紫のウーベ
レイラとリルティは、前方で木に寄りかかる紫色の髪の女を見付け、足を止めた。
「いたわ」
端的に事実を告げるレイラの背後で、リルティが緊張したように唾を飲み込む。
「あれが、紫の石の魔術師」
「ええ」
レイラは無表情で頷く。
「分かりやすくて、助かるわ」
紫の魔女は口元に妖艶な笑みを浮かべたまま、二人を見つめていたが、二人がそこから動こうとしないことが分かると、もたれかかっていた木から気怠そうに身を起こした。
「慎重なのね」
魔女はそう言いながら、ゆっくりと二人に近付く。
「正しい判断だわ。警戒は解いてはいけない。それでこそ、魂に滋味が出る」
紫色の唇を蠱惑的に歪め、魔女は微笑んだ。
「二人とも女の子で良かったわ。男の子の魂は、つるっとしていて淡白すぎるから」
二人は何も言わない。
レイラの掲げた杖の発する光が、微かに揺れた。その杖の先端に膨大な魔力が凝縮されていることに気付き、魔女は足を止める。
「あら。ずいぶんと強い魔力を持っているのね。まだ子供なのに」
レイラは答えない。
「優秀な魔術師なのね」
そう言いながら、魔女は再び歩を進める。
レイラはその一挙手一投足を凝視していた。
こうして近付いてくるだけで、相手が強大な魔術師であることは分かる。
だが、まだ魔女の身体の中の魔力は練られていない。
それは、好機ということ。
遠すぎてもだめ、近付けすぎても危険だ。
レイラは瞬時に頭の中で、自分たちを護るための領域に線を引いていた。
自分の用意している魔法と相手の力とを天秤にかければ、この距離が一番いい。
あそこから一歩でも踏み込んだ瞬間に、魔法を叩き込む。
だが、そう決めていたラインのちょうど手前で、魔女はまるで測ったかのように足を止めた。
魔女はレイラの杖を見て、小首をかしげる。
見抜かれたの。
しかし内心の動揺とは裏腹に、レイラは一切表情を変えなかった。
それを見て魔女は微笑む。
「まだ名乗っていなかったわね」
魔女は言った。
「私は、紫のウーベ。九つの兄弟石の一つ、紫の宝玉の魔術師よ」
その名乗りにも、二人の少女は答えなかった。
「あなたたちの名前が知りたいわ」
ウーベの呼びかけに、リルティは口を小さく開いて一瞬困ったような表情を見せたが、レイラの氷のような無表情は変わらなかった。レイラが答えないのを見て、リルティもぎゅっと口をつぐんだ。
「教えてくれないのね」
ウーベは少し拗ねたようにそう言うと、二人の顔を改めて見た。
「まあ、いいわ」
その紫の瞳がきらめいた。
その瞬間、レイラは背筋に冷たいものが走ったように感じて身体を震わせた。
それは、リルティも同じだったようだ。
「ひっ」
びくりと身体を震わせたリルティが、小さく悲鳴を漏らす。
これは。
レイラは考えた。
この感覚を、私は知っている。直接体験したわけではないけれど、きっとこれは。
頭を素早く回転させながら、レイラはそれでも眉一つ動かさなかった。
「強い子」
レイラを見て、ウーベは微笑む。
「あなたは、レイラというのね。レイラ・クーガン」
その言葉に、さしものレイラも思わず目を見開いた。
「後ろにいるあなたは、リルティというのね。可愛い名前ね」
「えっ、ど、ど」
どうして、と言おうとしてリルティは慌てて自分の口を手で押さえた。
そんなことを聞けば、ウーベの言葉が正解だと言っているようなものだ。
「どうして分かるのかしら、不思議ね」
ウーベは楽しそうに言った。
「あなたたちの名前。でも、正解でしょう?」
「……魂に触ったわね」
レイラは言った。
「私たちの、魂に」
「あら」
ウーベは目を見張る。
「そんなことまで分かるのね、本当に優秀な子」
それは、アルマークと挑んだ泉の洞穴でのこと。
闇の魔影は、触れたものの魂を抜きとる能力を持っていた。
レイラは魂こそ抜かれてはいないものの、魔影の巨大な腕が近くを通るたび、ぞくりとした震えに襲われたものだ。
それは冷気のようでいて、冷気ではなかった。
震えたのは、魂だった。身体はそれにつられたにすぎない。
「汚い手で、人の大事なものに無造作に触れる」
レイラは氷のような声で言った。
「品のない魔法だわ」
美しい少女の辛辣な言葉に、ウーベは低い笑い声を漏らす。
「口まで強いのね」
そう言いながらウーベが一歩踏み出すのと、レイラが鋭く叫ぶのは同時だった。
「そこから動くな!」
警告とともに、大きな炎の塊がウーベに飛んだ。
距離は、完璧。
ウーベはとっさに手をかざそうとしたが、それよりも一瞬早く炎が膨れ上がり、ウーベの身体を包んだ。
レイラは、そこで終わらせはしなかった。
そのまま、魔力を途切れさせることなく、杖を振り上げる。
炎はウーベの身体を巻き込んで、大きな爆発を起こした。
「すごい」
リルティが呟く。
「倒したの」
「だめだわ」
レイラは小さく首を振った。
「効いてない」
「えっ」
炎の中で、ウーベが両腕を大きく振り上げる。
それだけで、あれだけ燃え盛っていた炎は全て散ってしまった。
煙を振り払うようにして姿を見せたウーベのローブには、焦げ目一つついていなかった。
「レイラ。ただの脅しじゃなかったところも気に入ったわ」
ウーベは先ほどまでと変わらぬ笑顔で言った。
「本当に躊躇なく撃ったわね。度胸が据わっている」
レイラを見つめるその紫色の目がきらめく。
またレイラは背筋を撫でられたような感覚を味わった。
「大事なお友達を救いたいのね」
ウーベはそう言って、気の毒そうな顔を作った。
「それには、私の本体である紫の石が必要なのね」
ウーベの言葉にレイラは何の反応もしなかったが、その後ろでリルティが必死な表情で頷く。
それを見て、ウーベは薄く笑った。
「私を石に戻したいのなら、簡単よ」
ウーベの身体に、一瞬で膨大な魔力が渦巻いた。
「ひっ」
リルティが身をすくませる。
それほどに、攻撃的な魔力だった。
「私を倒せばいい。そうすれば私は否応なく石に戻るわ」
向かい合っているだけでびりびりと痺れるような、攻撃的な魔力にまともに晒されて、怖気づいたようにリルティが後ずさった。
だが、レイラの表情は変わらなかった。
すでにその杖には、次の魔法のための魔力が充填されていた。
「レイラ。あなたはやるのね」
ウーベの目が凶悪な光を帯びる。
「勝てると思っているの、この私に」
その声に、先ほどまでとは違う凄みが加わっていた。
だがレイラは怯まなかった。
抜き身の剣を喉元に突き付けられているかのような魔力に晒されながら、それでもウーベの挙動から目を逸らさない。
それは、必要な情報を読み取るため。
完璧な魔法を撃つための完璧なタイミングを、決して見逃さないため。
その姿に勇気づけられたように、遅ればせながら、リルティもレイラの隣に立って杖を構えた。
しかし、その杖の先端はやはり恐怖でぶるぶると震えている。それを見て、ウーベは目を細めた。
「いいわ」
ウーベは言った。
「レイラ。あなたは今、絶対に敵わないと分かっている私と戦うために、ほんの一瞬で命を懸ける覚悟を決めたわね」
肯定も否定もしないレイラに、ウーベは微笑んだ。
「その覚悟ができる人間は、多くはないわ。そして、そういう人間の魂は」
ウーベが口を開け、長い舌を出す。
「とっても、おいしいのよ」
その声に含まれるある種の狂気に、レイラは微かに眉をひそめた。
「お喋りな魔女。戦うの、それともやめるの。はっきりしてほしいものだわ」
レイラは言った。
「私たちには時間がないの。来るなら、来なさい」
「いいえ、行かないわ」
ウーベは首を振った。
「趣向を変えましょう」
そう言うと、くるりと身を翻す。
凶悪な魔力が、かき消すようになくなった。
二人が見守る中、ウーベは最初に寄りかかっていた木の根元まですたすたと戻ると、そこで振り向く。
二人を見る顔に浮かぶ、抑えきれない嗜虐的な笑み。
「そうね。決めたわ」
ウーベは言った。
「三人で、かくれんぼをしましょう」




