微笑み
掴めそうだった、答えに繋がるイメージ。
だが次の瞬間、それは何かに邪魔されるように途切れた。
レイラだけが感じた空気の振動も、止んでいた。
「ルクス」
教室の向こうから、少し甘えた、鼻に掛かる声がした。
それを聞くと、レイラの背筋をぞわっとした感覚が走る。
こればかりは仕方がない。条件反射のようなものだ。
「また来たのか、ロズフィリア」
ルクスが顔をしかめて、ドアの方へと歩いていく。
「お前、クラスが違うんだからさ。こっちにばっかり来てて大丈夫かよ」
困ったように腕を組んだルクスは、自分を嬉しそうに見上げるロズフィリアに言った。
「友達とか、できたのか」
「友達なんて別に」
ロズフィリアが首を振る。
「ルクスがいるし」
「あのなあ」
ルクスがため息をつく。
ああ、そうだ。
一年生の時、私は教室でこの会話を聞くのが大嫌いだった。
レイラは思い出した。
ロズフィリア。
中原の大国フォレッタの、大貴族の令嬢。
ずいぶんと魔法の才能があるという噂だった。
だというのに、まるでレイラとは対照的な緊張感に欠けた不真面目な態度で、同じフォレッタの貴族であるルクスのところに毎日のように顔を出し、子供のくせにしなまで作ってみせていた。
この学院に何をしに来たつもりなのか。
婿探しなら、外の世界でいくらでもできるだろうに。
入学当時のレイラは、そう思っていたのだ。
そして、その気持ちは今でも完全に消えてなくなったわけではない。
同じ中原出身の貴族という繋がりで、ロズフィリアはレイラにも声をかけてくることがあったが、レイラはいつもそれを冷たくあしらっていた。
彼女と一緒の仲間だと思われるのが嫌だった。
武術大会での敗戦と、その後の諸々を経て、彼女に対する拒否感は多少減ったものの、それでもレイラがロズフィリアを苦手とすることに変わりはなかった。
「ねえ、レイラ」
まるでそんなレイラの気持ちを見透かしたかのように、ロズフィリアが笑顔で近付いてきた。
「うちのクラスのアインから聞いたわ。あなた、人が変わったみたいに打ち解けやすくなったんですって?」
「は?」
レイラは冷たい目でロズフィリアを見上げた。
「何の話?」
「えー、全然変わらないじゃない」
ロズフィリアはそう言うと、くすくす笑う。
「せっかく、今日は普通にお話ができると思ったのに」
「あなたと話すことなんて、何もないわ」
レイラはそっけなく言った。
「自分のクラスに戻ったら?」
「あーあ。アインってほんとに嘘つきだわ」
ロズフィリアがそう言って笑いながら、ルクスのところに戻っていく。
「ねえ、ルクス。聞いてよ」
「お前、本当にもう自分の教室に戻れって。クラスで孤立しちまうぞ」
ルクスが真剣な顔で言った。
「もうすぐ授業も始まる。準備しろよ」
「はあい」
……アインは口が軽いのかしら。
渋々教室を出ていくロズフィリアの背中を見ながら、レイラは、アインに細かい事情を打ち明けてしまったことを少し後悔していた。
アインはどこまで話したのだろう。
ロズフィリアのあの様子だと、深い話まではしていなそうだけど。
アインには、紫の魔女のことまで話してしまっている。それが悪いほうに転がる可能性もある。
アインを信用しすぎるのは、危ないかもしれない。
現に、狼のアルマークのことも、鎖が必要無いくらいにおとなしくて賢いだなんて言っていたけれど、実際にはその鎖がなければレイラはアルマークに腕の一本も噛み千切られていただろう。
少なくとも、アインの言うことは正確ではないわ。
レイラはそう考えて、次の授業を前に静かになった教室で、先ほど電光のように脳裏によぎった手がかりのようなイメージをもう一度追おうとした。
浮かんだのは、やはりあのソファだった。
昨日の夜、ウーベの罠に嵌りかけた、寮の廊下のソファ。
やっぱり、あそこだ。
レイラは心の中で頷く。
それは、心がじんわりと温かくなるような感覚。
さっきまで抱いていた父への怒り、その負のイメージとは正反対の何かがそこにあったように感じた。
一瞬のイメージははっきりとした像を結ばずに、ぼやけて消えてしまった。
それでも、大きな収穫だった。
自分を誘ったうえで罠を張るということは、そこに手がかりが隠されているのではないか。
昨日、レイラはそう推測を立てた。
結果的には、ウーベの張った罠に嵌る形になったが、その推察自体は間違ってはいないのだ。
あそこに、ウーベにとって都合の悪いものが隠されている。
一瞬のイメージは、レイラにはっきりとした確信をもたらした。
やはり今夜、もう一度行ってみるしかない。
あのソファのところに。
「レイラ」
放課後、レイラは廊下で小柄な少年に呼び止められた。
「どうだ、昨日から。何か分かったか」
1年3組のクラス委員、アインだった。
「別に何も」
レイラは首を振った。
あまりアインとは話をしたくなかった。
「そうか」
アインは頷いたが、やはりそれでも少し気がかりがあるような表情をしていた。
「君が制限時間を表すと言っていた校庭のジャクレンノヒトヒラ、ごっそりと荒らされてしまったな」
「ええ、そうね」
レイラはそっけなく頷く。
「でも、あなたに心配してもらう必要はないわ」
「しかし」
「いいのよ、もう」
レイラは言った。
「もう私には構わないで」
「何かあったのか」
アインは少し困惑しているように見えた。
「僕には話せないようなことが」
「ロズフィリアが私のところに来たわ」
レイラはそう言って、冷たい目をアインに向けた。
「私が、人が変わったようにとっつきやすい人間になったというようなことを、アインに言われたからって」
「あいつめ」
アインは顔をしかめて舌打ちした。
「つまらないことを」
「私は、あなたにべらべらと余計なことまで話してしまった自分に後悔しているところよ」
「違う、誤解だ」
アインは首を振った。
「聞いてくれ」
「聞かないわ」
レイラは身体をよじってアインをかわすと、その横を通り過ぎる。
「あなたの言うことは信用できない。アルマークも獰猛だったし」
「なんだって?」
レイラの背後で、アインの声色が変わった。
「アルマークが獰猛?」
それ以上の会話をするつもりは、レイラにはなかった。だが、そのまま歩き去ろうとするレイラの前に、アインが回り込むようにして立ちふさがった。
「どきなさい」
レイラは杖をアインに向けた。
「邪魔をしないで」
「魔法を使いたければ使え。どうせ僕はまだ何も使えない」
アインはそう言うと、両手を広げた。
「僕の信用の件は、この際どうでもいいんだ」
アインのレイラを見る目は真剣だった。
「だが、アルマークのことは聞き捨てならない。君は、アルマークが獰猛だったと言ったのか」
「ええ。そうよ」
しつこいアインにうんざりしながら、レイラは言った。
「あなたは鎖も必要ないなんて言っていたけれど、ものすごい勢いで吠えかかってきたわ。私は危うく噛み付かれるところだった」
「そんなばかな」
アインは首を振る。
「そんなはずはない。あのアルマークが、人に吠えかかるなんて」
「現に、そうされたから言っているのよ」
レイラは言った。
「あなたにはどうだか知らないけれど、私に対してはとても穏やかだなんて言えなかったわ」
「……ならば、きっと何か意味がある」
アインは険しい顔でレイラを見た。
「アルマークは本当に賢いんだ。マイアさんが言っていた。あの高貴な狼は、ただの獣ではない。他の狼とはまるで違うのだと」
そのあまりに真剣な表情に、レイラは仕方なく、やや口調を和らげた。
「どうしてそんなに真剣になるの。私のことなのに」
「僕のプライドの問題だからさ」
アインは答えた。
「僕は嘘もよくつくが、自分の見立てや判断には自信を持っている。アルマークのことを、僕の嘘や思い違いだと思われるのは心外だ」
それから、アインは申し訳なそうな顔をした。
「ロズフィリアの件は、すまなかった。彼女は敏いから、教室での僕と君との会話を聞いていて、興味を持ったんだ。きっと、君と友達になりたいんだろうな。レイラと何を話したのか、とあまりにしつこく聞くので、彼女は僕の想像よりもずっと話しやすかった、僕のイメージとはまるで違った、と答えたんだ。それをまさかロズフィリアがそんなふうに膨らませて君に言うとは思わなかった」
それからアインは、不器用なんだ、と付け加えた。
「ロズフィリアも、ああ見えて」
「どうあれ迷惑だわ」
レイラはそう言うと、それからアインに微笑んだ。
そうできることが、一年生の時の彼女との最大の違いと言えるかもしれなかった。
「でもあなたの言い分は分かった。もしあなたにお願いしたいことがあったら声をかけるわ」
レイラは言った。
「その時は、力になってくれるかしら」
「あ、ああ」
アインは目を瞬かせ、一拍遅れて頷いた。
「もちろんだ。何でも言ってくれ」
「ありがとう」
「いいんだ。僕こそすまなかった」
そう言ってから、アインは感心したように腕を組む。
「君の今の顔。男子生徒に言うことを聞かせたいなら、きっと魔法よりも力を発揮するぞ」
「え?」
「僕も、何でも言ってくれとまで言うつもりはなかったが、思わず言ってしまった。なんというか」
アインはこの少年にしては珍しく、照れたように口ごもった。
「すごくきれいだった」
「そうかしら」
レイラは肩をすくめて歩き出す。
「じゃあ今度、アルマークにもやってみるわ」
「男子生徒に、と言ったんだ」
歩き去るレイラの背中に、アインは言った。
「狼にまで通用するとは言っていないからな」




