こちらの世界
……狼ですって?
アルマークが?
頭の中で、アルマークの顔が白い毛並みの狼のイメージと重なり、奇妙な感覚に捉われる。
それでもレイラは頷いた。
「そう。こっちでは人ではないのね。アルマークは」
どうにか自分の中で折り合いを付けなければならない。それが重要なわけではないのだから。
こっちでは、という言い方にアインが眉を寄せる。
だが、レイラにはそう言う以外に言い方が無かった。
「私の元いた世界のアルマークは、人なのよ。ちょっと変わった子で」
「元いた世界」
アインはレイラの言葉を繰り返す。
「ここではない世界ということか。君はそこから来たと」
「ええ」
「だが君は昨日までもこの学院にいたじゃないか」
「そこを説明するのは難しいけれど」
レイラは答える。
「中身が入れ替わったのかもしれないわね」
「中身が」
アインは分かったような分からないような顔をする。
「いずれにせよ」
レイラは言った。
「ここは私のいた世界ではない。すごく似ているけれど、どこか違う世界だわ」
ふうむ、と唸ってアインは腕を組む。
「それで、そっちの世界にはリルティという女子生徒も存在するのか」
「ええ」
レイラは頷く。
「華奢で、怖がりで、声が小さくて、でもとても歌の上手い子よ。そんな子はここにはいないでしょう?」
「他の生徒の歌を聞く機会がないから、何とも言えないが」
アインは曖昧な顔で首を傾げた。
「だけど、そうだな。僕には思い当たらない。他のクラスの生徒のことはまだ名前と出身くらいで、細かい特徴まで頭に入っていないんだ」
「フォレッタの宮廷楽師の娘よ」
「それなら、いない」
アインはほっとしたように言った。
「僕は音楽が好きだからな。そんな子がいれば放っておかないさ」
「そう」
アインが音楽好きというのは初耳だった。
けれど、言われてみれば、あのおとなしいリルティが、二年生のころからアインにだけは少し心を開いていた気がする。二人で親しそうに話しているのを見かけた記憶が、レイラにもおぼろげながらにあった。あれは、音楽の話でもしていたのだろうか。
だが、今はそんなことはどうでもよかった。リルティがいないということが確かめられれば、もうそれで十分だ。
「アルマークには」
レイラはアインを見下ろして、言った。
「寮に行けば会えるのね」
「会える」
アインは即答した。
「寮の裏手の植え込みのそばに、犬小屋がある。鎖に繋がれてはいるが、そんなものがなくとも大丈夫だろうと思える程度には、おとなしく賢い狼だ」
「分かったわ」
そう答えたレイラは、もう教室のドアに手をかけていた。
「教えてくれてありがとう」
「僕に手伝えることは、何かないのか」
アインはレイラの背中にそう声をかけてきた。
「その紫の魔女とやらを探す手助けは」
「私自身、まだ自分がどういう状況にいるのかがはっきりしていないの」
レイラは答えた。
「だから、今は何もないわ。もしも何か助けてほしいことがあったら、その時は」
「分かった」
皆まで言わせず、アインは頷いた。
「君には時間制限があるのだろう。君の言わんとすることは分かったから、もう行くべき場所へ行ってくれ」
「ええ」
まともに話したこともないけれど、本当のアインも、これくらい協力的なのかしら。
レイラは頭の隅で、そんなことを考えた。
そういえば、大して関係もなさそうな他の生徒の揉め事に、よく首を突っ込んでいるわね。
レイラは改めて小さな少年を振り返る。
「ありがとう、アイン」
そう言うと、レイラはそのまま教室を飛び出した。
寮へ。
アルマークのもとへ。
だが校舎を出たところでレイラは思い直して、まずは校庭へと足を向けた。
寮へ行く前にもう一度、近くできちんと確かめておきたかった。
ここがウーベの企図したかくれんぼの舞台なのであれば、それは非常に重要な、制限時間を知らせる役割を果たすはずの花々だった。
校庭に着くと、その一角にはやはり校舎から見下ろしたとき同様、紫の花が咲き誇っていた。
ジャクレンノヒトヒラ。
もうこの世には存在しないはずの花。
それが幻術でも何でもないことを、レイラは花びらに触れることで確認した。
この中に、もう枯れてしまった花はあるかしら。
レイラが目を凝らそうとすると、不意に横からにょきっと手が伸びて、花が一本摘まれた。
「あっ」
声を上げて振り返ると、驚いた表情のバイヤーと目が合った。
「な、なんだよ」
「あなた、どうして摘むの」
「えっ」
レイラに突然詰問されて、バイヤーは目をぱちくりと瞬かせた。
「どうしてって、自分でも薬湯を作ってみようかと思って」
「薬湯ですって? だからって、こんな貴重な花を」
「貴重な花?」
バイヤーはむっとした顔をする。
「いい加減なことを言うなよ。どうせ君も一年生だろ、森に入ったことないのか? ジャクレンノヒトヒラなんて森じゅうに山ほど咲いてるじゃないか」
そうか。こちらの世界ではそうだった。
レイラは舌打ちする。
ああ、面倒くさい。
「そうだったわね。それなら、これからは森で採ってきてくれるかしら。ここからは摘まないで」
「どうして君にそんなこと言われなきゃならないんだよ」
バイヤーは興奮したように両腕を振り上げる。
「森には、ほかにもっと採りに行かなきゃならない珍しい植物があるんだ。こんなどこにでもある花まで、いちいち森に探しに行っていられるかい」
「ああ、そう」
レイラは頷く。
バイヤーが好きなものに夢中になると頑固なところは、こっちでも変わらないわね。
レイラは彼を説得するのに余計な時間は費やさなかった。
持っていた杖を紫の花に向ける。
空気が少し震えたような感覚。レイラは杖を下ろした。
「それなら、採りたければ採ればいいわ。どうぞ」
「はあ?」
バイヤーは怪訝そうな顔で、それでも花に手を伸ばす。だが、花に触れる直前で、手は見えない壁に遮られた。
「あっ、なんだこれ」
バイヤーが目を丸くする。
「くそっ、どうなってるんだ」
バイヤーは不可視の壁にぐいぐいと手を押し付けるが、花には指一本触れることはできなかった。
「採れなくて残念ね」
「ま、魔法を使ったのか」
バイヤーの瞳には、驚きと恐怖の色が浮かんでいた。
それはそうだろう。レイラが使ったのは、入学して間がない一年生になど決して使える魔法ではない。
「その花が摘めなくなったみたいに、あなたの手が一生パンを掴めなくなるようにだってできるのよ」
それは単なる脅しだったが、冷たい表情でレイラが杖を突き出すと、バイヤーは慌てて花から身を退いた。
「や、やめてくれよ。分かった、花は森で摘むよ」
「分かってくれて嬉しいわ」
言葉とは裏腹に、一切嬉しそうな表情も見せずにレイラはそう言うと杖を下ろした。
バイヤーのほかにも誰か摘みに来るかもしれない。とりあえず、魔法の効果は夜くらいまで持たせておけばいいだろう。必要なら、また朝になったらかけ直せばいい。
レイラは、恐々と花を見ているバイヤーに背を向けた。
その拍子に、隅っこの花が一本、くたりと萎れているのが目に入った。
花はまだまだたくさんある。この分なら、すぐにどうこうということはなさそうだ。けれど、確かに枯れ始めている。時間にそこまで余裕があるわけでもない。
レイラは今度こそ、寮に向かって駆け出した。




