霊鳥
くわっ、くわっ、と二人の頭上から鳴き声がする。
霊鳥サグエルガル。
天空に雄大な円を描くその猛禽に、ライヌルは険しい目を向けた。
「あいつが、私に君との違いを意識させた最初のきっかけだった」
ライヌルは言った。
「覚えているだろう、イルミス。ベルコックの遺跡の試練だった」
「ああ」
イルミスは短く答える。
「中等部の最後の年のことだったな」
「そうだ」
ライヌルは顔を歪める。
「遺跡の最深部、霊鳥の間までたどり着けたのはたったの五人。君と私のほかには三人だけだった」
「私は君の助けまで借りて、最後の最後にぎりぎりで滑り込んだだけだ」
イルミスはその時のことを思い出すように、目を細めた。
「それに比べれば、君とほかの三人。テリド、ドルアド、フォルストン」
イルミスはゆっくりと、かつての同級生の名を挙げる。
「皆、優秀だった」
「今も優秀なのではないのかね」
空を見上げたまま、ライヌルは微かに笑う。
「残念ながら、私は彼らの消息を知らんがね」
「テリドもフォルストンも、魔術師として活躍している」
イルミスは答える。
「ドルアドは亡くなったそうだ」
「そうか、彼は逝ったか」
ライヌルは小さく頷き、それからようやくイルミスに顔を向けた。
「あの日、私には狙いがあった」
そう言って、口元を歪める。
「霊鳥の間までたどり着けただけでも、試験は満点だ。ほとんどの生徒は途中で脱落してしまう。だが、私にとってそれは当然の通過点だ。目的はその先にこそあった」
「驚いたな、あの時は」
イルミスは呟く。
「君が、霊鳥を降ろすと言い出した時は」
「何十年も、誰にも従うことのなかった霊鳥サグエルガル。それを手に入れることができれば、自分の力のこれ以上ない証明となるじゃないか。皆に私を認めさせる絶好の機会だと思った」
ライヌルの言葉に、イルミスは小さく首を振る。
「そんなことをしなくても、誰もが君を一番だと思っていた。それほどに君の能力はほかの生徒とは隔絶していたのだから。先生方の評価も抜群だった」
「そんなもの」
ライヌルは言った。
「私が欲したのは、魂の高貴さ、高潔さだ。それは学院の教師などには測れない」
ライヌルの声は微かに震えた。
「彼らが測れるのは魔術の力だけだ。魔術などいくら認められたところで、卑しい出自の人間が似合いの貪欲さで必死になっていると鼻で笑われるばかりさ。だが、霊鳥を手に入れることができれば、それは私の魂の高貴さを霊鳥が認めたということだ。もう誰にも何も言わせはしない。自分は貴族だとふんぞり返っている連中よりも、私の方が人としても明確に上だと示すことができる。そう思ったのさ」
「そんな必要はなかった」
イルミスは苦い顔で首を振った。
「誰もが君を認めていた。たとえ、そこに嫉妬の感情が入っていようともだ。君の出自に最もこだわり、君という人間を最も認めていなかったのは、ほかならぬ君自身だった」
「まさかの結末だったな」
ライヌルは皮肉な笑みを浮かべる。
「あの痴れ鳥が。よりによって、ガライの貴族トゥールイン家の子息のもとに舞い降りようとは」
その言葉にイルミスは眉をひそめた。
「試験官も言っていたはずだ。あれは正式な儀式を踏んでの選定ではない。サグエルガルが私を選んだからといって、それは特定の何かを意味しないと」
「だが現に、あの鳥は今も君のもとにいるじゃないか!」
ライヌルはイルミスの言葉を遮った。
「私ではなく、君のもとに!」
激しい口調でそう言った後、ライヌルはまた表情を戻した。皮肉な笑みを浮かべる、卑屈な魔術師の顔に。
「あの日、口では君に祝福を送ったがね。心のうちは、まるで地獄の業火に焼かれるようだったよ」
イルミスはそれに答えず、空を舞うサグエルガルを見た。
「そんな繰り言を言うために、こんな大掛かりなことを始めたわけでもないのだろう」
イルミスは静かに言った。
「まさか、自分の無念を初等部の後輩たちにぶつけているわけでもあるまい」
「無論だよ、そんな低い次元の話はしていない」
ライヌルは心外そうな顔で、イルミスの言葉を言下に否定した。
「それまでも薄々感じていたことが、あの日はっきりと形になったんだ。ああ、この男はいつも肝心なところで私の邪魔をするんじゃないか、とね」
「私は君を良き友人だと思っていた」
イルミスは言った。
「その考えは今でも変わらない」
「私も君のことは良き友人だと思っているよ。それとこれとは話が別さ」
ライヌルは目を細めて笑う。
「覚えているかい、高等部のときにセリアの薬草園を訪ねた時のことを」
「ああ」
イルミスは頷く。
「あの時食べた飴はうまかった」
「ああ。私の人生であの飴が最も」
笑顔でそう言いかけて、ライヌルはふと真顔に戻った。
「だが、もう時間がないんだよ。イルミス」
ライヌルはもう一度天空の鷲を一睨みすると、黒い杖をぐるぐると回す。
「星。鷲」
ライヌルは吐き捨てるように言った。
「私を苦しめるものは、いつも空高く、手の届かないところにいる。どんなに手を伸ばそうとも届かないところから、私を見下ろし、苦しめる」
「ライヌル」
「君には分からんさ」
ライヌルの杖から、どす黒い霧が噴き上がった。
それは二人の間だけでなく、辺り一面、空までも黒く包んでいく。
ライヌルの身体から漂う腐臭の強さに、イルミスは顔をしかめた。
ただの霧ではない。
粘着質の闇が、多分に含まれていた。
常人ならば、わずかに吸っただけでも昏倒しかねないほどの毒量。
イルミスは魔法で瞬時に毒素を打ち消しながら、ライヌルを睨んだ。
「ここまで闇に染まったのか」
「染まるだって。とんでもない」
ライヌルは目を剥いて笑う。
「言っただろう、私の背後には暗き淵の君しかいないと。私はもう闇そのものだよ」
「どんなに望もうと、人は闇になることはできない」
イルミスは杖をかざした。
闇夜を照らす灯台のように、イルミスの杖は強い光を放った。
「闇が人になることはできないように」
「分かったようなことを」
ライヌルは声を上げて笑う。
「闇について私に講釈を垂れる気か。君は何も知らないんだ」
「闇について知らなくとも、君については知っている」
イルミスの光は、闇を圧するようにさらに強く輝いた。
「何があった、ライヌル」
厳しい声で、イルミスは言った。
「学院長を訪ねたあの日、あの時」
実は他に少しやりたいことがあってね。
高等部三年の春。
あの日、やつれた顔でライヌルの口にした言葉を、今でもイルミスは覚えていた。
これから、ちょっとその件で学院長に相談に行ってこようと思っている。
その言葉に、少し嫌な予感がしたのだ。
だが、それをイルミスはむざむざ見過ごしてしまった。
そして、その後すぐにライヌルは姿を消したのだ。
「何が起きたんだ」
イルミスは言った。
「ライヌル。君の身に、いったい何が」
「それを聞くのかい、今のこの私に」
ライヌルは笑う。
「運命だよ、イルミス。全ては運命のせいだ」
そう言いながら、ライヌルがねじくれた杖を振り上げた。
辺りを包んでいた黒い霧が急速に凝固して、一つの形をとる。
巨大な魔獣。
全身を刃のような体毛で包んだ漆黒の獣だった。
ライヌルが霧で作り出したのは、アルマークが寮の地下で遭遇したものの優に三倍はあろうかという巨大な闇の魔獣、デリュガン。
「君が空翔ける霊鳥を従えるのならば、私には地を駆ける闇の獣こそ相応しい。そうだろう」
ライヌルは笑う。
間断なく黒い霧を吹き出し続けるライヌルの杖の力で、デリュガンはその四肢をさらに膨らませていた。
イルミスを丸呑みできるほどの大きさにまで膨れ上がったデリュガンが、一声吼えた。
空気が、それだけでびりびりと震える。
「私はサグエルガルを従えてなどいない」
魔獣の咆哮にまるで畏れる様子もなく、イルミスは言い放った。
「あの鳥は自らの意志で現れ、自らの意志で去る。私の命令では動かない」
「だが、君を選んだ」
ライヌルは卑屈な笑みを浮かべた。
「求めてやまなかった私には見向きもせずに、君を」
「やめろ、ライヌル。そんな卑屈なことを言う君ではあるまい」
「私はそういう人間さ。君にどう見えていようが」
不意に、会話を遮るように霧が大きく流れた。ライヌルの後方へと。
強い風が巻き起こったのだ。
「ちっ」
ライヌルは顔を歪めた。
その灰色のローブがばさばさとはためいた。
杖から噴き出す霧は、たちまち風に吹き飛ばされて散っていく。
その風を起こした主は、空にいた。
霊鳥サグエルガル。
先ほどまで大空を舞っていた鷲が、今は空中でライヌルに向かって翼をはためかせていた。
「やる気か。デリュガンと戦おうと言うのか、鳥の分際で」
「この際だ。はっきりと言っておこう」
イルミスは言った。
「あの日、君に何があったのか、私は知らない。君にとって辛いことが起きたのだろうとは思うが」
イルミスの杖の光が、さらに強さを増した。
まるでその光を恐れるように、闇がライヌルの方へと後退していく。
「だが、ライヌルという男を知る者として言わせてもらう」
イルミスの杖の光と、霊鳥の巻き起こす風。それによって、黒い闇の霧は明らかに圧されつつあった。
「似合わないな、ライヌル」
「なに」
ライヌルが目を剥く。
「何だって」
「似合わないと言ったんだ」
イルミスは静かな表情のまま、言った。
「ライヌル。君に闇は似合わない。そんな力をいくら振るっても、私には勝てない」




