フォーンベリー
モーゲンは、アルマークが袖から苦しそうに掴み出したベリーを受け取ると、地面に並べた。
まだこれだけあるのか。
全部で五種類。
時間さえあれば、なんてことない量だ。
だけど、今は時間が少しでも惜しい。
モーゲンはそのうちの一粒を手に取った。
もし、さっきみたいに舌が痺れてしまったりしたら、今度こそ間に合わなくなる。
だから、それだけは避けないといけない。
モーゲンはそれについて、一つの結論を出していた。
熟す前に実の中に刺激性の魔力が流れている可能性があるのなら、その魔力を先に感じることだ。
それは、治癒術の応用。
モーゲンは、指でわずかに実を潰してその匂いを確かめるという一連の動作をしながら、実に流れるわずかな魔力を感じ取ろうとした。
すさまじい集中力を要するその作業に、実を口にする前からモーゲンの顔は苦しそうに歪む。
だがアルマークにも、友人のその変化に気付く余裕はなかった。
どんな苦しい時でも平然としているアルマークが、よろけて膝をつくのを、モーゲンは視界の端で見た。
アルマーク、ごめん。もう少しだけ、待っていてね。
最初の一粒を、口に運ぶ。
魔力の流れは、大丈夫。
実を齧り、咀嚼する。
だめだ、この味じゃない。
モーゲンはすぐにその実を吐き出すと、次のベリーを手に取る。
もうその時には指先が魔力の感知を始めていた。
「僕が目覚めた方には、結構色々なベリーが生っていたんだ」
アルマークが顔を歪めながら、小さな声で言った。
「君のいたこちら側に、ユキメイズミの木があった。だから、時間的に考えても、僕が摘んできたベリーの中に正解があると思うんだ」
そうかもしれない。
アルマークの言葉足らずの説明に、モーゲンは小さく頷く。
確かに、僕の目覚めた方にはベリーなんて一つも生えてなかった。でも、割と近くにユキメイズミの木があった。
パイの効果という時間制限のある中で、緑のベルデは僕たちをそこまで目的の物から遠い場所に飛ばすだろうか。
アルマークの言う通り、ユキメイズミの蜜は僕の目覚めた場所の近くに、フォーンベリーはアルマークの目覚めた場所の近くにあった可能性が高い。
だから、あとは。
モーゲンは次のベリーを齧り、それから吐き出した。
この中から、僕が正解を見付けるだけだ。
モーゲンは次のベリーを手に取った。
うぐ、とおかしな声を上げて、アルマークが口を押さえる。
毒が、君をそこまで苦しめてるんだね。
そのことにモーゲンの心はかき乱されそうになるが、それでも平常心を保とうと努めた。
大丈夫。
僕の舌は、この甘ったるい匂いに包まれた中でも、ちゃんと味を判別できている。
そして、その鋭敏な舌が告げていた。
このベリーでもない、と。
そうやって、モーゲンはそこに並べられた全てのベリーを齧り、そして、全てを吐き出した。
「……違う」
最後のベリーの実を吐き出し、モーゲンは呆然と首を振った。
「最後のこれでもなかった」
「全部違ったのか」
そう呟くアルマークの顔には、もうほとんど血の気がなかった。
「ごめん、モーゲン。僕が摘みそこねたのかもしれない」
「いや」
そんなことがあるだろうか。
モーゲンは自分の食べ残したベリーの粒を見ながら、考えた。
アルマークは、手あたり次第、怪しそうなものは全部採ってきたと言っていた。アルマークがそう言ったのだから、それはもう掛け値なしに正真正銘、手あたり次第にやったはずなんだ。
それでも取り損ねたなんてことがあるだろうか。
モーゲンは自分の記憶の中の、フォーンベリーの味をもう一度呼び起こした。
フルベリーよりも酸味が強くて、でも噛んだときに、果汁がじゅわっと出てきて。それが焼き立ての熱いパイにぴったりと合っていて。
果汁。
熱いパイ。
「あっ」
モーゲンは顔を上げた。
そうか。そういうことか。
「僕としたことが」
モーゲンは立ち上がろうとして、脚の激痛に呻いた。
「どうしたんだ、モーゲン」
アルマークが尋ねる。
「何か気付いたのか」
「加熱だ」
モーゲンは悔しそうに言った。
「加熱だったんだよ、アルマーク」
「え?」
「きっとフォーンベリーは、加熱することで膨らむんだ。だから、噛んだときに果汁が弾けるように出てくる」
「膨らむ」
辛そうな表情で、アルマークはその言葉を繰り返した。そんな状態でも、聡明な彼にはその意味が吞み込めたようで、目を見開く。
「ということは、つまり」
「最初に選り分けたベリー。大きさが合わないからって除けたのがあったでしょ」
これはフルベリーよりも小さいな。
そう言って、脇に除けた毒々しい赤紫色のベリー。
たとえば、あれが。
「あそこに置いてきたベリーか。あれが正解だったのか」
アルマークは立ち上がった。
「取ってくる」
何という精神力。今の今まで、気を失いそうな表情をしていたのに。
モーゲンはそれに驚嘆し、それから首を振った。
「無茶だよ」
モーゲンは言った。
「君の今の状態じゃ」
ユキメイズミの木を探すために、あの場所からはずいぶんと離れてしまった。走れば戻れない距離ではないが、今のアルマークには無理だ。
「でも」
なおも走り出そうとするアルマークに、モーゲンは自分の脚を指差した。
「アルマーク。僕の脚に、治癒術をかけてよ」
「え?」
「君が行って戻ってくるよりも、僕なら行くだけで済む。向こうで自分で味を見ればいいんだからね。だけど、さっきのインセルムジュの攻撃で、脚が動かないんだ」
モーゲンはアルマークに微笑んでみせる。
「毒に侵された君の一往復よりも、僕が片道、行くだけの方がまだましさ。でも、もう僕の魔力はほとんど空っぽなんだ。だから、治癒術を」
「……そうか。君が行くか」
アルマークは頷くと、がくりと膝を折った。そのまま、這うようにしてモーゲンに近付く。
あのアルマークが、こんな風にしか動けないなんて。
それでも一瞬の躊躇もなく、取ってくる、と言い放ったアルマークの勇気に、モーゲンの心は震えた。
「君が行ってくれるなら、安心だ」
そう言って、アルマークが手をモーゲンの脚にかざす。
「ごめん、魔力の調節がうまくいきそうにない。痛いかもしれない」
「いいよ、気にしないで。走れればそれでいいんだ」
そう答えながら、モーゲンは自分の言葉がまるでアルマークの言葉みたいだ、などと考える。走れればそれでいい、だなんて。
びりっ、と痺れるような感覚とともに、アルマークの魔力が流れ込んできた。
「いたっ」
自分で言った通り、アルマークの治癒術は下手だった。だが、おそらく意識が朦朧としている中で、最善を尽くしてくれた。
「ありがとう」
モーゲンは立ち上がった。
痛みは消えていない。だけど、とにかく脚は動いた。走れる。
「行ってくるよ」
そう言って、ユキメイズミの蜜が入った筒をアルマークに見せる。
「これも持っていくよ」
「頼む、モーゲン」
アルマークはそう言うと、ずるずるとその場に崩れ落ちた。
「立っていられなくなってきた。いざというときの力を溜めておくよ」
「分かった」
モーゲンは駆け出した。
「行ってくる」
返事はなかった。だが、もう振り向かなかった。
もし途中で、自分にも毒の効果が現れたら。
もしも魔物にまた襲われたら。
ほとんど魔力の残っていない自分ではひとたまりもないだろう。
モーゲンは締め付けられるような心細さを感じながら、走った。
アルマークと一緒にいれば、自分まで無敵になったような心強さがあるのに。
今、こうして魔物の跋扈する森でアルマークと離れて、一人で走っている。それが、こんなにも怖いなんて。
それでもモーゲンは走った。
ここまで来た道を、なるべく最短距離で戻る。
森で生きてきたモーゲンにとっては、初めて入った森とはいえ、元来た道をたどることは難しくなかった。
地面を踏みしめるたび、脚が痛む。
だけど、アルマークが動くようにしてくれたんだ。
モーゲンは、歯を食いしばって走り続けた。
それは突然にやって来た。
モーゲンの鼻を、急に甘い香りが衝いた。
さっきまでとまるで違い、匂いが重さと硬さを伴ったかのようだった。
「うぐっ」
こみ上げてきた胃液に、モーゲンは身体を折った。
猛烈な不快感。
脚が震え、意識が飛びかけた。
嘘でしょ。
モーゲンは朦朧とする頭で考えた。
これが、毒の効果。
こんなの、無理だ。これじゃ走るどころじゃない。
地面にうずくまり、モーゲンは吐いた。
甘い匂いが、ずしりと肩にのしかかるような重さを持ち始めていた。
まだ、完全にパイの効果が切れたわけじゃない。
モーゲンは思った。
だけど、それでもこの辛さ。そして、これからどんどん辛くなる一方なんだ。
不快感と息苦しさと、恐怖。
モーゲンは身体を起こしはしたものの、そこで立ち竦んだ。
間に合わない。とても。
僕には、とても無理だ。
理性はそう告げていた。
なのに。
「そうか。君が行くか」
アルマークは、この毒の辛さの中で、駆け、跳ね、巨虫を圧倒していた。そして、この脚に治癒術までかけてくれた。
僕にはとてもそんなこと、できっこない。
走ることさえできやしない。
「君が行ってくれるなら、安心だ」
なのに、どうしてそんな顔で、安心だ、なんて言うのさ。
モーゲンの脚が前に出た。
君の指示を守らずに、やっぱり足を引っ張っちゃうような僕なのに。
モーゲンの顔はもう涙と涎でぐちゃぐちゃだった。それでもモーゲンはよろよろと不格好に走り出した。
君が、そんな顔でそう言ってくれるから、僕の脚が勝手に動くじゃないか。
気の遠くなるような数十歩、それとも数百歩か。足を前に出し続けた奮闘の後。
モーゲンは霞みかけた視界の隅に、地面に散らばるベリーを見付けた。
あった。
倒れ込むように、その中の一粒を掴む。
僕の予想ではきっと、これ。
地面に倒れたままで、モーゲンは最後の魔力をこめて小さな火を作り、そのベリーを熱した。
ベリーがまるで風船のように一回り大きく膨らむ。
それこそが、モーゲンの求めていた大きさだった。
モーゲンは躊躇せず、ベリーに齧りついた。
匂いも何も確かめはしなかったが、確信はあった。
熱された、爽やかな酸味の果汁が口いっぱいに広がる。
圧し潰されそうな甘い毒の香りの中でも、モーゲンの舌はその尊厳を失わなかった。
「これだ」
仰向けに天を見上げ、モーゲンは叫んだ。
息が詰まりそうになる。
それでも、大きな口を開けて、モーゲンは絶叫した。
「これがフォーンベリーだ。見付けたよ、僕たちは、アルマークと僕は、フォーンベリーとユキメイズミの蜜を見付けた」
森全体に響け、とばかりにモーゲンは声を張り上げた。
「聞こえるかい、緑のベルデ。僕らは見付けたぞ」
アルマーク、僕の声が届くかい。僕らは見付けたんだよ。
君のおかげで、僕も役目を果たせたんだ。
突然、森を強い風が吹き抜けた。
風の中に女性の穏やかな笑い声が聞こえたような気がした次の瞬間、モーゲンの意識は遠ざかった。
どこかへ転移させられようとしているのか、それとも完全に毒でやられてしまったのか。
それはもうモーゲンには分からなかった。




