パイ
アルマークとモーゲンが並んでベンチに腰を下ろすと、緑のベルデは満足そうに微笑んだ。
「さあ、召し上がれ」
二人の前に、湯気を立てたパイが一切れずつ置かれる。
立ち上る甘い香りに、モーゲンがごくりと唾を飲む。
「僕が先に食べてみるよ」
アルマークは言った。
「もしも毒か何かが入っていたら、君に治療をお願いする」
「入ってないわよ、毒なんて」
ベルデが微笑む。
「失礼な子ね」
「あなたの意図が分からない」
アルマークは答えた。
「僕らにパイを食べさせて、どうしたいのか」
「だから、言ってるでしょ」
ベルデは笑顔のままで答える。
「冷める前にお食べなさいって。そうすれば、分かるから」
アルマークはベルデの顔に鋭い一瞥を投げた後で、隣のモーゲンを見る。
「それじゃ、僕が食べるよ」
「うん」
頷いたものの、モーゲンは今にも涎を垂らしそうな顔で、自分の目の前のパイを見る。
「ねえ、アルマーク」
「ん?」
「僕が先に食べるんじゃだめかい」
モーゲンの目はパイに釘付けになっている。
「ほら、その、どっちが先に食べてもいいんじゃないかな」
「解毒の魔法は、僕よりも君の方がうまいと思うんだ」
アルマークは答えた。
「もし君が苦しんでも、僕の魔法じゃうまく治せないかもしれない」
「ああ、それはそうかもしれない。僕も苦しむのは嫌だよ」
モーゲンは頷いて、それでもパイをじっと見つめる。
パイの断面から覗く赤紫の果実を見て、ああ、これってフルベリーだな、甘そうだ、と呟く。
「モーゲン」
アルマークが声を上げる。
「えっ」
モーゲンは目を丸くして動きを止めた。
「だから、僕が先に食べるって言ったじゃないか」
アルマークの言葉に、モーゲンは自分がいつの間にかパイを持ち上げて口に運ぶ寸前だったことに気付く。
「ああ、ごめん」
モーゲンは渋々パイを皿に戻す。
「手が勝手に」
「君が待てなくなる前に、食べるよ」
アルマークはそう言ってパイを持ち上げると、無造作に一口齧った。
確かめるように、もぐもぐと口を動かす。
「どうだい」
モーゲンが尋ねると、アルマークは、うん、と頷く。
「悪いものは入っていないように感じるね」
味の良し悪しについてはまるで分からないアルマークだったが、過酷な旅の中で、食べてはいけないものの味だけは感じ分けられるつもりだった。
「舌が痺れたりはしない」
「おいしいかい」
「甘いよ。果物と蜜が入ってる」
それを聞いてモーゲンが、はあ、と切ない溜息を漏らす。
アルマークはいつもよりはるかに時間をかけて咀嚼すると、それを飲み込んだ。
「……うん」
アルマークは頷く。
「大丈夫そうだ」
「よし」
モーゲンは頷くのももどかしそうに、パイを手に取った。
「食べるよ。いただきます」
そう言うや否や、モーゲンはパイにかぶりついた。
「うわ」
モーゲンの目が輝いた。
「何だ、これ。おいしい」
一口食べた後に手を止めたアルマークが見守る中、モーゲンは凄い勢いでパイを食べていく。
「甘みと酸味が、絶妙で」
もぐもぐと口を忙しなく動かしながら、モーゲンはベルデを見た。
「すごくおいしいです」
「それはよかったわ」
ベルデは笑顔で頷く。
「やっぱり焼き立てじゃないとね。効果がないのよ」
「効果?」
アルマークが聞き咎める。
「何の話ですか」
「さあ、あなたも残りをちゃんと食べなさいな、冷めないうちに」
ベルデはアルマークの質問に答えず、彼の一口だけ齧ったパイを指差す。
「それだけじゃ足りないのよ」
「足りないって、何が」
「食べよう、アルマーク」
モーゲンが口いっぱいにパイを頬張りながら言う。
「要らないなら、僕が食べるよ」
「あなたの分はそれで終わりよ」
ベルデが穏やかに釘を刺す。
「食べ過ぎてもいけないわ」
「ええ、そんなぁ」
モーゲンは残念そうな顔をしながらも、パイを齧る。
「あれ、フルベリーじゃないベリーが混じってる。何だろう、このベリー」
「あら。味覚が鋭いのね」
ベルデがわずかに目を見張る。
「フォーンベリーの味に気付くなんて」
「フォーンベリー?」
モーゲンは眉を寄せる。
「僕の聞いたことのないベリーだ。でも、すごくおいしい」
「ほら、アルマーク。あなたも」
ベルデはアルマークを促す。
「本当に、冷めてしまうわ」
アルマークはしばらく釈然としない顔でベルデとパイを交互に見つめていたが、やがて幸せそうにパイを頬張るモーゲンを見て決心を固めた。
「モーゲン。食べ物のことは、君に従う」
アルマークはそう言うと、パイを齧った。
「どうぞ」
二人の前に、また嗅ぎ慣れない匂いのハーブティーが出された。
「それでも飲んで、少し待っていて」
「待つ?」
アルマークは、おいしそうにお茶をすするモーゲンを横目に、ベルデを見上げた。
「何をです」
「効果が出てくるのを、よ」
ベルデは当然のことのように言う。
「そのために、あなたたちに冷める前にパイを食べてもらったんだから」
「さっきから、あなたの言うことは分からない」
アルマークは立ち上がろうとした。
「何が狙いなのか」
ベンチから腰を浮かせ、そう言いかけた時だった。
「うっ」
思わず声が漏れた。アルマークは身体の中から湧き上がる異常な感覚に気付いた。
「これは」
額に汗が滲む。
身体の内側が、燃えるように熱い。
「やっぱり」
アルマークは喘いだ。
「あのパイに何かを仕込んでいたのか」
「ど、どうしたの。アルマーク」
驚いた顔でお茶のカップを置いたモーゲンも、自分の身体の異変に気付いて叫ぶ。
「わっ、何だこれ。体が熱い」
「私の試練には、必要な手順なの」
ベルデはあくまで穏やかにそう言うと、ゆっくりと両手を掲げた。
「あなたたちの食べたパイに入っていたのは、ユキメイズミの蜜とフォーンベリーの実。それは、私の管理する緑の森でしか獲れないわ」
その手の中に、魔力が凝縮していく。
「緑の森は、とても毒素の強い植物たちの森。棲んでいる魔物も恐ろしいものばかりだわ。けれどあなたたちは今、私のパイを食べたから、しばらくの間は毒に耐えられる」
「何を言っているんだ」
アルマークは汗の滲む顔でベルデを睨み、マルスの杖を構えた。
「僕たちを罠に嵌めたな」
「罠ではないわ」
両手を掲げたまま、ベルデは首を振る。
「とても物騒なものを持っているのね。それを見るのはいつ以来かしら」
ベルデの目がマルスの杖に向けられていた。その言葉にアルマークは思わず動きを止める。
「鍵の護り手。そんな強い力を与えられた者が、いたずらにうろたえてはいけないわ」
ベルデは諭すような口調で言った。
「緑の宝玉が必要なのでしょう、あなたたちの大事なお友達を救うために」
その緑の瞳が、アルマークを映す。
「けれど、あなたたちに事情があるように、私にも私の事情がある。契約が交わされた以上、私も何もせずに石に戻ることはできない」
ベルデの表情に、一切の敵意はない。アルマークにもそのことがはっきりと分かる。
それがかえって悔しかった。
くそ。こんなことをしている時間はないのに。
アルマークの脳裏を、目を閉じて草原に横たわるウェンディの姿がよぎる。
ウェンディ。ごめん。必ず君を助けるから。もう少しだけ待っていてくれ。
アルマークは燃えるような感覚に耐えながら、ベルデの言葉を聞く。
「だから、私はあなたたちに試練を与えます」
ベルデは言った。
「緑の森で、あなたたちが食べたものと同じ、ユキメイズミの蜜とフォーンベリーの実を手に入れなさい。そうすれば、私は石に戻ってあげる」
ベルデの魔力が、緑の光となってアルマークとモーゲンを包んだ。
どこかに飛ばされようとしている。
アルマークはモーゲンを見た。
モーゲンも頷いて、ベルデを見る。
「僕らをどこへ飛ばす気なの」
「さっき言ったでしょう。緑の森よ」
ベルデは答えた。
「気を付けてね。あなたたちの食べたパイは緑の森の毒を防ぐけれど、その効果はそこまで長くはないわ。森の魔物の中でも、インセルムジュには特に注意を」
緑の光が大きくなり、二人の視界は霞んでいく。
「モーゲン。はぐれないように、手を」
アルマークは手を伸ばした。
「うん。僕はここだよ」
モーゲンの返事はすぐ隣から返ってきた。アルマークがその丸っこい手を掴んだとき、光が弾けた。
急激な浮遊感の中で、アルマークの意識は遠ざかった。




