カード
必死な表情で鎖を掴んだキュリメが、危なっかしくふらふらと揺れながらもなんとか登攀を終え、それに続いて全身汗だくになったバイヤーが岩場を登り終えた。
「ああ、良かった」
バイヤーが岩場の頂上に座り込んで、そう叫んだ。
「落ちずにすんだ。僕にもどうにか登れたぞ」
「お疲れさま、バイヤー」
セラハが微笑む。
「下りは、ほら、見て」
セラハが指差す岩場の反対側には、階段が刻まれていた。
黄の魔女リラの作った道は、階段を下りたところからまた断崖の尾根をまっすぐに伸びていた。
「助かるよ。また鎖で下りるのかと思った」
「私も。もう手の力が」
キュリメも疲れた顔で両手を握ったり開いたりしている。
「だめだな、やっぱり魔術師だからって魔法にばかり頼っていたら」
バイヤーは呻くように言った。
「セラハ、君を尊敬するよ。あの鎖も無しで、よくここまで登ってこれたね」
「私も辛かったけど」
セラハは汚れた両手を見せる。
「私しかやれる人がいなかったから、覚悟が決まったわ。そりゃアルマークやネルソンならもっとうまく登っちゃうでしょうけど、今ここにいない人のことを言っても仕方ないものね」
「その通りだ」
まだはあはあと喘ぎながら、バイヤーが頷く。
「ここには僕ら三人しかいない。僕らの力で何とかするんだ」
「ねえ、二人とも」
バイヤー同様に座り込んでいたキュリメが、二人を振り返った。
「あんまりのんびりはしていられないみたい」
そう言って、自分たちが歩いてきた眼下の道を指差す。
「ほら」
それを見たバイヤーが、うぐ、とおかしな声を出す。
「追ってきてるな」
道に沿うようにして、小さな光球が漂ってくるのが見えた。
決して速くはないが、浮いている以上、岩場があっても速度に影響を受けることはないだろう。
「下りよう」
セラハは言った。
「バイヤー、動ける?」
「動けなくたって、動くさ」
バイヤーはローブの袖で汗を拭うと、立ち上がった。
「あのおっかない球に追いつかれるくらいならね」
駆け足で岩場を下りた三人は、細い道を先へと急いだ。
「あそこに何かある」
先頭を歩いていたバイヤーが前を指差した。
「本当だね」
後ろにいたセラハも頷く。
「あれ、何だろう。黄色い何か」
「揺れてるわ」
キュリメも目を細めた。
「……旗?」
「何か書いてあるな」
バイヤーが小走りに駆け寄っていく。
「あ、バイヤー。そんなに急ぐと危ないよ」
セラハが声を掛けるが、バイヤーは途中で立ち止まって二人を振り返った。
「チェックポイントの旗だよ」
バイヤーは両手を振って言った。
「ふん、ばかにしてる。またあの下手くそな字で、リラの第一チェックポイント、なんて書いてある」
「チェックポイントっていうことは」
セラハは隣を歩くキュリメの顔を見る。
「ええ」
キュリメも頷いた。
「ここでカードが引けるっていうことね」
三人は旗の前にたどり着いた。
錆びた鉄棒に結びつけられた黄色い旗は、地面に深々と突き刺され、風にはためいていた。
無造作な旗の造作と、そこに書かれた幼い字がひどく不釣り合いで、三人は妙に落ち着かない気分になった。
「じゃあん」
突如、はしゃいだ声とともに何もない空間からリラが姿を現した。
「うわ」
バイヤーが思わず声を上げ、キュリメがびくりと肩を震わせてセラハのローブの袖を掴んだ。
「ここが第一チェックポイントよ。ここに来るまでに、結構時間がかかったね」
無邪気な口調のリラに、バイヤーが言い返す。
「魔法も使えない状態で、あんな岩場を登らせるからじゃないか」
「あれ、バイヤーがまだ生きてる」
リラはそう言うと、口に手を当てて、きゃはは、と笑った。
「最初の岩場で落っこちて死んじゃうかと思ってたのに」
「な、なんだと」
バイヤーは顔を赤くする。
「誰があんなところで死ぬもんか」
「まあいいや。はい、それじゃあお楽しみの、魔法カードの時間でーす」
そう言いながら、リラがカードの束を取り出した。
「さあ、カードを引いて」
嬉しそうに、無邪気に微笑む。
「どれでも、好きなのを」
カードの束を差し出されたバイヤーは、とっさに伸ばしかけた手を途中で止め、難しい顔で考え込んだ。
「ええと」
「そんなに悩まなくたっていいのよ」
リラはくすくすと笑う。
「考えても分かるものじゃないんだから」
「そうね」
セラハが頷く。
「バイヤー。とりあえず、引くしかないわ。それから考えましょう」
「私もそう思う」
キュリメも小さな声で言った。
「時間もそんなにないし。引きましょう」
「よ、よし」
バイヤーは意を決したように一枚のカードを引いた。
「ああ、何だこれ」
カードを裏返して、バイヤーは天を仰ぐ。
「鬼火の術だって。こんなところで」
うふふ、とリラは嬉しそうに笑う。
「それだって、使いようよ」
それから次にセラハにカードの束を差し出す。
「さあ、次はセラハね」
「ええ」
セラハはカードを一瞥した後で、真ん中あたりのカードを引き抜いた。
「じゃあ、これ」
裏返して、小さな歓声を上げる。
「物体浮遊の術だわ」
浮遊の術、引き寄せの術などとも呼ばれるこの魔法は、色々な場面で応用が利く、使い勝手の良い魔法だった。
「さすがセラハ、便利な魔法を引いたわね」
リラが頷く。
「さあ、最後はキュリメ。もっともっといい魔法を引き当ててね」
小さく頷いてキュリメがカードを引く。
「あっ……」
キュリメは顔を曇らせた。
「石化の術」
「ちょっと面白い魔法を引いたわね。どう使うか、よく考えてね」
リラは微笑んだ。
「三枚出揃ったわね。そのカードがあれば、自分の魔力を使わずに魔法が使えるわ。だから、じゃんじゃん使っちゃってね」
「鬼火の術をどうじゃんじゃん使うんだよ」
バイヤーがぼやく。
「使い方は、その人次第よ」
リラは楽しそうにバイヤーの顔を見た。
「まあ、ばかなバイヤーじゃ思い付かないかもしれないけど」
「なんだと!」
バイヤーがむきになると、リラは手を叩いて笑う。
「ああ、面白い」
それから、思い出したように自分の頬の横で右手の人差し指を立てた。
「そうそう、カードを使わないで取っておくことはできないからね」
「え?」
セラハが目を瞬かせ、キュリメが渋い顔をする。
「どういうこと?」
セラハの問いに、リラはにこにこと笑う。
「つまり、次のチェックポイントに着いたら、そのカードは力を失っちゃうってこと」
「なんだって」
バイヤーが目を剥く。
「じゃあ、どうにかして鬼火の術を使わないといけないのか」
「別に使わなくてもいいけど」
リラのバイヤーを見る目は、本当に楽しそうだ。
「自分の身体能力だけで乗り越えればいいだけだもの。だめだったら、さっきの岩場登りみたいに、セラハに助けてもらえば?」
「見ていたのか」
「当たり前じゃない」
リラは嬉しそうに言う。
「すごい顔して頑張ってたわね。それを見るのが楽しくて、こんなコースをわざわざ作ったんだから」
「趣味が悪いな、人が苦しむのを見て楽しむなんて」
「ほんと、バイヤーはばかで面白い」
笑顔でリラはそう言うと、道の先を指差した。
「じゃあ、第二チェックポイントはこの先だからね。そこで待ってるねー」
言うが早いか、身を翻す。黄色いワンピース姿はたちまちかき消すように見えなくなった。
「ああ、くそ」
バイヤーは地面の石を蹴る。
「腹が立つな、あいつ。好き勝手言いたい放題だ」
「あの子になつかれてるじゃない、バイヤー」
セラハは微笑む。
「とにかく、使える魔法は三つ。鬼火と物体浮遊と石化ね。次の障害物はそれで何とかしましょう」
「仕方ないな」
「そうね」
三人は頷き合い、また歩き始める。
そんな彼らの背後を、光球がゆっくりと追いかけていく。




