出発
目の前にまっすぐに続く道は細い。
セラハたち三人が、並んで歩いたらいっぱいになってしまう程度の幅しかない。
その両側は切り立った断崖絶壁で、底は靄に包まれていて見えない。
そして道の先も、途中で黄色い靄に包まれて見えなくなってしまっている。
「ここをどんどんまっすぐに歩いていけばいいんだよ」
三人の脇の宙に浮いたリラが、道の先を指差して、楽しそうに言った。
「しばらく歩いたら、チェックポイントがあるから、そこでカードが引けるわ」
そう言うと、リラはふわりと黄色いワンピースをなびかせて前方の靄の中に飛んでいってしまった。
「チェックポイントで待ってるねー」
楽しそうに弾んだ声だけを残して。
「あ、くそ。言うだけ言って勝手に行っちゃったよ」
バイヤーは甲高い声でそう言って、舌打ちした。
「嫌いなんだ、ああいう自己中心的なやつは。絶対に同じ部屋になんかなりたくないね」
「落ち着いて、バイヤー」
セラハは肩を怒らせるバイヤーに向かって苦笑いする。
「あなたがあの子と同じ部屋で暮らすことは絶対にないから」
「分かってるさ、そんなこと」
バイヤーは鼻息を荒くして、それでも渋々頷いた。
「でもそうだね、こんなところで怒っていたって仕方ない。できることをやろう」
「そう。それでこそバイヤーだよ」
セラハは微笑む。
「大丈夫、きっと何とかなるわ。魔術師が三人もいるんだもの」
「魔法は使えないけどね」
バイヤーはそう付け加えた後で、右手を掲げて魔力を込めてみて、顔をしかめた。
「ああ、くそ。本当に使えないじゃないか」
「変な感覚よね」
セラハも頷く。
「魔力はあるのに、それが像を結ばないっていうか」
「うん。焦点がぼやけてる感じだ」
「ねえ、二人とも」
一番後ろにいたキュリメが言った。
「そろそろ歩き始めた方がいいわ」
「え?」
セラハが振り返ると、キュリメは真剣な顔で自分の背後を見つめていた。
「ほら、あれ」
「……あっ」
セラハが目を見張り、バイヤーも、げっ、と声を上げた。
三人の視界を遮るように立てられた大きな看板。その向こうの空間に、きらりと光るものが見えた。
ゆらゆらと、宙に浮かんでいるそれに、三人は見覚えがあった。
「リラの光球だわ」
セラハは言った。
先ほど、リラが生み出し、自分で握り潰してみせた光球。野鳥の卵ほどの大きさのそれは、周辺一帯を吹き飛ばすほどの凶悪な威力を秘めていた。
「制限時間って言っていた、あれね」
セラハの言葉にキュリメが頷く。
「ええ。まだ遠いけど、あれが近付いてきたら、焦って冷静な判断ができなくなるかもしれないわ。急ぎましょう」
「そうね」
「ああ」
三人は前に向き直った。
細い道。三人で並べないこともないが、幅が心もとない。
「脇の崖に落ちたら洒落にならないから、僕が先頭に立つよ」
バイヤーがそう言って一歩前に出た。
「いいの?」
セラハの問いに、バイヤーは緊張した面持ちで、うん、と頷く。
「こう見えても、僕も男子だからね。アルマークやウォリスみたいに頼りにはならないだろうけど」
「そんなことないわ」
キュリメが小さいけれど、はっきりとした声で言った。
「だってクラン島で闇の魔術師に襲われた後も、あなたはそれを本気で怒って、悔やんでいたじゃない。次は必ず役に立つんだって」
「ああ」
バイヤーは虚を突かれたような顔をした。
「そうだね。そんなこともあった」
そう言ってから、苦笑する。
「ついこの間のことなのに、ずいぶん昔のことのような気がするな」
「色々なことがあったから」
セラハが微笑む。
「私達だって成長したわ」
「ええ」
キュリメも微笑んだ。
「だからきっと、大丈夫」
「うん」
バイヤーは頷いた。
「よし、行こう」
三人は歩き出した。
でこぼことした、巨大な岩場。
靄の中から姿を現したそれに、三人は言葉を失った。
ずっと上の方にてっぺんが見える。
「……ここを越えて行けってことかしら」
セラハの言葉に、バイヤーが呻く。
「嘘だろう、こんな険しい岩場を登れって? 魔法も使えないのに?」
バイヤーは苛立ったように、岩場の周囲をうろうろと歩く。
道はそこでぐっと広くなっていたが、方向からしてこの岩場の向こうに道の先が続いていることは明らかだった。
「チェックポイントはどうしたんだよ、カードを引かせてくれるんじゃなかったのか」
「この先みたいね」
キュリメの言葉に、バイヤーは首を振る。
「ふざけてるな」
「悩んでいても仕方ないわ」
セラハは岩場を見上げた。
「ここを登らないと」
「そりゃアルマークやネルソンなら、きっとひょいひょいと簡単に登るだろうさ」
バイヤーは悔しそうに言った。
「でも、僕はだめだ。運動は本当に苦手なんだ。試すまでもないよ。半分も登らないうちに落っこちて頭がぱっくり割れる未来しか見えない」
「それでも、行かないわけには」
「セラハ」
キュリメがセラハのローブの袖を引いた。
「あれを見て」
キュリメが指差す先を見て、セラハは「あっ」と声を上げる。
「鎖だわ」
岩場の頂上近くに、鉄の杭が打ち込まれていた。そこに、頑丈そうな鎖が繋がれ、ぐるぐると巻きつけられている。
「あの鎖、かなり長そうだわ。あれを下ろせば、みんな登れるはずよ」
キュリメの言葉に、セラハは頷いてバイヤーを振り返る。
「うん、そうだね。バイヤー、登れるわよ」
「それは、鎖があれば僕だって」
バイヤーは浮かない顔で答えた。
「だけど、あそこまで誰が行くんだい」
「私が行くわ」
セラハが言った。
「この中で運動が割と得意なのって、私だけだもの。私が行く」
「いや、セラハ。君にそんな危ないことを」
そう言いかけて、バイヤーは唇を噛んでうつむいた。
「僕は情けないよ」
そう呟く。
「僕には、それができないってことは分かってる」
「いいのよ、バイヤー」
セラハはあくまで明るい声で言った。
「それぞれが自分にできることをしましょう」
「できることって、僕には草の知識くらいしか」
自嘲気味にそう言いかけて、バイヤーは突然、はっと顔を上げた。
「そういえばさっきの」
突然岩場に駆けていくバイヤーに、セラハが驚いて声をかける。
「ちょっと、バイヤー」
バイヤーは返事もせずに、岩場をぐるりと見回した。
「ちらりと見たんだ。あれなら」
一人でそう言いながら、岩場の斜面に目を走らせる。
「これ、これだよ」
そう叫んで、岩の隙間から生えていた濃い緑色の草を引っこ抜いた。
「セラハ、これを使ってくれ」
「それ、何なの?」
駆け寄ってきたバイヤーの持つ、何の変哲もない草にセラハが目を見張る。
「使うって、どうやって」
「ちょっと形が違うんだ、僕の知ってるものとは。ここの草は見たことないものばかりだから」
バイヤーは早口で言いながら、セラハの足元にひざまずいた。
「でも、この葉っぱの裏の嚢、絶対にこれは」
そう言って、手で葉を磨り潰す。
「ああ、やっぱり」
指に付くねばついた汁に、バイヤーは会心の笑顔を見せた。
「セラハ、靴を出して」
「え?」
「ほら、早く」
言いながら、バイヤーは焦れったそうに自らセラハの足を手に取った。
「あ、ちょっと」
セラハの声に構わず、バイヤーは磨り潰した葉の汁をセラハの靴の裏に塗った。
「ツジフカツキに似てるんだ」
バイヤーは言った。
「粘着質の汁が、靴の裏に塗るとちょうどいい滑り止めになるんだ。これで岩登りも少しは楽になると思う」
その言葉に、セラハは目を見張る。
「はい、反対の足」
バイヤーは手慣れた様子で茎から次の葉をむしり、セラハの靴に擦りつける。
「キュリメ、僕らが登る時も使えるよ」
「ええ」
キュリメが頷く。
「さすがバイヤーね」
「本当ね」
セラハも頷いた。
「ほら、やっぱり」
そう言って、微笑む。
「冷静なキュリメが鎖を見付けてくれて、薬草博士のあなたが滑り止めを見付けてくれた。そして、私が岩を登る。これって、みんなが自分にできることをやってるってことじゃない?」
作業を終えて立ち上がったバイヤーは、照れたように笑った。
「いや、僕がこれを見付けたのは、さっきたまたま目に留まったから」
「私とキュリメだけじゃ絶対に気付かないわ」
セラハはバイヤーの腕に優しく触れた。
「ありがとう、バイヤー」
それから、岩場に向き直る。
「じゃあ、登るわね」
「気を付けて」
「無理しないでね」
二人の声を背に、セラハは岩に手をかけた。
しばらくのち、鎖のもとにたどり着いたセラハは二人の仲間に向かって誇らしげに手を振ると、鎖をほどき、その先端を投げ落とした。




