外殻
「それじゃ先に行くよ」
そう言って、アルマークはユキメイズミの木の陰から飛び出した。
幹に齧りつくようにして樹液を舐めていたインセルムジュが、その動きに反応した。
図体はでかいけど、反応は意外に速いぞ。
アルマークは頭の中でインセルムジュのイメージを修正する。
あまり速く走りすぎても、僕を捕捉するのを諦めてしまう。
だから、速度はこのくらい。
振り向かなくても、インセルムジュが自分に向き直り、突進しようとしてきているのが分かる。
身体をこのくらい傾けて、こっちに誘う。
アルマークは自分の全ての行動を一瞬で即断する。
それは幼少の頃から戦いの場に身を置き続けたからこそ培われた感覚。
教えられて身に付く類のものではなかった。
一、二、三。
ちょうどぴったりのタイミングで身体を右に投げ出す。
背後から迫っていたインセルムジュの巨体が、そのすぐ脇を通り過ぎていく。
立ち上がりざまに、マルスの杖に魔力を込める。
気弾の術をぶつけて、機先を制す。それから虫の嫌がる冷気で動きを止めて。
北の戦場で鍛えられた感覚と、この一年間、魔術師になるために必死に続けてきた訓練の日々。
アルマークは、今それがしっかりと噛み合い始めていることを感じていた。
戦場で敵の振ろうとしている剣の軌道があらかじめ見えるように、魔法でこの巨虫をどう仕留めればいいのか、そのイメージがあらかじめ鮮明に浮かぶ。
インセルムジュが土を撒き散らしてアルマークに向き直った。
だが、そこに魔法を撃ち込もうとしたアルマークは、一瞬躊躇した。
かわすときに見た、インセルムジュの磨かれた鋼球のような左半身。それが電流のように脳裏に蘇る。
何か、具体的には言えないが嫌な予感がした。
インセルムジュには特に注意を。
緑のベルデが言い残した言葉。
あれは、ただ単にこいつがでかくて硬いから、とそんな理由で名前を挙げたのか?
戦場では、アルマークは自分の直感に身を委ねることをためらわない。
自分の考えに固執することもしない。
戦術を切り替える。
再びの即断。
アルマークは杖から魔力を散らす。
間髪入れずに襲ってきたインセルムジュの突進をかわした。
角を突き出しての突進は確かに速いが、以前に戦った闇の魔獣エルデインのほうが速度も迫力も上だった。
間髪入れず、アルマークは体勢を低くして巨虫に駆け寄ると、マルスの杖で思い切りその外殻を叩いた。
硬い。
分かってはいたが、やはり硬かった。
外殻には、ひび一つ入らなかった。
だがアルマークは続けざまにその外殻を叩く。
敵がごつい鎧を着てて剣が通らねえ、なんてときはな。
父の教えをアルマークは思い出す。
思い切り何度もぶっ叩いてやれ。相手が中で目ぇまわすくらいにな。
相手は人間ではない。甲虫にどこまでその戦法が通じるかは分からない。だが、アルマークにはそれが通じる予感があった。
それに、この巨虫を倒す必要はアルマークにはなかった。
とりあえずモーゲンがここを離れるまでの時間を稼げばいい。
鋭い突進をひらりとかわしてアルマークはまたその外殻を叩く。
中に響け。
それから、まだここだと少し木に近いな、と考える。
あまり木から離れすぎると、インセルムジュは木の下に戻ってしまうだろう。虫はきっとその辺りの感覚が鋭敏だ。だから、慎重に。もう少しだけこちらに引き寄せておこう。
間断なく身体を動かしながら、頭の片隅でそこまで考える余裕がアルマークにはあった。
少しずつ木からインセルムジュを引き離していく。
よし。
これで十分だろう、というところまで巨虫を引き付けて、アルマークは叫んだ。
「モーゲン、今だ!」
その言葉と同時。一瞬の遅れもなく、モーゲンが木から飛び出してきた。
さすが、モーゲン。
アルマークは友の信頼に感謝しながら、インセルムジュの注意をこちらに引き付けるためにわざと自分の身を巨虫の眼前に晒した。
地面が揺れる。再度の突進。
インセルムジュの突進は、エルデインのそれよりも予備動作が少なく、よけづらかった。
だけど、単調だ。
アルマークは苦もなくその巨体をかわしてみせる。
かわしざまに、脇腹に一撃するのを忘れない。
強烈な打撃音。
インセルムジュの身体がぐらりと揺れ、その動きがわずかに衰えた。
効いてるな。
アルマークがそう考えた時だった。
甘い香りが突然、鼻を衝いた。
この森にずっと漂っていた香り。
だがその強い匂いはさっきまでの比ではない。
一瞬、目が眩むほどの強烈な濃さ。それは身体を蝕むほどの甘さだった。
鼻から直接脳を突き刺してくるかのようなその匂いに、思考がぼやけた。同時に胃液がこみ上げてくる。
パイの効果が、切れたのか。
歯を食いしばって、アルマークは必死に意識を繋ぎ止めた。
毒。
もはや疑いもない。この香りは、毒だ。
自分の動きが先ほどまでとは違うのが分かる。
神経が、うまく身体の隅々まで行きわたらない。
インセルムジュの巨体が迫っていた。
それでもアルマークは身体を動かした。跳躍してその丸太のような角をかわす。
だが、突然外殻の下に蠢く脚のうちの一本が、普通の虫ならば絶対にしないような軌道で跳ね上がってきた。
脚が、こんな風に動くだって。
アルマークは空中で硬い脚にまともに打ち据えられて、地面に投げ出された。
しくじった。
立とうとすると、濃密な甘い匂いがまるで身体を上から押しつぶしてくるような重さで迫ってくる。
くそ。
痛みと強烈な不快さに耐えて、立ち上がる。
モーゲンはだいぶ離れただろうか。
そう考えたとき、アルマークは信じられない声を聞いた。
「アルマーク!」
モーゲン。どうして。
アルマークはとっさに叫んだ。
「モーゲン! 来るな!」
だがモーゲンは答えなかった。代わりにその魔力が膨れ上がるのが分かった。
「わああああ!」
「だめだ、モーゲン!」
こいつに魔法をぶつけたら。
そこまで言う暇はなかった。
モーゲンの杖が光る。
光の網。
精緻な網がインセルムジュを包み込んだ。
「アルマークから離れろ!」
モーゲンがそう言いながら、丸い身体を弾ませて駆け寄ってくる。
モーゲン。君は。
その必死な表情に、アルマークの胸は詰まった。
だが、次の瞬間。
モーゲン自身が光の網に捕らえられていた。
「え?」
とっさに何が起きたか分からず、モーゲンは両足をばたつかせる。
「何だ、これ。どうして僕が」
その眼前で、インセルムジュの魔力が急激に高まっていく。
インセルムジュを包んだはずのモーゲンの光の網は、もはや跡形もなかった。
その外殻の鈍い輝きを見て、アルマークは自分の直感が正しかったことを悟る。
やっぱりそうだ。こいつに魔法は効かない。
左の磨かれた鋼球のような殻は、魔法を反射する。
そして、右の棘のついた殻で、魔法を吸収する。
「モーゲン、魔法を解除するんだ」
アルマークは叫んだ。
「早く!」
だが、インセルムジュの方が速かった。
その赤い目が、更に輝きを増した。
と、次の瞬間、巨虫は奇怪な鳴き声を上げた。
耳が裂けるような音とともに強い衝撃波が襲ってきて、アルマークは再び弾き飛ばされた。
だが、それでも歯を食いしばって足を踏ん張る。
転んでたまるか。今倒れたら、もう立てないかもしれない。
それから、モーゲンの方に目をやって絶句する。
光の網に捕らえられたままでまともに衝撃波を喰らったモーゲンが、地面に倒れ伏したのが見えたからだ。
「モーゲン!」
モーゲンは答えない。
倒れたまま、動かない。
インセルムジュがアルマークを見た。その目の赤い光はまだ衰えていない。
「よくも」
アルマークは息を止めた。
再びの、金切り声。
だがアルマークはそれをものともせずに走った。
外殻を叩く。そのまま背後に回り込みもう一撃。もう一撃。
息を止めたまま、アルマークは駆けた。跳んだ。
インセルムジュは次の衝撃波を放つこともできなかった。
あらゆる方向から外殻を叩かれ、その動きが徐々に弱まっていく。
アルマークは息を吸った。
その瞬間、意識が遠くなるが、それを凄まじい意志の力で抑え込む。
響け。
中に。
もっと、響け。
マルスの杖が唸る。外殻を叩く。
インセルムジュが叫び声を上げ、衝撃波が放たれた。
だがそれはもはや、鬼神のような形相になったこの少年を止めるための何の役にも立ちはしなかった。
響け。
凄まじい一撃に、外殻にひびが入る。
響け。
中まで。
「アルマーク」
不意に、モーゲンの声がした。
弱々しいがはっきりとしたその声に、アルマークは振り向く。
モーゲンは苦しそうな表情で、それでも上体を起こしていた。
「モーゲン、怪我は」
「分からない」
そう言いながら、モーゲンは地面を指差した。
「アルマーク、思い出して。クラン島の、骨」
それだけで十分だった。
二人の間にそれ以上の言葉は要らなかった。
アルマークはマルスの杖を地面にかざした。
強い魔力が、地面に染み渡っていく。
ずぶり、とインセルムジュの脚が地面に沈んだ。
巨虫の足元が全て、泥に一変していた。
動こうとしたインセルムジュは泥に足を取られてもがいた。
無数の脚を蠢かせて泥から出ようとするが、アルマークに散々殴られた後で、その動きには力がなかった。
泥掴みの術。
足元を泥に変えて相手の動きを封じる魔法。
確かに、クラン島で骨の舞を封じたこの魔法であれば、外殻に触れる必要はなかった。
しばらくインセルムジュは泥から出ようともがいていたが、やがて諦めたように動きを止めた。
「殺す必要はないよ、アルマーク。それでいい」
モーゲンはそう言って、アルマークに手招きをする。
「ごめん。僕が余計なことをしたばっかりに」
「それはいいんだ」
言いながら、アルマークはモーゲンに駆け寄った。
息を吸うと、再び毒々しい甘さが襲ってくる。
強烈な匂いに、身体がよろける。
「大丈夫かい、アルマーク」
モーゲンは自分も辛そうにアルマークを見た。
「僕はまだ動ける」
アルマークは答えた。
「でも、急ごう」
この毒にはきっと個人差がある。
モーゲンにもそれは分かった。パイの効果が切れかかっていることはモーゲンも変わらないが、まだアルマークほどに毒の影響を受けていない。
きっと僕の方が耐性があるんだ。
だが、モーゲンは先ほどの衝撃波で足を負傷していた。
僕がアルマークの指示を守らなかったばかりに、かえってアルマークに迷惑をかけてしまった。
一瞬、後悔と自己嫌悪に身を委ねてしまいそうになるが、今はそんなことよりもやるべきことがあった。
反省するのは後だ。
モーゲンは自分に言い聞かせる。
この後でまだ覚えていたらの話だけど。
それから足に力を入れようとして、激痛に顔をしかめる。
やっぱりだめか。
それならそれで、仕方ない。
モーゲンは頭を切り替えた。
動けないんだったら、ここで済ませてしまえばいいじゃないか。
「アルマーク、袖からベリーを出して」
舌は大丈夫。さっきから、口の中の血の味がしっかりと感じられるから。
この舌さえあれば、僕はまだアルマークの役に立てる。
「フォーンベリーを見付けるよ。それで材料は揃う」
「分かった」
アルマークは苦しそうに袖に手を突っ込む。
「頼む、モーゲン」
「任せて」
モーゲンは頷いた。




