ライヌル
時間が止まったかのように静まりかえる庭園の中を、二人の男が歩く。
同じ灰色のローブをまとってはいるが、その立場は正反対といってよかった。
一方は、ノルク魔法学院の教師であり、己の生徒たちを護るために現れたイルミス。
かたや、ウェンディの命を人質にとり卒業試験と称して危険極まりないゲームに生徒たちを巻き込んだ、闇の魔術師ライヌル。
歩くにつれ、古代の魔術師ロデ・ウルスタンドの作り上げた樹上庭園は、奇怪な姿の彫刻が徐々にその数を減らし、花の枯れ果てた花壇が目立ち始めていた。
唯一、養生された芝生の緑だけは入口と変わらないものの、奥に進むにつれて庭園は荒廃した空気をまといつつあった。
庭園の中央に位置する巨大な泉をとっくに通り過ぎたというのに、イルミスの後ろを歩くライヌルは無言のままだった。
「ああ、そこだよ。イルミス」
伸び放題で荒れた植え込みを二つも越えたところで、ライヌルがようやく声を上げた。
「随分と歩かせてすまなかった。やっと着いたよ」
イルミスは目の前の光景に眉をひそめて足を止める。
「……これは」
「いい出来だろう」
そう言ってイルミスの脇を、ライヌルがすり抜ける。
ぐるりと大きな円状に配された石畳。
その内側が、剥き出しの地面になっていた。
荒れかけてはいるものの、かつては丹念に整備されていたであろう庭園の緑の中で、その飾り気のない黒ずんだ一角だけが異様に見えた。
ライヌルは躊躇なく石畳を踏み越えて、地面に歩を進める。
「分かるかな、君には」
ライヌルは円の中心まで来ると、くるりとイルミスを振り返った。
「この意味が」
イルミスは石畳の外で、自分を見つめる闇の魔術師を静かに見返した。
「見立てているのか」
イルミスは言った。
「学院の武術場に」
「さすがは我が友」
ライヌルは芝居がかった笑顔を浮かべて手を叩いた。
イルミスの言う通り、その剥き出しの地面は、ノルク魔法学院の武術場の地面を思わせる質感だった。
「高等部の最後の年、私は武術大会に参加できなかった。もう学院を去ってしまっていたからね」
「君のいない武術大会は、静かだった」
イルミスは言った。
「私が優勝したが、前年までと水準が違うことは誰の目にも明らかだった。もし君がいたならば」
「君ならそう言ってくれると思っていた」
ライヌルはイルミスの言葉を途中で遮った。
「だから用意したんだ。この武術場を」
そう言って、ゆっくりと両腕を広げる。
「学院の武術大会みたいなお遊びじゃない。ここで私たちは、全力の魔法でお互いの命を奪い合う、本当の勝負をするんだ。そうして、本当の決着をつける」
ライヌルの笑顔の奥に潜む凶暴な目の光に、イルミスは静かに息を吐く。
「決着、と君は言うが」
イルミスはまだ石畳に足を踏み入れない。
「学院での八年間、君はあらゆる面において私を上回っていた。魔法でも、武術でも、級友や教師の人望という面においてもだ。君の圧勝と言ってもいい。これ以上何の決着をつけたいと言うのか」
「私は君にずっと嫉妬していた」
ライヌルは笑顔を崩さない。
「学院での成績なんてくだらない話はやめたまえ、イルミス。君の持つ才能に遠く及ばない教師どもの付ける点数になど、何の価値もないのだから。端的に言えば、私の魔法は凡愚どもの目にも分かりやすかった。そして、君の才能は分かる者にしか分からなかった」
「ライヌル。君の目的がよく理解できない」
イルミスは言った。
「生徒を取り戻すため、私は君を倒す。だがそれは私たちの学院生活などとは何の関係もないはずだ」
「関係あるよ。大ありさ」
ライヌルは答える。
「私がアルマーク君に課した、蛇の試練のことを覚えているかい」
「蛇の試練」
イルミスは眉を寄せた。常に冷静なその顔に、怒りの表情が覗く。
ライヌルがアルマークの右手に仕込んだ四匹の蛇。そのために、アルマークがどれだけの危険を冒し、どれだけの傷を負ったことか。
「よくも試練などと言えたな。あれは呪いだ。断じて、試練などとは呼ばせん」
「呪いにも祝福にもなり得るのが、試練というものだろう」
平然と、ライヌルは言った。
「そしてアルマーク君は全ての蛇を祝福に昇華してみせた。強い子だ。強く、賢く」
そう言いながら、口元を歪ませる。
「そして、哀れだ」
「哀れだと」
聞き咎めたイルミスに、ライヌルは首を振る。
「あれだけの素質を持つ少年が、老人の妄執のような運命に縛りつけられている。それを哀れと言わずして何と言う。あの薄汚い棒っ切れを手放しさえすれば、楽になれるというのにね」
「どの口で言う、ライヌル」
イルミスは吐き捨てるように言った。
「アルマークにあんな卑劣な罠を仕掛けた張本人が」
「順番を間違えるなよ、イルミス」
ライヌルは邪悪な笑顔のままで首を振る。
「運命が先にあった。私の試練はその後だ」
そう言うと、ライヌルは空を見上げた。
魔法具の作り出した異空間の空にも、太陽は輝いていた。
雲一つない晴天。
「星」
ライヌルは言った。
「今は目に見えなくとも、星はこの空に確かに輝いている。そうだろう、イルミス」
イルミスは答えない。ライヌルは気にする様子もなく、続ける。
「せこい連中さ。昼間、太陽が輝いているうちは姿を隠しているくせに、夜になると途端に輝き出すんだ。この空で最も輝いているのは自分だ、みたいな顔をしてね」
そう言うと、はっ、と声を出して笑う。
「あんなみじめな星どもが、人の運命を縛っているのだと学院長は言う。ふざけた話じゃないか。日の光の下にも出て来られないような連中が、我々の運命を握っているだって?」
その口調が次第に激しさを増していく。
「何が運命だ。星読みの言う、運命などというその言葉こそが、人を縛る呪いの鎖だとは思わないか、イルミス」
ライヌルは荒々しく、開いた両手を天に掲げた。
「私は何も持たずに生まれた。服も、食べるものも、親さえもだ。学院長は、そんな私にも運命だけはあると言う。冗談じゃない。何も与えてもらえなかったのであれば、私も何も掴まない。たとえ掴めと言われようともだ。運命だと。そんな鎖は、自らの手で断ち切ってしまえばいい」
その言葉に、イルミスは目を見開いた。
「断ち切っただと」
そう呟いて、目の前のかつての友の姿を見る。
「ライヌル。まさか君は」
ライヌルは両手を下ろすと、少し照れたように表情を緩めた。
「この話題になると、どうも精神の均衡を欠く」
そう言って、不意に右手を振った。
その手の中に、節くれだった杖が現れる。
自然界ではあり得ないほどの、邪悪なねじくれ方をした杖。
「アルマーク君に与えた試練に、私はメッセージを織り込んでおいた。伝わっただろうか」
ライヌルの言葉に、イルミスは静かに答える。
「貨幣は財力、書物は知力、指輪は権力、杖は魔力、そして剣は武力。全て力の象徴だ」
「さすがイルミス」
ライヌルは笑い、それからイルミスの顔を伺うように見た。
「それで?」
その問いに、イルミスは怪訝な顔をする。
「それで、とは何だ」
「なんだ。分からなかったのか、君ほどの男でも」
ライヌルはあからさまに落胆した表情を見せた。
「君にも分からなければ、誰にも分からないじゃないか」
「何の話だ」
イルミスの問いに、ライヌルは気を取り直したように微笑む。
「仕方ない、友人のよしみで教えてあげよう。最初の貨幣は、まあ偶然でもあるのだがね。そこで思い付いたのさ。ああ、これなら君には分かるかもしれないな、と」
「私に?」
「ああ」
ライヌルは頷く。
「貨幣、すなわち商人。書物は知識階級、指輪は王族や貴族だ。杖は魔術師、剣はまあ、鎌や鍬でも良かったのだがね。肉体労働を生業とする多くの者たち。農民や兵士を表したかった」
その言葉に、イルミスはますます怪訝な表情をする。
「それが、何だと」
「それらの人々を象徴した蛇を、アルマーク君が消していく。一匹、また一匹と。商人も、学者も、貴族も魔術師も、多くの一般庶民たちも」
ライヌルは楽しそうに言った。
「蛇が全て消えたとき、残るのは誰だい」
その顔に暗い笑みが浮かぶ。
「何者でもない出自を持つ、私じゃないか。世界を構成する全ての人々が消えた時、残るのは、世界のどこにも属さないこのライヌルだけじゃないか」
「……君は」
「画家は自分の作品に署名をするだろう」
ライヌルの身体の中で闇が蠢くのを、イルミスは感じ取っていた。
「ライヌル」
「だから、これは私の署名だ」
ライヌルは言った。その身体から、ついにはっきりと腐臭が漂い始める。
「私はライヌル。何者でもない、ただ一人のライヌルだ」




