魚
「きゃあああ」
セラハとキュリメの悲鳴。
バイヤーは慌てて振り向いた。
「ど、どうしたんだ!」
だが、バイヤーもすぐに目を見張った。
目に飛び込んできたのは、虹色に輝く鱗。
鱗?
バイヤーは思わず自分の目を疑う。
だが、見間違いではなかった。
それは、虹色にきらめく鱗を持つ魚だった。
現実にはあり得ないほどに、巨大な魚。
バイヤーたちなど、三人まとめてひと口で呑み込めそうな大きな口を開けた魚が、遥か下の虚空から跳ね上がり、そして鱗をきらめかせながら、また下へと潜っていった。
魚の姿は消え、周囲は元の通りに静まり返る。
「……なんだい、今の」
ようやく我に返ったバイヤーが、へたり込んでいる二人に尋ねる。
キュリメはまだ腰が抜けたように動かなかったが、セラハが立ち上がった。
「次の道までの距離を測ろうと思って、また小石を飛ばしたの」
セラハは言った。
「そうしたら突然、下からあの大きな魚が飛び出して来て、小石を飲み込んじゃった」
「それって」
バイヤーはおそるおそる道の端に行くと、下を覗き込もうとした。
「あ、だめだよバイヤー」
セラハが珍しく必死な顔でバイヤーの服を引っ張った。
「食べられちゃうかもしれない」
「う、うん」
確かにこんなところで見知らぬ魚に食べられるのはごめんだった。
バイヤーは道の端から離れる。
次に浮かぶ道までは、距離が少し離れていた。
それをやや不自然に感じてはいたのだが。
バイヤーは手近の小石を拾うと、次の道のほうに向かって思い切り投げた。
石は弧を描いて飛び、そして。
「うわあ」
「きゃああ」
再び眼下の虚空から跳ね上がってきた巨大魚が、バイヤーの投げた小石を飲み込み、身をくねらせて下へと潜っていった。
「こ、ここはあいつのえさ場なんだ。だから変に距離が空いてるんだ」
バイヤーはどもりながら、セラハを振り返った。
「あんなのがいるんじゃ、これ以上先へ進めないじゃないか」
セラハはその言葉に答えなかった。
けれど、その表情から彼と同じことを思っているのは明らかだった。
セラハの浮遊の術でバイヤーやキュリメがこの道から空中へ飛び出したら、またあの魚が飛び出してくるのだろう。
そして、おそらくは一飲みで腹の中へと呑み込んでしまうのだ。
二人は無言で顔を見合わせた。
目の前で見た巨大魚の常軌を逸した迫力に、まだまともに頭が働かなかった。
「くそ」
ようやくバイヤーは呟いた。
「本当に殺しに来てるじゃないか、僕らのことを」
そう言って、地面を蹴る。
「たった三つしか魔法を使わせてくれないくせに、あんな化け物まで配置して。最初からゴールさせる気なんてなかったんだ」
「考えましょう」
震える声でバイヤーの言葉を遮ったのは、キュリメだった。
まだへたり込んだまま、青い顔で、それでもキュリメは首を振った。
「何か方法があるはずよ。考えましょう」
「そうね。バイヤー、あなたはたった三つの魔法って言ったけれど、それをうまく使えば」
セラハがそう言いかけて、何かに気付いた顔をする。
「あなたの鬼火の術」
「え?」
「あれで、魚を釣り出せないかしら」
セラハは言った。
「石を投げたんじゃすぐに食べられてしまうけれど、鬼火をふわふわと飛ばして、あの魚をおびき寄せている間に、向こうに行ってしまうの」
「な、なるほど」
バイヤーは頷く。
「僕の出番じゃないか!」
途端に元気よく杖を振り上げる。
「それはすごくいいアイディアだよ。僕も役に立てる時が来たんだね」
「まずは試してみましょう」
キュリメが慎重に言った。
「あの魚が、本当に鬼火に引っかかってくれるのか」
「そうだね」
バイヤーは頷いた。
「石しか食わない魚かもしれないからな」
バイヤーは杖の先に鬼火をともすと、それを先に浮かぶ道のほうへと飛ばした。
「こんなに簡単なのか」
思わずそう呟く。
魔力の制御をせずに、速さと方向をコントロールするだけなら、なんと簡単なことか。
バイヤーの鬼火が順調に途中まで飛んだ時だった。
姿を見せた魚に、三人ともさすがにもう声は出さなかった。
だが、その巨大さには自然と畏怖の念が湧きおこる。
現れた巨大魚は鬼火をばくりとくわえると、再び下へと戻っていった。
「よ、よし。喰いついたぞ」
バイヤーはこぶしを握り締めた。
「後は、鬼火をコントロールしてあいつを遠くに誘い出せば、どうにかなりそうだ」
ここを無事に渡れる希望が見えた気がした。
だが、そううまくはいかなかった。
鬼火の速度が足りないのだ。魚をおびき寄せるどころではなく、いきなり出てくる魚に、鬼火はいつもばくりと食われてしまう。
「くそ、鬼火がもっと早く動けばいいのに」
だが、それが鬼火の術の特性だ。こればかりは変えようもない。
せっかくのいいアイディアに思えたが、三人の突破はまた暗礁に乗り上げた。
……かに見えたが。
「ねえ、私気付いたんだけど」
そう言ったのは、やはり冷静な観察眼を持つキュリメだった。
「魚が下に潜ってから、次に顔を出すまでに時間がかかるんじゃないかしら」
「どういうことだい」
そう言いかけて、バイヤーにもキュリメの言わんとしていることが分かった。
「ああ、それはそうだね。あいつだって下に潜ったその瞬間にまた跳び上がってくるなんてことはできないはずだよ。あんなのがこの下にまだ何匹もいなければの話だけど」
「それなら、こうしましょう」
セラハが自分の足元に、小石をいくつか並べた。
「あの魚があなたの鬼火に食いついて下に潜ったら、私が同じペースでこの石を投げるわ。それで、魚が次に顔を出すタイミングが分かると思う」
「君もキュリメもすごいな」
バイヤーは素直に称賛した。そして、自分にもできることがあるということが、彼には嬉しかった。
「よし、それならやってみよう。鬼火を出すよ」
バイヤーが鬼火を飛ばす。
まっすぐに飛んでいった鬼火は、やはり途中で跳ね上がってきた巨大魚に食われた。
巨大魚が下に潜っていったのを見計らって、セラハが石を投げる。
「一」
石はそのまま弧を描いて下へと落ちていく。魚は出てこない。
「二」
セラハが次の石を投げた。
やはり同じような軌道を描いて、石は下へと落ちていく。
「三」
セラハの投じた三個目の石は、下から湧き上がるように現れた巨大魚に飲み込まれた。
「……二個分の時間があるわ」
セラハの言葉に、キュリメが補足する。
「魚が落ちていくのに合わせて出発してしまえば、もう少し時間があると思う」
「そうね」
セラハは頷いた。
「それだけの時間があれば、浮遊の術で向こうまで届けられると思う」
「おいおい、二人とも」
バイヤーが口を挟む。
「僕が出すのはただの石なんかじゃないってことを忘れないでくれ。鬼火をもっと高くまで飛ばしておけば、魚の跳び上がってくる時間をもっと長くできる。落ちる時間も少しは長くなるってものさ」
「あ、そうか。高さね」
キュリメが手を叩く。
「それなら、魚がどこまで食いついてくるか、高さを試してみましょうよ。高すぎて魚が食いつけない位置があるのなら、セラハに私たち自身をその高さまで浮かせてもらえばいいんだもの」
「いいね、よし」
バイヤーが張り切って鬼火を出す。
実験を繰り返した結果、セラハが物を浮かせてコントロールできる最も高い高度でも、魚は容赦なく食らいついてきた。
鬼火はさらに高いところまで飛ばせたが、あまりに高すぎると魚はもう反応しなかった。
「じゃあ、作戦は決まったね」
セラハが言う。
「バイヤーに、魚が食いつくぎりぎりの高さの鬼火を出してもらって、魚が下に落ちていくときに私が二人を順番に向こうの道に飛ばす」
「うん」
「ああ」
二人が頷く。
「ちょっと乱暴な飛ばし方になっちゃうと思うから、着地は自分たちで何とかしてね」
「大丈夫」
「なんとかするさ。それより問題は」
バイヤーがそこまで言ったところで、背後で、どん、という大きな音がした。
三人が振り返ると、通ってきた道の一部が爆発して、ばらばらと下に落ちていくところだった。
「な、なんだ?」
「リラの光球よ」
キュリメが青い顔で言った。
制限時間代わりの光球が、背後の道を粉々に吹き飛ばしたのだ。それに代わる新しい光球がどこからかふわりと現れた。
「……早く行けってことね。ちょっと時間を使いすぎたかしら」
セラハの言葉に、バイヤーが首を振る。
「いや、まだだ。セラハ、君の問題が解決していない」
「そうね。これしか時間がないんじゃ、セラハは向こうに渡れない」
キュリメも同意した。
「あなたが渡るには、もう少し時間が必要。そうでしょ、セラハ」
その通りだった。
セラハが二人を浮遊の術で飛ばすのには、ほとんど時間はかからない。
だが、セラハ自身が渡る時には、固めたローブを乗り物としてコントロールしなければならないので、二人を飛ばすほどの速さでは移動できない。
石二個分程度の時間で向こうに渡れるのか。それはかなりきわどいタイミングだった。
また背後で、どん、という音がした。
通ってきた道が、また一つ崩れていく。
「時間がないわ」
セラハは言った。
「厳しくてもやるしかない、そうでしょ?」




