不安
「モーゲン。……モーゲン」
アルマークが何度か呼びかけると、草の上に横たわっていたモーゲンは、むぐう、と唸って口をもにょもにょと動かした後で、ぱちっと目を開けた。
「あれ? アルマーク?」
そう言って、目をこすりながら上体を起こす。
「ああ、身体が重いや」
モーゲンは気怠そうにそうぼやいて、アルマークを見た。
「ええと、ここは」
そう言いながら、鼻をひくひくと動かす。
「もうあの甘い匂いがしないね」
「ああ」
アルマークは頷く。
「もうここは緑の森じゃない。僕らは帰ってきたんだ」
「よかったぁ」
モーゲンは息を吐いた。
「最後にフォーンベリーを見付けて、これで材料が揃ったって叫んだんだけどね。その時にはもう僕も毒で頭がぼうっとしちゃっててさ。実際はどうだったのか、自信がなかったんだ」
「君はちゃんと正解を出したんだよ」
アルマークは言った。
「緑のベルデもそう言っていたよ。やっぱり君の舌に狂いはなかった」
「緑のベルデ」
その名前を聞いて、モーゲンはきょろきょろと周囲を見まわす。
「そういえば、あの人は?」
アルマークはそれに答えず、黙って緑色に輝く石をモーゲンに差し出した。
「あ、これ」
モーゲンはそれをまじまじと見つめ、それからにっこりと笑う。
「よかった。これでウェンディを助けられるね」
「うん」
アルマークは頷いて、その石をしっかりと握りしめた。
「君のおかげだ。ありがとう、モーゲン」
「僕はベリーを食べただけだよ」
そう言って、モーゲンは笑って首を振る。
「ほとんどのことは君がやってくれたんじゃないか」
「僕の方が、毒が早く回っただろ。それで君に迷惑をかけた」
「でもあれは君の方が先にパイを食べ終えたから、仕方ないじゃないか」
「いや、それがね」
アルマークはベルデから聞かされた話をモーゲンにも話して聞かせる。
「だから、僕のせいで君にも苦しい思いをさせてしまったんだ。ごめん」
「無意識に抵抗、ねえ」
モーゲンは要領を得ない顔で首をひねった。
「まあパイを作った人がそう言うなら、そうなのかもしれないけど」
そう言って、申し訳なさそうな顔のアルマークを見る。
「アルマークがそんなに責任を感じることでもないと思うけどな。だって、ウェンディの魂を人質に取ったあのライヌルが呼び出した魔術師の一人だよ? 絶対悪いやつだと思って、警戒するに決まってるじゃないか」
「でも、君は僕と違ってパイに込められた魔法をきちんと受け入れていた」
「僕は、おいしいものを楽しく食べただけさ。魔法がどうとか、難しいことを考えなかっただけだよ」
モーゲンはそう言って肩をすくめた。
「それに、君は毒が回り切るまでに自分の仕事をやり遂げたんだもの。責任を果たしたんだから、堂々としていればいいと思うよ」
モーゲンの屈託ない言葉に、アルマークもようやく少し表情を和らげた。
「ありがとう、モーゲン。君にそう言ってもらえるとほっとするよ」
「君あっての僕だからね」
モーゲンは真剣な顔で頷く。
「君に責任があるなら、僕にだってあるってことさ」
そう言ってから、モーゲンはもう一度、アルマークの手の中にある緑の石を見た。
「とにかく、その石をウェンディのところに持って帰ればいいわけだね」
「ああ」
アルマークは頷く。
「他のみんなもきっと石の魔術師になんか負けないはずだから、もう石がたくさん集まっている頃かもしれない」
「そうだね。他のみんなだってノルク魔法学院の生徒だもの、大丈夫さ」
モーゲンは同意した後で、ベルデがいたテーブルの方を見た。
「でも、緑のベルデって不思議な感じの人だったね。ライヌルの呼び出した魔術師だから、もっと悪いやつが出てくるのかと思ったけど」
「うん。敵という感じじゃなかった。最後に消えていくときは励まされたよ」
「なんだか、お母さんみたいだったね」
モーゲンはそう言って笑う。
「あ、もちろん僕の母ちゃんはあんなに上品じゃないけどね」
「母さんか」
アルマークは目を細めた。
「そうか。母さんって、あんな感じなのかな」
記憶にも残っていない母の姿を、アルマークはぼんやりと思い浮かべようとした。だが、結局は先ほどのベルデの姿しか出てこなかった。
「わ。何だ、これ」
モーゲンが不意に大きな声を上げたので、アルマークは目を見張る。
「どうした、モーゲン」
「見てよ、これ」
モーゲンは自分のローブの袖から、一掴みのベリーを取り出す。
「フォーンベリーだ。それもこんなにたくさん、僕のローブに。いつの間に」
「ああ、それはね」
「わっ、これ、ユキメイズミの蜜の壜じゃないか」
「さっき、ベルデが消える前に君に伝言を」
「ベリーがこっちの袖にも入ってる。すごいぞ、こんなにあったらフォーンベリーだけで冬を越せるんじゃないか」
「いや、それはさすがに無理だと思うけど。それでモーゲン、それはね」
「一、二、三。三つも壜が入ってた。これ全部、ユキメイズミの蜜なんだ。こんなに持ってきたら、インセルムジュが怒っちゃうね、ははは」
「モーゲン、ちょっと僕の言うことも聞いてくれないか」
「ああ、なるほど。こうして二つの匂いを並べて嗅いでみると分かるね。ユキメイズミの蜜の甘さとフォーンベリーの酸味が合わさるとちょうどいいバランスなんだ」
興奮して上機嫌でベリーと壜を並べるモーゲンが少し落ち着くのを待って、アルマークはようやく先ほどのベルデの伝言を伝えた。
「もう存在しない植物、か」
モーゲンはまじまじとフォーンベリーの実を見た。
「蜜は無理だけど、フォーンベリーだけでもどうにかして殖やせないかな」
「バイヤーとかセリア先生に相談してみたらどうだい」
「うん、そうだね。そうするよ」
モーゲンは頷いた。
「この戦いが終わったらね」
この戦い。
モーゲンの言葉で、アルマークは自分の使命を思い出す。
「それじゃあモーゲン。僕はこの石を持って帰るよ」
「うん」
モーゲンは頷く。
「本当は僕も一緒に行きたいけど、もう魔力がほとんど空っぽなんだ。さっきからもう立とうと思ってるんだけどね。足に力が入らない」
「分かってる」
アルマークはモーゲンを痛ましげな目で見やる。
「僕も君に付き添って、一緒に戻れたらいいんだけど」
その顔を見て、モーゲンは慌てて首を振った。
「だめだよ、アルマーク。僕なんかここで休んでれば何とかなるんだから。君はすぐ、ウェンディのところへ戻らなきゃ」
モーゲンはアルマークを安心させるように頷く。
「大丈夫、僕も必ず戻るから。君が行かなきゃ、ウェンディは誰が助けるんだい」
その言葉で、アルマークは立ち上がった。
「ありがとう、モーゲン。君がいないのは痛手だけど」
マルスの杖を背負い、右手にしっかりと緑の石を握る。
「それじゃ、先に行くよ」
アルマークは言った。
「また、後で」
「うん」
モーゲンが頷いた時にはもう、アルマークは風のように駆け出していた。
あれだけの戦いを潜り抜けた直後なのに、アルマークはまるで疲れの色も見せずに走り去っていく。
本当にすごいな、アルマークは。
モーゲンは、あっという間に小さくなっていくアルマークの背中を見送りながら、思った。
僕はあの程度の魔物たちと戦っただけで、魔力を空っぽにしてしまった。
まだまだ僕じゃアルマークの力になれない。
本当は僕だって、アルマークと一緒に走ってウェンディのところに駆けつけてあげたいのに。
モーゲンは悔しそうに唇を噛んだ。
ウェンディ。どうか、無事で。
アルマークには決して見せなかった不安そうな表情で、モーゲンはウェンディの無事を心から祈った。
「何だって? フィタがいない?」
魔物の現れた森から避難し、校舎に集められた二年生たちの中で、ラドマールは真っ青な顔のザップにそれを伝えられた。
「いないってどういうことだ」
「言葉通りの意味さ」
ザップはじれったそうに答える。
「いないんだ、フィタだけ。どこを探しても」
「それは、まだ森に残ってるってことじゃないか」
だがラドマールはそう言いながら、自分の言葉に疑問を抱く。
魔物が森に現れた時、クコ・カサラーナンとその連れの女子が森の一番奥深くまで行ってしまっていた。
それを察知したラドマールは、彼女たちをわざわざ迎えに行ったのだ。
あの辺りに他の魔力は感じなかった。
少なくとも、フィタの魔力は森の浅い場所にはなかったはずだ。
「フィタのペアだった子はどうしたんだ」
「途中まで一緒だったって言ってる」
ザップは答えた。
「でも急に姿が見えなくなったって」
「急に、姿が」
ラドマールは腕を組む。
「あのフィタが、ペアの子に何も言わずに姿を消すようなことをするとは思えないが」
「ああ。僕もそう思う」
ザップは頷く。
「今、先生たちが森に探しに行ってるけど」
ザップはラドマールに顔を近付け、声を潜めた。
「何か心当たりはないかい、ラドマール。どうしてフィタだけが消えたのか」
「知るものか」
ラドマールは首を振った。
「僕に心当たりなどあるわけがない」
だがそう言いながらも、ラドマールの胸には黒雲のような不安が湧き上がっていた。
それを見透かしたように、ザップが呟く。
「僕、悪い予感がするんだ」
ああ。僕もする。
だがラドマールはその言葉を口には出さなかった。
「フィタだって魔術師だ」
代わりにラドマールはそう言った。
「きっと、何とかなる」
第二十三章は、ここまでとなります。




