らを苦境に追い込もうとしているように見えるよ、ライヌル」
「何のためにです」
ライヌルは笑って、師から一歩離れた。
「先生のおっしゃっている意味が、私には分からない」
「色々な人に、自分の招聘が駄目になったと話してまわっているそうだね」
ヨーログは言った。
「そうすることで、君は自ら進んで世の中への恨みと怒りを募らせているように見える。故意に、自分の力が認められない方へ進もうとしているように」
「私は世間にはびこる愚鈍な連中に認められたいなんて、これっぽっちも思っていません」
ライヌルは肩をすくめる。
「ただ、それでも私という才能が欲しいならば、それ相応の地位を用意しろと、そう言っているだけですよ」
「驕り、とも違う」
ヨーログは呟く。
「ライヌル。君を衝き動かしているのは、何かね。君ほどの男をして、なお自分の中に留めきれずに、無謀と自棄へと自らを衝き動かすその源は」
「学院長先生にも、分からないことがあるのですか」
ライヌルは低く笑った。
「そうか。夜空の星には、人間の運命は書いてあっても、それに翻弄される人間の感情までは書いていないのですか。お前らの動きは勝手に決めるが、お前らがそれについてどう思おうが興味がないと、そういうことですか」
「ライヌル。君は星読みというものを誤解しているようだな」
無礼な教え子の言葉に憤慨するでもなく、ヨーログは言った。
「運命とは、大きな流れだ。小さな出来事の全てを運命が決めているわけではない」
「詭弁ですね」
ライヌルは言下に否定した。
「大きな流れこそが、全てでしょう。それ以外のことなど、すべて取るに足らない些事だ。まるで質の悪い台本屋じゃあないですか。どうあがいても抗えぬ大きな部分はこっちで勝手に決めるから、細かい部分はそちらで適当に埋めておけ、とでもいうのですか」
「違う」
ヨーログは静かに首を振る。
「ライヌル、いいかね。運命とは一種の巡り合わせだ。その大きさに恐れをなして、抗えぬ、変えられぬと諦めることこそが」
「聞きたくありません」
ライヌルはきっぱりと首を振った。
「学院長先生、私はそんなことを言うためにわざわざ来たのではないのです。今日お話に来たのは、私がやろうと考えている計画についてです」




