感謝
春だ。
アルマークは、そう思った。
暖かい風と、緑の匂い。
やわらかな日差しと、それに照らされる足もとの草の鮮やかな色。
アルマークの目線の少し先に、少女がいた。
濃紺のローブ。
こちらに背を向け、地面に両足を揃えて横座りしているその少女の髪が、風に揺れた。
ああ。
アルマークは自分の表情が自然と穏やかになるのを感じた。
ここにいたんだね。
少女の手が規則的に動き、それに合わせてローブが揺れる。
草を編んでいるようだった。
アルマークはゆっくりとそちらに歩み寄った。
「ウェンディ」
そう声をかけると、少女がゆっくりと振り返る。
「アルマーク」
ウェンディは微笑んだ。
「いつからそこにいたの?」
そう言って、少し恥ずかしそうにアルマークを見上げる。
「いつからいたのか、僕にもよく分からないんだけど」
アルマークが答えると、ウェンディはきょとんとして、それからくすくすと笑った。
「なあに、それ」
その笑顔が愛おしくてたまらず、アルマークの胸は詰まった。
けれどそれをどう言葉にしていいのか分からず、感情を押さえてウェンディの手元を覗き込む。
「何を作っていたんだい」
「ああ、これ」
ウェンディは自分が編んでいた草に目を落とし、それからアルマークの腿を優しく叩いた。
「アルマークも、ここに座って」
「え? 僕もかい」
アルマークは戸惑いながらも、ウェンディの隣に腰を下ろす。
「ちょっと待っててね」
ウェンディはそう言って微笑んだ。
すぐ間近で見る、ウェンディの笑顔。
アルマークはなぜだか泣きそうになった。
今日も、さっきまで講堂で一緒に座って試験の開始を待っていたのに。
なんでだろう。すごく久しぶりな気がする。
ウェンディの隣に座ると感じる、この感覚。
自分の居場所は間違いなくここなのだという、心の奥底から湧いてくるような誇らしさと安心感。
「そんなにじっと見ないで」
ウェンディは照れたようにまた手元に目を落とし、草を編み始める。
「もう少しでできるから」
「うん」
アルマークは頷いて、静かに待った。
ウェンディが、ぱらりと落ちてきた髪をかき上げて、耳にかける。
そんな仕草の一つまで、愛おしかった。
このままずっとこうしてウェンディの横顔を見ていたかった。
「アルマーク」
下を見たままでウェンディが、ぽつりと名前を呼んだ。
「ごめんなさい、心配かけちゃって」
「え」
アルマークは目を見張り、それから首を振る。
「何を言ってるんだ。君が謝ることなんてないよ」
「でも、私のことは気にしないでね」
真剣な表情で一心に草を編みながら、ウェンディは言った。
「私のためにあなたが判断を誤ることが、何よりも辛いの」
言葉もなくウェンディを見つめるアルマークの横で、ウェンディは自分の手元を見つめながら言葉を継ぐ。
「あなたはあなたの直感を信じて。いつものかっこいいアルマークのままでいて。心を曇らせたりしないでね」
「ウェンディ」
アルマークはやるせない気持ちでその名を呼ぶ。
「君は」
「大丈夫。私は私で、何とかなるから」
きっぱりとした声でウェンディはそう言うと、自分の言葉に自分で頷く。
「うん。私は大丈夫」
アルマークはそれに何と答えていいのか分からず、口を開きかけて、また閉じた。
代わりにウェンディが顔を上げ、アルマークを見て、にこりと微笑む。
「はい。できたよ」
そう言って、ウェンディが手を伸ばした。アルマークの頭の上に、草で編んだ冠が優しく載せられた。
「本当は花も入れてもっときれいにしたかったんだけど、草しかなくて」
ウェンディはそう言って少し身体を離し、冠を載せたアルマークをじっと見る。
「でも、素敵」
ウェンディは言った。
「素敵だよ、アルマーク」
その目が潤んでいた。
「ウェンディ」
どうしようもない気持ちに駆られて、アルマークはウェンディに腕を伸ばそうとした。
だが、それと同時にアルマークは夢から覚めた。
そこは、見覚えのある原っぱだった。
木製のベンチとテーブル。
緑のベルデと出会い、パイを食べた場所だった。
アルマークはそっと頭に手をやり、そこに何も載せられていないことを確認する。
ウェンディ。
心の中でアルマークは誓う。
ありがとう。君の言う通りだ。
僕は、僕の戦いをするよ。そしてまた君の隣に座って、話をするんだ。
アルマークは上体を起こし、深く息を吸う。
毒に侵されたときの強烈な不快感は、もうなくなっていた。
ゆっくりと立ち上がり、ベンチに近付く。
そこに、緑色の髪の女性が座っていた。
「ご苦労様」
ベルデはそう言って微笑んだ。
「やり遂げたのね。私の予想よりもずいぶんと苦労したようだけど」
「途中でパイの効果が切れました」
アルマークは答えた。
「モーゲンよりもずっと先に、僕のほうが。それで動きが制約されてしまった」
「そうみたいね」
ベルデは静かに頷く。
「あなたの方がずっと早くパイの効果が切れたわね」
「個人差があるんですね、あのパイには」
アルマークはそう言ってから、辺りを見回す。
「モーゲンは、どこですか」
「あそこよ」
ベルデが細い腕を伸ばして、原っぱの先を指差した。そこに、モーゲンが横たわっていた。
その大きなお腹が上下している。穏やかな顔で小さくいびきもかいているのを見て、アルマークはほっと息をついた。
「もうすぐ目を覚ますわ」
アルマークの心を読んだように、ベルデが言った。
「でも、疲れていると思うわ。魔力をほとんど使い果たして、怪我もしているのね」
「最後はもう、モーゲンに任せっぱなしでした」
アルマークは答える。
「でも、さすがモーゲンだ。ちゃんとフォーンベリーを見付けてくれた」
「そうね」
ベルデは頷いて、ベンチに座ったままアルマークを見上げた。
「あなたは、個人差と言ったわね」
ベルデは言った。
「パイの効果には、個人差が、と」
「ええ」
アルマークは頷く。
「明らかに個人差がありました。僕が毒に侵され始めたのは、モーゲンよりもずっと前でした」
「アルマーク」
ベルデの目が、アルマークの持つマルスの杖に向けられた。
「鍵を護る少年よ。あなたに大事なことを教えます」
そう言うと、ベルデはゆっくりと立ち上がった。
「魔術師を志す者であれば、きっとあなたも聞いたことがあるでしょう」
ベルデがアルマークを真っ直ぐに見る。その緑色の瞳が、穏やかな表情に似合わない威厳を湛えていた。
「魔法の力は、誰に対しても平等だわ」
ベルデは言った。
「王であろうと、貴族であろうと、平民であろうと、人の身分によってその効果に違いなどない」
「知っています」
アルマークは答えた。
その言葉は、イルミスからも聞いていたし、ウェンディが口にしたこともあった。アルマークにとって、忘れるはずなどない言葉だった。
「確かに、個人差がないわけではないわ」
ベルデは静かに認めた。
「けれど、それはごくわずかな誤差のようなもの。こんなにあからさまに違いが出るものではない。わざと魔法に抵抗したりしなければね」
「えっ」
意外な言葉にアルマークは眉を上げる。
「抵抗したのよ、あなたは」
ベルデは言った。
「あなたは私を信用していなかった。だから、無意識にパイに込められた魔法に抵抗したの」
「僕が、抵抗を?」
ベルデは、言葉を失うアルマークを憐れむように見た。
「モーゲンはそんなことはしなかったわ。出されたものを素直においしいと味わった。だから、パイの効果を十分に享受できた。いいえ、モーゲンもあなたの警戒心のせいで、少し無意識の抵抗があったかもしれない。私の計算では、あそこまで時間が短くなるはずはなかったのだから」
「僕が、無意識に抵抗を」
「あなたたちの力をもってすれば、緑の森でここまで追いつめられることなどあり得ないのよ。特に、インセルムジュさえ問題にしない、あなたの戦闘能力をもってすればね」
その言葉に、アルマークは呆然とベルデの顔を見返す。
僕のせいで、僕らは不必要な苦戦を強いられたというのか。
モーゲンにあんな怪我までさせて。
そんなことはない。
アルマークはそう反論しようとした。
だが確かに、毒の影響さえなければ、森の魔物に苦戦することはなかったし、モーゲンの味覚をもってすれば材料探しも容易だったはずだ。
途中までは、順調そのものだった。
それがあそこまで追いつめられた原因は、間違いなく毒によるアルマークの不調にあった。
「本来のあなたであればきっと、警戒すべきもの、そうでないもの、もっと明確に見分けられたはずよ。あなたは聡明な子だもの」
ベルデは言った。
「何があなたの目を曇らせたのかしら。大事なお友達の危機?」
そう言って、アルマークの目を覗き込む。
「そうね。あなたが鍵の護り手である以上、それはとても重要なことだわ。けれど、それはそのお友達の望んだことなのかしら」
ベルデの口調は穏やかだった。だが、その言葉は鋭い刃のようにアルマークの心を抉った。
「自分を心配するあまりに目を曇らせて、しなくてもいい苦戦をするようなことを、あなたの大事な“門”の少女が望んだのかしら?」
「……ウェンディが」
アルマークは唇を噛んだ。
ウェンディ。君の言いたかったことは、これか。
夢の中で見たウェンディの笑顔が、脳裏をよぎる。
苦戦なんてしないでね。これ以上ウェンディを辛い目に遭わせるわけにはいかない。
不意に、レイラに言われた言葉が蘇った。
ごめん、レイラ。僕はまたやってしまった。
自分では、冷静なつもりでいた。
ウェンディを助けるために、必要なことを最短の時間、最短の距離で。
そう考えていた。
だけど、そう考えている時点で、僕はもう冷静ではなかったのかもしれない。
それが思わぬ苦戦を呼び、モーゲンを傷つけることになった。
アルマークはマルスの杖を握る手に力を込めた。
自分が情けなかった。
その表情を見て、ベルデが表情を緩める。
「モーゲンに感謝なさい」
ベルデは優しい声で言った。
「とても臆病なのに、とても勇敢な子。過酷な運命の陰で、どんな運命にも縛られない子。私の石は、彼の友情に捧げましょう」
その身体が、徐々に薄くなっていく。
「とても良い仲間を持ちましたね、鍵の護り手」
ベルデは言った。
「緑の森にある植物の大半は、もうこの世界には存在しないものよ。モーゲンが目を覚ましたら、伝えてあげて」
ベルデは優しく微笑む。
「その蜜とベリーは、勝利の証としてあなたに差しあげます、と」
「ありがとう、緑のベルデ」
アルマークは消えゆくベルデに言った。
「大事なことに気付かせてくれて。僕はあなたをずっと疑っていたのに」
「自信を持ちなさい、アルマーク。あなたはとても強いのだから」
まるで教師のような口調で、ベルデは答える。
「いつだってあなたの身体には、前に進む力が秘められている。だから、もう前を向きなさい」
ベルデはその緑の瞳をきらめかせて、最後に言った。
「あなたの為すべきことを為しなさい。気高き鍵の護り手、アルマーク」
その言葉とともに、ベルデは消えた。
僕の、為すべきこと。
アルマークは深く息を吸うと、緑に輝く石をそっと拾い上げた。




