一年一組
どういうことなの。
レイラは踏み出しかけた足を止めて、小さくなった自分の身体を見た。
それから周囲をぐるりと見回す。
いつもよりも少し低い、この目線の高さ。
確かに、1年1組にいた当時の自分の姿に戻っているようだ。
ウーベの魔法で、幻覚を見せられているのか。
レイラはすぐにその可能性に思い至る。
だとしたら、迂闊に動かない方がいい。
これもかくれんぼの一環だということだ。
ウーベは、「私を探して」と言った。
つまり、どこかにウーベがいるということになる。
レイラは、伸ばした左腕を曲げてみる。
身体に、違和感はない。
制限時間は気になるが、まさかそんなにすぐ時間切れになってしまうわけではないだろう。
それに、隣にいたはずのリルティがどこにいるのかが分からない。
まずは、彼女を探さないと。
「おい」
ゼツキフの険しい声が、レイラの思考を遮る。
「いつまでそんなところに突っ立ってるんだ。邪魔だぞ」
レイラがゼツキフを見ると、彼は前に向けて顎をしゃくった。
「さっさと行け。目障りだ」
そういえば。
レイラは思い出す。
3年3組の今ではだいぶ大人しくなったようだが、このゼツキフという生徒も入学当初は、トルクのようにずいぶんと威張り散らしていた。自分が裕福な貴族の子息だということを、ことあるごとに誇示していた気がする。
どうやって黙らせたんだったかしら。
入学からしばらくして、絡んできた彼を一蹴したことは何となく覚えているが、レイラにとっては些細なことに過ぎなかった。細かいことまではもう覚えていない。
だからレイラはゼツキフを無言で睨み返した。
「な、なんだ。その目は」
その氷のような視線に、ゼツキフは慌てたように言った。
「お前はロゴシャのクーガン家の人間だろう。知ってるんだぞ、お前の家のことは」
そう言うと、ゼツキフは主導権を握り返すように声を張り上げる。
「身の程を弁えろ。僕が誰だか分かっているだろう。僕の家とは仲良くしておいた方がいいんじゃないのか」
つまらないことを、ぺらぺらと。
レイラはすうっと腕を伸ばして床を指さした。
「じゃあ、ここに持って来なさい」
「なに?」
レイラの言葉に、ゼツキフは目を瞬かせる。
「持って来る?」
「ええ」
レイラは頷く。
「持って来なさい、あなたの家を。そうしたら、仲良くしてあげる」
「何を言ってるんだ。ばかか。家をどうやって持って来ると」
「僕の家と仲良くしておいた方がいい、そう言ったわね」
冷たい声でレイラはゼツキフの言葉を遮る。
「あなたは、自分個人には価値がないと自分で認めたのだわ。自分の家にしか価値がないと」
「な」
思わぬ反論に、ゼツキフは顔を真っ赤にして固まった。
「だから私に仲良くしてほしいなら、ここにあなたの家を持って来なさい。そうしたらあなたの家と仲良くしてあげる」
ゼツキフの顔が屈辱で歪む。だがレイラはもうそれに頓着しなかった。
そうね。確か、実際にも同じようなことを言って黙らせた気がするわ。
そう考えながら、自分の席に歩み寄ろうとする。
そのとき、心配そうにレイラを見ていたウェンディが慌てたように叫んだ。
「レイラ、危ない!」
レイラは舌打ちして振り返る。乱暴に立ち上がったゼツキフが、怒りに任せて彼女の胸ぐらを掴もうとしていた。
「僕を舐めるなよ、落ちぶれ貴族の娘ごときが」
ああ、煩わしい。
魔法を使うのも面倒だった。
レイラは、持っていた杖で思い切りゼツキフの足を払った。
無様に床に転がったゼツキフの額を、杖の先で突く。
「ぐがっ」
ゼツキフは痛みに呻いた。
「こいつ、生意気なことを」
ゼツキフは怒りの声を上げ、倒れたまま腕を伸ばして杖を握ろうとする。
「触らない方がいいわよ」
レイラがぴしゃりと警告した。
「感電するから」
その言葉通り、杖にぴしりと電気が走ったのを見て、ゼツキフの目に恐怖の色が浮かぶ。
「お前、もう魔法が使えるのか」
「当たり前でしょう。ここをどこだと思ってるの」
レイラはゼツキフを軽蔑の眼で見下ろす。
「あなたも、家の力で早く魔法が使えるようになるといいわね」
何も言えなくなったゼツキフの額が、赤く膨らみ始めていた。
ちょっと強く突きすぎたかしら。
一年生の身体だと、力の加減があまり分からない。
「まだやる?」
そう尋ねると、ゼツキフはぶるぶると首を振った。
「なら、私にはもう二度と話しかけないで」
それだけ言うと、身を翻す。
クラス全員が二人に注目していた。レイラは彼らの顔を見まわした。
どの顔も、今よりもずいぶんと幼い気がする。
毎日顔を合わせていると気が付かないが、こうして見ると、たった三年ほどの間に、みんなずいぶんと成長していたのだということが分かる。
「お前ら、あんまりケンカすんなよ」
困ったようにそう言ったのは、クラス委員のルクスだった。
「もう先生が来るぞ。ゼツキフ、いつまで寝っ転がってるんだ。レイラも席に座れ」
先生が来る? 授業が始まるということか。
「ええ」
一応、ルクスにそう返事をすると、レイラは自分の席に着いた。
とりあえず、迂闊に動くよりは様子を見た方がいい。
こんなことを仕掛けてきたウーベの狙いが分からない。
これは単なる幻覚で、実際の私はまだあの森にいるのか。
そうでないのなら、ウーベはこの学院のどこかに隠れているということか。このクラスの中の誰かに化けているのかもしれない。
「レイラ、大丈夫?」
隣の席のウェンディがそう声をかけてきた。
「すごいね、男の子をあんな風に」
「別に」
レイラはそっけなく首を振る。
「ごちゃごちゃとうるさかったから」
「レイラは何でもできるんだね」
ウェンディは、感嘆のため息をついた。
「私とは大違い」
「あなただって、何でもできるでしょう」
レイラがそう言うと、ウェンディは首を振る。
「知ってるでしょ、レイラだって。私が何にもできないっていうこと。寮での生活もよく分からなくてルームメイトのカラーにお世話になりっぱなしだし、この間の実習でも失敗しちゃったし」
そう言われてみれば。
レイラは、一年生当時のウェンディのことを思い出した。
今の何でもそつなくこなすウェンディの姿からは想像もできないが、一年生のときのウェンディは、おそらく大貴族のご令嬢として大切に育てられたためだろう、生活全般についての常識に欠けていて、皆を驚かせることがたびたびあった。
レイラも最初は苦々しく思っていた記憶がある。
そんな子と、私はどうして仲良くなったんだったかしら。
仲良くなったきっかけは、些細なことだった気がする。
レイラの思考を遮るように、始業の鐘が鳴った。
それとほぼ同時にドアを開けて入ってきたのは、教師のヴィルマリー。レイラの1年1組当時の担任教師だった。
「皆さん、着席していますね」
女性らしからぬ低い声で、ヴィルマリーはそう言うと、ぐるりと教室を見まわした。
もう老齢に差し掛かろうかという、この厳格な女教師は、やんちゃな子供たちを学院生活の枠にはめるという役目も担っていた。
忘れ物や遅刻は決して許さずに厳しく対処したし、冗談もほとんど言わなかった。
ヴィルマリー先生の授業なのね。ここに何かヒントがあるのかしら。
レイラは、ヴィルマリーが落ち着いた声で、かつて聞いた覚えのある一般教養の授業をするのを聞きながら、何か変わったことが起きるのを待った。
けれど、おかしなことは何も起きないままで授業は終わった。
ヴィルマリーが教室を出ていき、拍子抜けしたレイラがリルティを探そうと立ち上がると、ウェンディが彼女を見上げた。
「レイラ、どこかに行くの?」
「リルティを探しに行くわ」
「リルティ?」
ウェンディは首をかしげた。
「他のクラスの子?」
「そうね」
2組か3組。当時、リルティがどちらのクラスにいたのかは、レイラも覚えていない。
ふと視界に入った窓の外の視点が低かった。地面がやけに近い。
そうか。一年生の教室は、校舎の二階にあったからだ。
そんなことを考えながら教室を出ようとして、レイラは窓の外にちらりと見えたそれの存在に気付く。
一瞬で鳥肌が立つのを感じた。
あれは。
慌てて窓際に駆け寄る。
あんなものは、過去の記憶には絶対になかった。あってはならないものだ。
だが、校庭と呼ばれる原っぱの隅に、それはあった。
毒々しい紫色の花畑。
やっぱり。
レイラは唇を噛む。
ここで探せ、と言いたいのね。紫の魔女ウーベ、あなたを。
風に揺られる、今の時代にはもう存在しない花。無数のジャクレンノヒトヒラの花が、そこに咲き誇っていた。




