緑の森
聞き慣れない鳥のさえずりで、モーゲンは目を覚ました。
柔らかい土の感触。
枝を大きく伸ばした木が、たくさんの葉をつけて空を覆い隠している。
森。
僕は、森で寝転んでいる。
でも、ここは学院の森じゃないな。
そこまでぼんやりと考えてから、モーゲンは、はっと身体を起こした。
そこで状況がはっきりとした。
いつの間にか、見知らぬ森の中に倒れている。
先ほどまでいた原っぱも、ベンチも椅子も、石の魔術師緑のベルデの姿もない。
口にしたパイとハーブティーの味はまだ口に残っていたが、もうその匂いは森の生ぬるい空気の中には嗅ぎとれなかった。代わりに、何か別の甘い香りが漂っている。
モーゲンは自分が左手に杖を握っていることを確かめると、立ち上がった。
「アルマーク」
モーゲンは親友の名を呼んだ。
「アルマーク、どこだい」
緑のベルデにここへ飛ばされる寸前、確かにアルマークと腕を伸ばし合って、はぐれないように手を繋いだはずなのに。
見える範囲のどこにも、アルマークの姿がない。
「アルマーク」
モーゲンがもう一度呼んだ時だった。
近くの茂みががさりと動いた。
「アルマークかい」
ほっとしてそちらに歩み寄りかけて、モーゲンは慌てて足を止めた。
茂みから姿を現したのは、彼が想像もしなかった気味の悪いものだった。
頭も、手もない。
動くたびにぶよぶよと揺れるその身体から伸びているのは、無数の細い菌糸。
それは、どこからどう見ても巨大なキノコとしか呼べないものだった。
「うわわ」
モーゲンは後ずさる。
ちょうどモーゲンと同じくらいの背丈の巨大キノコは、茂みから完全に姿を現すと、脚もないのに意外な素早さでモーゲンに向かってきた。
「く、来るな」
モーゲンはとっさに杖を突き出した。
巻き起こった風がキノコの身体を吹き飛ばす。キノコは茂みの低木の上に仰向けに倒れた。
モーゲンの目にも、キノコの身体に取り込まれている倒木の切れ端のようなものが見えた。
あんな化け物に捕まったら、僕もあの倒木みたいになるぞ。
何事もなかったかのようにむくりと起き上がったキノコに向けて、モーゲンは杖を構えた。
キノコがまた身体を揺らしながら近付いてくる。
毒々しい赤い傘と、白い柄。傘の裏側のひだにところどころのぞく緑の斑点。
「お前、絶対食べられないキノコだろ」
モーゲンは杖の先端に魔力を込めた。
「そんなやつに、僕は用はないよ」
風切りの術。
杖から発された鋭い空気の刃が、キノコの化け物をすぱりと縦半分に切断した。
「よし」
モーゲンはほっと息を吐く。キノコはどさりと音を立てて地面に倒れた。
「どんなもんだい。こう見えても僕はノルク魔法学院の」
そんなことを言いかけたモーゲンの言葉が途中で途切れる。横倒しになったキノコの切断面からにゅるにゅると菌糸が伸び始めたからだ。
「えっ」
菌糸は近くの草を巻き取ると、それをずるずると吸い込んでいく。
鮮やかな緑色をしていた草はたちまちにその色を失い枯草のようになってしまった。そしてその分キノコの身体は膨れ上がる。
半分に切られたキノコそれぞれが同じように切断面から菌糸を伸ばし、周囲の植物から養分を吸収して大きくなっていく。
「え、ちょっと嘘でしょ」
モーゲンが呆気に取られているうちに、キノコはたちまちさっきと同じ大きさの二つのキノコとなり、それぞれが元通り立ち上がった。
「増えちゃった」
モーゲンはじりじりと後ずさる。
「切ってほっといたら勝手に増えてくれるキノコなんて、おいしいやつだったら最高だけど」
そう呟きながらモーゲンは、今度は強く燃え盛る炎をイメージする。
さざ波通りの焼き料理がおいしい店くらいの火力だ。
「毒キノコだったら迷惑なだけじゃないか」
モーゲンの杖から炎が噴き出した。
炎は一直線にキノコたちに向かって伸びる。
キノコたちは簡単に燃えた。
自分の身体に火が付くと、キノコは身をよじるようにして苦しみ、その身体を萎ませていく。
「よし」
二体の化け物キノコが折り重なるようにして地面に倒れると、モーゲンはようやく息をついて杖を下ろした。
鼻をひくつかせてキノコの燃える臭いを嗅いでから、モーゲンは顔をしかめて首を振る。
「ああ、やっぱりだめだ。これ、クラゲマツカサモドキと似た臭いがする。絶対食べちゃいけないやつだ」
そう言って頷き、モーゲンはキノコの燃えかすから距離を取った。
「それにしても、アルマークはどこに行ったんだろう」
改めてぐるりと周囲を見まわす。
「……緑の森」
さっき、緑のベルデはそう言っていた。ここはきっとその森なんだろう。
木々も草も、モーゲンの知っている南の森と似ているようでいてどこか違う。
その証拠に、モーゲンはここに生えている植物の名前を一つも挙げることができない。
バイヤーがこの場にいたら、きっと歓喜の大声を上げて地面に這いつくばり始めることだろう。
それに。
モーゲンはローブの袖で鼻を押さえた。
さっきからずっと漂っている、この甘い香り。
甘いものが好きなモーゲンにも分かった。
これは、食べてもいい甘さじゃない。きっと、奥に毒を忍ばせた甘さだ。
ベルデが言っていた、緑の森の毒。
それがきっとこの香りのことなのだろう。
できるだけ吸わない方がいいな。
それにしても、アルマークはどこに行ったんだろう。
モーゲンがそう考えて化け物キノコの燃えかすに背を向けた時だった。
燃えかすの中から、しゅるしゅると菌糸が伸びた。
菌糸は、地面を這うようにしてモーゲンの足元に伸びていく。
と、突如横から出現した何かが菌糸を包み込んだ。
「表面だけ焼いても、中に火が通ってないってことがよくあるからね」
モーゲンはそう言って振り返った。
「まあ、そんなことだろうと思っていたよ」
光の網に捕らえられてぐねぐねと動く菌糸をモーゲンは残念そうに見た。
「本当に残念だよ。君がおいしかったらね。多少動くことくらいは目を瞑るんだけど」
モーゲンはキノコの燃えかすにもう一度杖を向けた。
「僕もこの森には長居するつもりはないんだ。その間だけ、ちょっとじっとしていてくれると助かるな」
次の瞬間、杖から水が噴き出す。
湧水の術。
モーゲンはキノコの燃えかすにたっぷりの水をかけると、今度はそれを冷やしていく。
霜下ろしの術。
キノコの身体に白い霜が降り始めると、光の網の中で蠢いていた菌糸たちの動きが目に見えて鈍くなった。
やがて、霜が完全にキノコを包み込むと菌糸もその動きを止めた。
「ふう」
モーゲンは息を吐いて、それからキノコからさっきよりも大きく距離を取る。
「さすがにもう大丈夫だと思うけど……とりあえずここから離れよう」
その時、キノコの出てきた方とは反対側の茂みががさりと揺れた。
「今度はこっちから?」
モーゲンが慌てて杖をかざすと、茂みから顔を出した人物が目を丸くした。
「うわ、モーゲン。僕だ。撃たないでくれ」
「ああ、アルマーク」
モーゲンはほっと息を吐いて杖を下ろした。
「よかったよ。はぐれちゃったかと思った」
「うん、僕もだ。君で良かった」
そう言いながら、アルマークは茂みから自分のローブを窮屈そうに引っ張り出した。
「僕は向こうの茂みの中で目を覚ましたんだ。そうしたら、こっちから焼けたような臭いが漂ってきたから」
「そうなんだよ」
モーゲンは巨大キノコを振り返る。
「さっそく、あんな魔物に襲われたよ」
「化けものキノコか」
アルマークは目を見張る。
「よく倒せたね」
「なんとかね。アルマーク、北にもあんな魔物はいないだろ?」
「ああ、いないね」
アルマークは頷いて巨大キノコをじっと見つめる。
「あれがパイの材料ってことはないよね」
「まさか」
モーゲンは首を振る。
「緑のベルデは、ユキメイズミの蜜とフォーンベリーの実って言ってたじゃないか。少なくともあんなクラゲマツカサモドキもどきみたいなキノコのわけはないよ」
「そうか」
アルマークは頷いて、マルスの杖を一振りした。
その動きにモーゲンは少し違和感を覚える。
「それじゃあ、探しに行こうか」
アルマークの言葉にモーゲンは頷いた。
「うん。早く見つけないと、パイの効果が切れちゃうかもしれないからね」
「緑の森の毒って、この匂いのことかな」
アルマークが鼻をひくつかせる。
「甘い匂いだね」
「うん、僕もそう思うんだ。この匂い、あんまり良くない気がするよ」
「君がそう言うなら、そうなんだろうね」
アルマークは頷く。
二人は並んで森を歩き始めた。




