友達
巨虫インセルムジュ。
矢も槍も通さなそうな外殻と、その下で蠢く何本もの太い脚。
奇妙な形の棘が無数に生えた右半身と、すべすべの磨かれた鋼球のような左半身。頭部には丸太のような太い角が一本屹立し、その下の口からは鋭い牙が覗いていた。
緑のベルデが気を付けろと言うわけだ。
アルマークは巨虫を冷静に観察した。
他の魔物とは、明らかに格が違う。
その鋼色に鈍く光る分厚い外殻が、アルマークの北の記憶を呼び起こす。
ガレット重装傭兵団。
絶対的エース“陸の鮫”アンゴルを擁するあの傭兵団の戦士たちも、そう言えば皆、あんな色の分厚い鎧を身にまとっていた。
ならば、対処の方法は父さんから習っている。
完全に地中から姿を現したインセルムジュの赤く光る目が、ぎょろりと動いてアルマークとモーゲンの姿を捉えた。
「こっちを見てるよ」
モーゲンが震える声で言った。
「な、なんだか怒ってるみたいに見える。なんでだろう」
「怒ってる、か」
アルマークは自分たちが背にするユキメイズミの木にちらりと目をやる。
「そうか、なるほど」
「何がそうか、なんだい」
モーゲンはインセルムジュを凝視したままで、隣のアルマークに言う。
「僕にも教えてよ」
「甲虫って樹液を好むじゃないか」
「ああ、うん」
「だから、この木はきっとこいつの縄張りなんだよ」
「え?」
モーゲンは思わず背後のユキメイズミを振り返り、その幹からなおも流れ続ける蜜を見た。
「ああ、そういうことか」
モーゲンは青ざめた顔に諦めの表情を浮かべる。
「この木の蜜は、全部こいつの物ってことだね。自分の大事な蜜が、知らないやつらにこっそり食べられそうになったら、それは怒るよね」
それから、ぽそりと付け加える。
「気持ちは分かるよ」
「気持ちが分かっても、僕たちもこの筒の分だけは返すわけにはいかない」
アルマークは手に持つ筒を見た。
「まだフォーンベリーの選別も残ってるしね。こんな頑丈そうな魔物の相手はまともにしていられない」
「うん、そうだね」
モーゲンは頷き、そこで不意に鼻をひくつかせる。
「ああ、アルマーク。やっと僕にも君の言っていたことが分かったよ」
「え?」
「匂いさ。この森の甘い匂い」
モーゲンは顔をしかめた。
「確かに、さっきよりも強くなってる」
「君もか」
アルマークは頷く。
ベルデのパイの効果は、確実に弱くなっている。
「いよいよ時間がないな。よし」
アルマークはマルスの杖を構えた。
「インセルムジュは僕が引き付けるよ」
そう言いながら、そっとモーゲンを見る。まだ汗はひいていないが、もう息はほとんど整っている。
これなら、まだしっかり走れそうだ。
アルマークは蜜の入った筒をモーゲンに手渡す。
「モーゲン。僕が合図したら君はその筒を持って、元来た方へ走るんだ」
「え」
モーゲンは目を見張った。
「君一人でこいつの相手をするのかい」
「うん。大丈夫だ」
アルマークは一瞬の躊躇もなくそう答えた。
「任せてくれ」
「分かった」
モーゲンは頷く。
魔物の相手は、アルマークの専門だ。魔力も使い果たしつつある自分がここで何かしようとしても、アルマークの邪魔にしかならないだろう。
「お願いするよ」
モーゲンがそう言ったとき、インセルムジュの頭がぐっと下がった。
丸太のような角が、二人に付きつけられる。
ぐねぐねと蠢いていた脚が、全て一斉にぴたりとその動きを止める。
「来る」
アルマークは言った。
「モーゲン、ユキメイズミの後ろに回って」
「う、うん」
モーゲンが木を回り込むように動き始めた時だった。
インセルムジュが二人に向かって突進してきた。予備動作もないのに、凄まじい速度だった。
「ひっ」
モーゲンは転がり込むようにユキメイズミの後ろに隠れる。
同時にアルマークも反対側から木の後ろに滑り込んでいた。
身をすくめてインセルムジュが木にぶつかる衝撃に備えたモーゲンは、木がぴくりとも揺れないことに驚く。
「あ、あれ?」
「ぶつかる直前でぴたりと止まったんだ」
アルマークが、まるで木の向こうが見えているかのような口調で言った。
「止まったの?」
モーゲンはアルマークの顔を見る。
「どうして?」
「あいつはこの木を傷つけられないからさ」
アルマークは答える。
「蜜の供給源だからね」
「そうか、なるほど」
モーゲンはほっと息を吐く。
「大事な蜜を出す木を、そりゃ自分で倒しちゃうわけにはいかないよね」
だが木の向こうではがさがさという嫌な音が聞こえてくる。続いて、かりかりと幹を引っかくような音も。
「蜜を舐めてるぞ」
アルマークは呟く。
「これで機嫌が直って、僕らを見逃してくれればいいんだけど」
「そう願うよ」
モーゲンは答えた。
「おいしいものは、みんなで分け合って食べてこそ、本当にそのおいしさが楽しめるんだ。いや、一人分しかないなら話は別だけどね。でもあんなに出るんだから、少しくらい分けてくれたっていいじゃないか」
「あいつが君みたいに素晴らしい奴だったらいいんだけどね」
そう言ってアルマークは微かに表情を緩める。
「でもいつまでもこんなところにはいられない。僕らも動こう」
「うん」
モーゲンは頷いた。時間は限られている。
「僕がこっちから飛び出す」
アルマークは自分が回り込んできた方を指差す。
「あいつが僕に引き付けられたら合図するから、君は反対から飛び出して思い切り走るんだ」
「わ、分かった」
大丈夫だろうか。
モーゲンはごくりと唾を飲んだ。
アルマークはモーゲンを安心させるように微笑む。
「必ず追いつくから、君は振り向かずに走ってくれ」
「うん」
モーゲンは頷くと、息を吸った。
大丈夫。そう言い聞かせる。
「君の言う通りにするよ」
「それじゃ先にいくよ」
まるで気負った様子もなく、遊びにでも行くかのような口調でそう言うと、アルマークが木から飛び出した。
それに反応したのだろう、インセルムジュがけたたましい音を立てて木から離れるのがモーゲンにも分かった。
走り去るアルマークの足音をインセルムジュが追っている。
「来い、こっちだ」
アルマークの声。
その声には全く臆する響きはない。
本当に、アルマークはすごい。
モーゲンは自分の身体が震え始めていることを自覚する。
戦いになると、アルマークはいつも事も無げに指示をしてくれるが、それを実行するときにはモーゲンはいつも震える。
それは夏の休暇での傭兵たちとの戦いでも、武術大会でのコルエンとの戦いでも同じだった。
戦う相手が自分よりも遥かに強大で、怖いから。
震える理由には、もちろんそれもある。
冬の屋敷での傭兵たちとの戦いでモーゲンが震えていたのは、ほとんどそのせいだった。
けれど、その後の色々な戦いを経て、モーゲンは自分が震える理由が変わってきていることに気付いていた。
アルマークの、モーゲンがしくじるなんてまるで思っていないかのような目。
戦いの重要な場所に当然のように自分をぽん、と置いてくれる信頼。
それを感じるとき、モーゲンは自分の胸の内から徐々に身体が震えてくるのが分かるのだ。
もしもしくじってしまったら。アルマークの信頼を失ってしまったら。その怖さも、当然ある。
だがそれ以上に大きいのは、こんなすごい友人が自分の力を信じるのと同じように、僕の力を信じてくれているんだという喜び。
アルマークとあと何回一緒に戦ったら。
モーゲンは思う。
こんな風に震えたりしないで、自然にその隣に立つことができるのかな。
そこまで考えたところで、モーゲンは小さく首を振る。
きっとそんな日は来ないんだろうな。
モーゲンは、インセルムジュの足音とアルマークの声に耳を澄ました。
もうすぐアルマークが僕を呼ぶ。
「モーゲン!」
アルマークの声がした。
「今だ!」
モーゲンは躊躇なく木から飛び出した。
アルマークはすでにインセルムジュをユキメイズミからかなり引き離していた。
モーゲンは自分の前に開いた道をただまっしぐらに駆けた。
アルマークは振り返るなと言ったけれど、それでもちらりと振り返ってしまう。
インセルムジュの突進を、まるでじゃれつく子犬でもいなすかのようにアルマークが捌いていた。
ひらりと身をかわし、すれ違いざまにマルスの杖で外殻を一撃している。
あんな硬そうな殻を持つ巨虫が、ぐらりと揺れたように見えた。
さすがアルマーク。
モーゲンは思った。
これならきっとすぐに追いついてくれるだろう。
そう思って前に向き直ろうとした時だった。
急にアルマークがふらりとよろけた。
さっきまでの動きが嘘だったかのように、その身体さばきが精彩を欠く。
「えっ」
モーゲンは思わず足を止めた。
インセルムジュの突進をかわしきれずに、アルマークの胸から血が舞うのを見た。
その顔が苦しそうに歪んでいた。
毒。
モーゲンは瞬時に悟った。
モーゲンの鼻腔を、甘い香りが衝く。
毒だ。
毒が、アルマークの動きを奪っている。
アルマークが跳躍した。
だが、インセルムジュの長い脚が不意に奇妙な動きをしてその身体を打った。
アルマークの身体が、草の上に投げ出される。
「アルマーク!」
戦いの中で、モーゲンは初めてアルマークの指示に背いた。
考える暇もなく、勝手に身体が動いていた。
杖を振りかざし、モーゲンはインセルムジュに向かって猛然と駆け戻った。
「モーゲン、来るな!」
アルマークの叫び声。
だがモーゲンは止まらなかった。
こんなところで止まるくらいなら、僕はとっくにアルマークの友達でいる資格なんかない。
「わああああ!」
モーゲンは雄叫びを上げた。




