開戦
極めて優れた魔術師同士の戦いは、剣の達人同士の斬り合いにも似て、静かな探り合いから始まった。
互いに己の杖を胸の前に構えたまま、微動だにしない。
並の魔術師には感じ取れないほどのわずかな魔力の流れを感じ取り、動きを読み合い、先手を取ろうとする。
素人にはただ睨み合っているようにしか見えないその対峙の裏では、二人の魔術師の虚々実々の駆け引きが、信じがたい速度で行われていた。
無言の、だが恐ろしく濃密な時間が流れた。
二人の実力は伯仲し、どちらも主導権を握れなかった。
やがてそれに痺れを切らしたのはライヌルの方だった。
「こうしていても、らちが明かないね」
そう言って、ライヌルは微笑む。
「素人臭い戦いになるが、仕方ない。君から来ないのであれば、私から仕掛けることにするよ」
ライヌルは突如、まるで怪鳥のように大きく両腕を広げた。
灰色のローブがはためく。
その手に握る黒く捻じれた杖に、一瞬で巨大な魔力が凝縮された。
「いくよ」
ライヌルが一歩踏み込むと同時に、杖から解放された魔力が四方八方に飛び散る。
魔力の塊は瞬時に無数の羽虫に姿を変え、周囲一帯を覆っていく。
太陽の光を遮らんばかりの、黒々とした羽虫の群れ。
だが、地を揺るがす不快な羽音はたちまちに途切れた。
イルミスが白い杖を一閃すると、羽虫は全て砂と化して風に飛ばされてしまったからだ。
「おいおい」
ライヌルが口元を歪める。
「まだ何もしてないじゃないか。もう少しやらせてくれよ」
それに答えず、イルミスはライヌルの胸目がけて杖を突き出した。
その先端から、一条の光がほとばしる。
しかし、それもライヌルの身体に届く寸前で突然ぶれたように霞み、四散した。
「魔術祭の時は、それにやられたからね」
ライヌルは自分の胸を叩いて微笑む。
「二度も同じ手は喰わないさ」
そう言いながら、ゆっくりと後ずさって距離を取ろうとする。
それを許さないかのように、イルミスは灰色のローブをはためかせて前に出た。
高く掲げた杖から発する眩い光が、地中から這い出ようとしていた不定形のものどもの姿をくっきりと照らした。
「邪魔だ」
イルミスは短く言うと、光を放ったままの杖を振るって不定形の闇の眷族を打ち払う。
「イルミス、君はそうやって何もかもお見通しのような顔で」
言いながら、ライヌルはさらに後ずさっていく。
「いつも私の邪魔をする」
「君の邪魔などした覚えはない」
イルミスは答える。
その迷いのない歩みに、ライヌルは顔を歪めた。
まだ笑顔を浮かべてはいるが、その表情にはもうあまり余裕はなかった。
「なかなかに厳しい」
ライヌルは言った。
「やはり主導権も握っていないのに仕掛けたら、このざまだね」
ライヌルは、後退しながら黒い杖をぐるりと回す。
その円の軌道に沿うように、輝く氷の塊が現れた。ハリネズミよろしく鋭く尖った無数の突起が、それぞれに意志を持っているかのように、ぎょろりとその先端をイルミスに向ける。
だが、イルミスの表情は変わらなかった。躊躇なく歩を進める。
その肩に、いつの間にか一羽の鷲が止まっていた。
それを目にしたライヌルが、異物を飲み込んだような顔で呻く。
「霊鳥サグエルガルか」
ライヌルは、杖を突き出した。
「失せろ」
破裂するように氷が魔力で押しつぶされた。砕けた鋭利な氷の針が、あらゆる角度からイルミスを襲う。
イルミスが杖の一振りでそれを打ち払ったときには、鷲はもう天空に舞い上がっていた。
猛禽類の雄大な翼が太陽を遮り、二人の間に一瞬の影を落とす。
「忌々しい鳥め」
ライヌルは頭上を睨んだ。
「まだイルミスのもとにいたのか」
「どこを見ている、ライヌル」
イルミスが杖を振るう。
「私はこっちだぞ」
イルミスに目を戻したライヌルの眼前に、光輝く網が迫っていた。
かわす間もなく、ライヌルの身体は光の網に捕らえられる。
「むうっ」
ライヌルは身をよじろうとするが、網は強固だった。
網を構成する魔力の質が、圧倒的だった。
硬く、だがしなやかにライヌルの身体を締めあげる。
「くそ、油断したな」
ライヌルは舌打ちする。
「あの鳥のせいだ」
だがイルミスは、動けないライヌルに対してすでに次の魔法を準備していた。
「下手な演技はやめろ、ライヌル」
そう言いざま、杖を突き出す。
光。
魔力の凝縮した特大の光球が自分に向けて放たれると、ライヌルはもう一度舌打ちした。
わずかな身じろぎ一つで光の網を引きちぎると、黒い杖を胸の前で構える。
禍々しい杖は、一瞬で姿を変えた。
巨大な、蛇の頭部に。
蛇は大きな口をばくりと開けて、イルミスの放った光球を一飲みにした。
蛇の口の中でくぐもった爆発音が響く。
「本当はこいつで、近付いてきた君を食い千切ってやろうと思っていたのに」
ライヌルはそう言いながら蛇を杖に戻すと、上空を一瞥して顔を歪めた。
「ああ、まだ旋回しているのか。目障りな鳥め」
「鷲にばかり気を取られていると、悔いを残すぞ」
イルミスの杖の先端で、早くも次の光球が膨れ上がっていた。光球は、今度はその場で爆発し、無数の小さな光球と化してライヌルを襲う。
「ふん」
ライヌルは杖を握っていない左手を無造作に突き出した。
その指一本一本に小さな炎が宿っていた。
炎の指。
指を弾くようにして飛ばした小さな火球の一つひとつが、恐るべき威力を秘めていた。
光球にぶつかると、火球はたちまち天を衝くような火柱に変わって燃え上がった。それが、五つ。
イルミスの放った光球は、全て火柱にぶつかってかき消された。
五本の火柱は、まるでイルミスをすりつぶさんばかりに迫る。
ちり、と音を立てて、イルミスの頭髪の先端が焦げ臭い匂いを発した。
だが、それだけだった。
火柱はそれ以上イルミスに近付くことはできなかった。
イルミスは白い杖を掲げていた。
見えない壁に阻まれるように、イルミスの直前で動きを止めた火柱に、ライヌルは舌打ちして杖を振るう。
そのひと振りで、イルミスの作り出した見えない障壁は砕け散った。
「いけ」
ライヌルの号令一下、そこに火柱が殺到する。
初めてイルミスが顔をしかめた。
自分の周囲を囲うように、二度三度と杖を振る。
そのたびに火の粉が舞い、やがて巻き起こった巨大な竜巻に火柱は全て消し飛ばされた。
「やっと本気になってきたね」
ライヌルは嬉しそうに言った。
「君のその動きを見るのは久しぶりだ」
イルミスの額に微かに汗が滲んでいた。
杖を握るライヌルの右手で、金色の指輪が怪しい光を放っていた。
「これで五分まで戻したかな」
「ライヌル」
イルミスは低い声で呟く。
「君は、本当にこれほどの力を持ちながら」
「まだまだこれからさ、イルミス」
ライヌルは微笑んだ。
「私の力はこんなものじゃないよ。これくらいで感心してもらっては困る」
その言葉を、甲高い鷲の鳴き声が遮った。
ライヌルは上空を一瞥し、眉間にしわを寄せる。
「そこでおとなしく見ていろ、サグエルガル」
吐き捨てるようにそう言うと、ライヌルはイルミスにもう一度杖を向けた。
「お前の主人はこれから惨めに命を落とすのだから」




