不明
「ただ一人のライヌルだ」
湧き上がる腐臭を隠しもせず、言い放つライヌル。
変わり果てたかつての学友を、イルミスは厳しい表情で見つめた。
「署名、か」
そう言って、小さく頷く。
「そうか。……そうなのか」
その様子に、ライヌルがかえって訝しそうな顔を見せた。
「あまり驚かないんだね」
ライヌルは探るようにイルミスを見る。
「まるで半ば分かっていたような顔をするじゃないか」
「ああ」
イルミスは頷いた。
「大体の予想は付いていた」
その答えに、ライヌルは苦笑して首を振る。
「イルミス、君が賢いのは知っている。だが」
そう言って、たしなめるような目でイルミスを見た。
「後付けで分かっていた振りなんて、君らしくないじゃないか」
「こんなものについて予想ができたことを誇る気はない」
イルミスは表情も変えずに答える。
「だからアルマークたちにもこの予想は伝えなかった。彼らには私が最初に言った、全てが財力や知力などある種の力を表している、という予想だけを伝えた」
「どうしてだい」
ライヌルが目を細める。
「どうしてアルマーク君たちに言わなかったんだい。大事な生徒を守るためだろうに。まさか、私の惨めな出自を彼らに話すのが躊躇われた、なんていうお優しい理由じゃないだろうね」
その言葉に、イルミスは深く息を吐いた。
まるで、心の底にたまったかつての友への想いを全て吐き出すような、深い息だった。
「逆だ、ライヌル」
そう言って、イルミスは右手を天にかざすように高く掲げる。
きらり、と光が差した。
と見えた時には、その手に杖が握られていた。
飾り気のない、ぴん、と真っ直ぐに伸びた白い木の杖。
イルミスは杖をゆっくりと下ろす。
「逆だ」
イルミスはもう一度言った。
「私の尊敬するかつての友が、いまだに自分の出自を気に病んで、陰険な罠の中にうじうじとしたメッセージを織り込んでくるような人間だとは思っていなかった。たとえ闇に堕ちたとしてもだ。それこそが、君に対する冒涜だと思った」
その言葉に、ライヌルは一瞬、虚を衝かれたような顔をする。
「だから彼らには伝えなかった。だが結果的には、それが誤りだったというわけだ」
イルミスは静かな口調の中に、冷たい怒りを滲ませた。
「自分の不明を恥じよう」
その言葉に、ライヌルが低く笑う。
「そうか。私はまたもや友の信頼を失ったというわけか」
ライヌルはイルミスを見た。その目に込められた複雑な感情に、イルミスは眉をひそめる。
「まさか、まだ私に信頼を残してくれていたとは。君のそういうところが甘い、と言いたいところだが」
ライヌルはそう言いながら、自分の黒い節くれだった杖をぐい、と突き出してイルミスの握る白い杖を指す。
「ヒカリキシバ」
ライヌルは言った。
「その杖はまるで君のようだな。白く、真っ直ぐで。私にはどうしてもヒカリキシバの杖は魔力が合わなかった」
「私は、白くも真っ直ぐでもない」
イルミスは静かにライヌルの言葉を否定した。
「だが君とて、そんなものを愛用するほどにひねた魔力だったわけではないだろう」
イルミスはライヌルの持つ邪悪な形の杖に目を落とし、言った。
「クロマホロバの百年枝で作った杖か。まだそんなものが残っていたのだな」
「これを持った私は、強いよ。イルミス」
ライヌルは微笑む。
「君の予想する私よりも、遥かに」
「私は君を見損なった」
イルミスはそう言いながら、一歩踏み出した。
「だが、見くびったわけではない」
ライヌルの立つ地面をぐるりと取り囲む、円状の石畳。その一つに、イルミスが強く杖を突いた。
「む」
ライヌルが目を見張る。
ばちばち、と激しい火花が散り、石畳の隙間から黒い霧が立ち上る。
イルミスは杖を水平に一振りした。
黒い霧は、かき消されるように消滅した。
「だから君が私をここに誘い込んだ意味も分かっている」
「簡単に見破ってくれるじゃないか」
ライヌルは言葉とは裏腹に、ひどく嬉しそうな顔で言った。
「その罠を仕込むのに、こちらも苦労したんだよ」
「ライヌル」
イルミスがついに石畳に足を踏み込んだ。
「今日の私は本気だぞ」
「ああ」
ライヌルは頷く。その笑顔に、隠し切れない邪悪さが覗く。
「私も本気だよ。ずっとこの日を待っていたんだからね」
「私と対決する日をか」
「そうさ、もちろんそれもある。でもそれだけじゃない」
ライヌルは、一歩一歩近付いてくるイルミスから目を離さなかった。
その目が、底のない沼のような暗さを宿していた。
「私の作品が、完成する日をだ」
ライヌルは言った。
「君との対決さえも、その一部に過ぎないからね」
イルミスはその言葉に答えなかった。
石畳から地面に足を下ろす前に、イルミスは再び杖で地面を強く突いた。
青い光が地面全体を覆い、そこかしこで小さな破裂音がした。
「おいおい」
ライヌルはイルミスと同時に自らも杖で地面を突いていた。そのおかげか、ライヌルの周囲にだけは青い光が届かなかった。
「やめてくれよ。披露もしないうちに仕掛けを全部壊してしまうつもりか」
「君との対決を自分の人生の一つの区切りとしたい気持ちは、私にもある」
イルミスはそう認めた。
「だが、いま私たちがこうしている間にも、幼い命を燃やして仲間のために戦っている生徒たちがいる。これからの世界の希望となるべき、生徒たちが」
そう言いながら、イルミスがゆっくりと歩を進める。
それだけで、その巨大な魔力が地面を伝って火花を散らした。
「君の意図。学院長の意図。それらがどうであれ、私は自分の役目を果たす」
イルミスはライヌルを睨みつけた。
「全員を、無事で。それが私の使命だ」
「ああ、その目だ」
イルミスの目に射すくめられて、ライヌルは不意に気弱そうな表情で微笑んだ。
「その目に、私は嫉妬して止まないんだ。普段は物静かな君が、いざというときに見せるその強い目。私もそんな目をする自分になりたいとずっと思っていた」
ライヌルはまるで自分に言い聞かせるように呟く。
「だが」
その顔に、再び邪悪な笑みが戻ってきた。
「今は君のその目を潰してしまいたくて仕方ないよ、イルミス」
「潰せばいい」
イルミスは答えた。
「そういう君であってこそ、私も容赦なく力を振るえる」
イルミスが足を止めた。二人は五歩の距離で向き合う。
それは、武術大会の立ち合いとちょうど同じ距離だった。
「さすがはイルミス。ちょうどの距離だ」
ライヌルが静かに言った。
「始めようか」
「ああ」
イルミスは答えた。
「始めよう」




