振動
朝の教室は、ざわざわと騒がしかった。
「おはよう」
レイラは隣の席のウェンディにそう挨拶して、自席に座る。
「おはよう、レイラ」
ウェンディはレイラの横顔を見て、顔を曇らせた。
「なんだか疲れてるみたい。大丈夫?」
「ええ、大丈夫。ちょっと遅くまで起きていただけだから」
レイラは微笑む。
「すごいなあ、レイラは」
ため息をついて、ウェンディは机の上でそっと両手を合わせた。
「魔法の勉強をしているんでしょ? 私はここの生活に慣れることで精一杯で、まだとてもそんなところまではいかなくて」
大貴族の令嬢らしい、すべすべとした美しい手。レイラはそれを見るともなく見た。
「あーあ、誰だよ。あんなことしたの」
「絶対二年生だよ、ジェビーたちだ」
「やりそうだよなー」
クラスの男子が窓の外を眺めて、わいわいと言い合っていた。普段のレイラなら、男子のそんな声になど一切心を動かされないのだが、今日は違った。
常に自分の内面を厳しく見つめている自分の感性を、レイラは今日は外部に向けていた。
「みんな、何を騒いでいるの?」
レイラが尋ねると、ウェンディは少し困ったような顔をする。
「うん。あの……」
ウェンディは言い淀んだ。
「レイラも昨日気にしていた、校庭の」
最後まで聞かず、レイラは立ち上がった。椅子が勢いよく後ろに倒れる。
「レ、レイラ?」
ウェンディが驚いた顔で見上げるが、レイラはそのまま窓際に駆け寄った。
……ああ。
そこから見えた光景に、歯噛みする。
校庭の一角に咲き誇っていたジャクレンノヒトヒラが、無残に散らされていた。
その面積は、全体の三分の一にも及ぶだろうか。
「ひでえよな、何でわざわざあんなことするんだか」
クラスの男子、コールがそう言った。
「いたずらにしても、やりすぎだぜ」
そうだ。いたずらにしても、やりすぎだ。
レイラは、その荒れ具合と散った花の量から気付いていた。
不肖の娘よ。
昨夜の父の声が蘇る。
寮の三階、廊下の奥のソファ。まとわりついてくる父の幻影を魔法で振り払うたび、紫の花が床に散っていた。
あれは、校庭の花だったのだ。
知らず、レイラは自分の制限時間を縮めていたことになる。
私が鬼を当てるのを間違えた罰のつもりなのだろう。
この分だと、間違えられるのはあと一回が限度だ。
すっかり紫の魔女ウーベの術中に嵌って、いいようにされてしまったというわけだ。
それだけ理解すると、レイラは身を翻して、自席に戻る。
「レイラ」
ウェンディが心配そうな顔で声をかけてきた。
「大丈夫?」
「何が?」
レイラの言葉に、ウェンディは言いづらそうな顔をした後で、小さな声で口にした。
「慌てて窓の方へ行ったと思ったら、笑いながら戻ってきたから」
「笑っていた?」
レイラはウェンディを見る。
「私が?」
ウェンディは頷く。
「う、うん。なんだかすごく楽しそうに、笑ってたよ」
「そう」
今度こそレイラは意識して微笑んだ。
「あなたがそう言うなら、きっとそうなんでしょうね」
ウェンディは困惑したように目を瞬かせた。
花など、いくら散っても構わない。
もうレイラは、そう腹をくくっていた。
寮の床に散った花は、放っておけば管理人のマイアが大騒ぎすることは必定だったので、風の魔法でまとめてツタでひとくくりにして捨てておいた。
だから、それがかなりの量だったことは知っている。
それでもまだあんなに花は残っている。
ウーベ。あなたも甘いわね。
私にまだこんなに時間をくれるつもりなのね。
レイラは、今日中にけりを付けるつもりでいた。
担任のヴィルマリー女史の授業は、やはり聞いた覚えのあるものだった。
とはいえ、細部までの完全な記憶はない。
ああ、そういえばこんなことも言っていたわね。
レイラはそんな風に、逆にひどく新鮮な気持ちで二回目の授業を聞いた。
「ノルク魔法学院に入ると認められたこと」
ヴィルマリーはしゃがれ気味の威厳のある声で言った。
「それがすなわち、あなたたちが魔術師になれるということを意味しているわけではありません。あなたたちが故郷を発つとき、周りの人々から賞賛され、どのような言葉をかけられたのかは知りませんが、一つはっきりと言えるのは、あなたたちにはまだ何も保証されていない、あなたたちはまだ何者でもないということです」
彼女の代名詞ともいえる、黒ずんだ短い指示棒を手に、ヴィルマリーはゆっくりと生徒たちの間を歩いた。
「この学院で、皆が制服のローブを着るのはなぜだと思いますか。ネルソン」
「は、はい」
名前を呼ばれたネルソンが立ち上がる。
「俺たちみんな、魔術師になるからです」
「魔術師になるのに、どうしてローブを着る必要があるのかしら」
ヴィルマリーの問いに、ネルソンは、「へっ?」と間抜けな声を上げる。
「だってそりゃあ……魔術師っていったらローブを着るものだと」
「魔術師はローブを着る。でもあなたたちはまだ何の魔法も使えない子供よ。魔術師ではないのにどうしてローブを着るの」
「え、ええと」
ネルソンは困った顔をした。
「ルクス」
ヴィルマリーは手振りでネルソンを座らせると、クラス委員の名を呼んだ。
「あなたはどう思うかしら」
「確かに俺たち、まだ魔術師じゃないですけど」
そう言いながら、ルクスが立ち上がる。
「でも魔術師を目指す者として、ローブを着ることが大事なのかなって、そう思ってました」
「それでは足りないわね」
ヴィルマリーは首を振って、ルクスを座らせた。
「考えなさい」
そう言うと、ヴィルマリーはぐるりと教室全体を見回す。
「この学院で行われることには、全て意味があります。何となく行われていることなんて、何一つありません」
静まり返った教室で、ヴィルマリーが指示棒をぴしりとレイラに向けた。
「レイラ。あなたには分かるかしら」
こんなやり取りがあっただろうか。一年生の時、教室で。
覚えていない。なかった気がする。
そう考えながら、レイラは立ち上がった。
「はい。分かります」
レイラは答えた。ヴィルマリーが片眉を上げる。
「貴族であれ平民であれ、この学院の中では全ての生徒が平等に扱われる。だから皆、同じ制服を着ます」
レイラは言った。
「ここに来た以上、私たちはノルク魔法学院の生徒以外の何者でもないのだということを示すために」
その答えに隣の席のウェンディが息を呑む。
他の生徒たちも気圧されたようにレイラの顔を見上げた。
「貴族のあなたから、その答えが出るとは思わなかったわ」
ヴィルマリーは目を細めた。
「例年、肩に力の入った平民の子がそう答えるものなのよ」
そう言って微笑むと、ヴィルマリーは黒い指示棒を小さく振った。
「座りなさい、レイラ」
レイラが席に着くと、ヴィルマリーはまた生徒たちの顔を見回した。
「全ての物事は多面体です。一面だけでは成り立っていません」
そう言うと、指示棒でまたレイラを指し示す。
「レイラの言った側面もある。ネルソンやルクスの言った側面もないとは言いません。けれど、それよりも大きな理由は、この学院では常に至る所でいろいろな魔法が使われ、魔力が飛び交っているということにあります」
ヴィルマリーは自分の褐色のローブに手を添えた。
「体内の魔力を練ることすらできない状態で、そのような環境に長く晒されることは危険です。この制服のローブは、あなたたちの幼い身体を強い魔力から守ってくれるのです」
そう言うと、ヴィルマリーはちらりとレイラを見て微笑んだ。
その口から微かに犬歯が覗いたような気がしてレイラは女教師の顔を見返したが、もう口元は見えなかった。
「すごいね、レイラは」
授業の後、ウェンディにそう話しかけられ、レイラは彼女を見た。
「何が?」
「だって、さっきの答え」
ウェンディは両手で自分の頬を挟んで、はあ、と息をついた。
「私には絶対、あんな風にすごい答えをさっと言えないもの」
「大したことじゃないわよ」
レイラは肩をすくめる。身体は一年生だが、中身は三年生なのだ。しっかりとした答えができて当たり前だった。
「あなただって、いずれはできるようになるわ」
「そうかなあ。そうだといいけど」
ウェンディは笑顔で小首をかしげる。
「今日、アルマークのところに行こうと思ってるの」
ウェンディの口から突然その名前が出て、レイラはどきりとした。
「え?」
「ほら。昨日もすごく興奮してたでしょ。私、気になっちゃって」
「……ああ」
寮に繋がれたあの狼のことだ。
レイラは頷く。
「ええ。私は嫌われてるみたいだわ」
「あんな子じゃなかったのよ、アルマーク」
「そうみたいね。賢い狼だって聞いたわ」
「うん。普段は寝てばかりだけど、アルマークって名前を呼ぶと顔を上げてくれて」
ウェンディは微笑む。
彼女がその柔らかい口調で、アルマーク、と言うたびにレイラは胸に小さなとげが刺さるような感覚を覚えた。
この気持ちは、なんだろう。
自分に激しく牙を剥いた狼。
あれが、この世界のアルマークだというのだろうか。
北から来たあの少年と同じ名前であることに、意味はあるのだろうか。
思えば、アルマークがレイラにつらく当たってきたことなど一度もなかった。どんなに冷たくあしらわれても、アルマークは穏やかな態度を保ち続けた。
おそらくアルマークは誰に対してもつらく当たったりはしないのではないだろうか。
狼とはいえアルマークと名の付く獣に、敵意を剥き出しにされていることがなぜかレイラの心を揺らした。
ウェンディには懐いていたらしいことも。
何だろう、この感情は。
いけない。
こんな気持ちでは。
「レイラ?」
ウェンディに顔を覗き込まれ、レイラは気を取り直す。
「どうしたの、大丈夫?」
「ええ、大丈夫よ」
そう答えると、レイラは改めて父の声を思い出した。
不肖の娘。
あの怒りを。
そのとき、空気が震えた。
「あ」
昨夜、ソファのところでも起きた現象だった。
「どうしたの?」
「……なんでもないわ」
不思議そうな顔のウェンディに、レイラは首を振った。
この揺れには、ウェンディは気付かないようだった。
ウェンディだけではない。クラスの誰も、気付いている様子はない。
振動はレイラを励ますかのようにしばらくの間続いた。
この心地よい揺れと似たものを、私はどこかで体験したことがある。
それが何なのか、どこなのか、それは思い出せなかった。
だがその揺れのおかげで、レイラの頭に掛かっていた靄のようなものが一瞬、晴れた。
……あっ。
答えに繋がるものが見えた気がした。




