緑のベルデ
小さな原っぱの奥の、パイが置かれたテーブルとベンチ。
その前で、アルマークたちに向かって手を振る深い緑色の髪の女性。
「手を振ってる」
モーゲンが呆気にとられたようにアルマークを振り返る。
「あの女の人、僕らに手を振ってるよ」
「うん」
頷くアルマークの表情は厳しかった。
「油断はしちゃだめだ」
緑色の髪。緑色の長衣。遠目ではっきりとしないが、その瞳も緑色に輝いているように見える。
分かりやす過ぎるくらいに分かりやすい。
「モーゲン、きっとあれが緑の石の魔術師だ」
「うん。どう見てもそうだよね」
モーゲンも同意したが、それでもその声には戸惑いが滲む。
「だけど、僕の予想していたのとちょっと違うんだけど」
モーゲンは困った顔でアルマークを見た。
「僕はさ、もっと、ほら。冬の屋敷で襲ってきた北の傭兵とか、夜の薬草狩りのときのボラパみたいに、こう、いかにも問答無用で敵っていう感じの、そういうのが待ってると思ったんだ。悪そうで、強そうで」
モーゲンは杖を持った腕をぶんぶんと振って、自分の戸惑いを表現した後で、また困ったように原っぱの向こうに目を向けた。
「だからあんな感じで待たれちゃうと、ちょっと調子が狂うっていうか」
緑の髪の女性は、まだにこにこと笑顔で手を振っていた。
その年齢は、アルマークたちの担任のフィーアよりもやや上に見える。
治癒術教師のセリアと同じくらいだろうか。
「そんなところに立ってないで」
女性がアルマークたちにそう言った。優しそうな声色だった。
「早くこっちにいらっしゃい。パイが焼けているわよ」
「どうしよう、アルマーク」
モーゲンが眉を寄せる。
「あの人は、敵なのかい」
「敵がいつも恐ろしい姿をしているとは限らないよ」
アルマークは答えた。
手に持つマルスの杖をしっかりと握り直す。
「顔で笑っているからって、心の中までそうとは限らない」
裏切り。騙し討ち。そんなものは北では日常のことだった。
裏切り者は、裏切り者の顔をしねえ。
思い出す、父の言葉。
それと同じだ。
アルマークは、鋭く息を吐いて気を引き締める。
敵の顔をしない敵だって、たくさんいる。
「行こう、モーゲン」
アルマークはそう言うと先頭に立った。
「気を抜いちゃだめだ。あの姿、緑の石の魔術師に間違いはないんだから」
「うん」
「さっさと倒して、ウェンディを助けないと」
「そうだね」
モーゲンも気を取り直したように頷くと、アルマークの後に続く。
「ほら、早く」
女性は近付いてくる二人を見て、嬉しそうに笑顔で手招きをした。
「パイが冷めちゃうわ。急いで」
だがアルマークは、パイの置かれたテーブルまでたどり着く前に足を止めた。
後ろのモーゲンがその背中にぶつかりそうになってつんのめる。
「どうしてそんなところで止まるの」
女性は笑った。
「あなたたち、そんなに手は長くないでしょ。パイに届かないわよ」
「パイは要りません」
女性から目を離すことなく、アルマークは言った。
「僕たちは、パイを食べに来たわけじゃないから」
「あら」
女性が目を見張る。
「そうなの。それなら、どうしてここに来たの?」
心底不思議そうな顔で、そう尋ねてくる。
「大事な友達を助けるためです」
アルマークは答えた。
「その友達を救うためには、緑の宝玉が必要なんです」
そう言うと、アルマークは女性の顔を睨むように見据えた。
抑えきれない殺気がこぼれる。
「あなたは緑の石の魔術師ですね。石に戻ってもらう」
「ほら、やっぱりそうじゃない」
女性が朗らかに笑った。
「やっぱり、あなたたちはパイを食べに来たんじゃないの」
「いや、だから」
アルマークは彼にしては珍しく、少し声を荒げた。
「僕らはここに食事をしに来たわけじゃない。大事な友達の命を救うために来たんだ」
「だから」
女性の笑顔が大きくなった。
「その子の命を救いたいのなら、このパイを食べる必要があるのよ」
「え?」
今度はアルマークが目を見張る番だった。
「それは、一体どういう……」
だが女性はアルマークの質問には答えなかった。
不意に、どこからともなく現れた鋭いナイフがその手に握られる。
女性はテーブルに歩み寄ると、それでパイを切り分け始めた。
ざくり、ざくり、という音とともにパイから湯気が上がる。
香ばしい匂いが辺り一帯に立ち込め、アルマークの背後でモーゲンが生唾をごくりと呑み込んだ。
「あなたたち」
パイに目を落として手を動かしながら、女性が言った。
「名前は?」
「アルマークです」
「僕は、モーゲン」
二人が名乗ると、女性は小さく頷く。
「アルマークとモーゲンね」
女性は大きくカットしたパイを二切れ、小皿に載せた。
「私の名は、緑のベルデ」
そう言うと、女性は顔を上げて二人を見た。やはりその瞳は髪同様、緑色に輝いていた。
「あなたたちの言う通り、緑の石の魔術師よ」
「やっぱり。それなら」
アルマークがそれ以上言う前に、ベルデは手を差し出した。
「さあ、パイが冷める前にここにお座りなさい。さもないと、間に合わなくなるわよ」
「間に合わないだって」
不穏な言葉に、アルマークが眉をひそめる。
「それは、どういう意味だ」
「アルマーク」
アルマークの背後にいたモーゲンが、彼の前に出た。
「行こう。席に着こう」
「モーゲン。でも」
「時間がもったいないよ。あの人の言う通り、切っちゃった後のパイは冷めるのがすごく早いんだ」
「いや、今はパイの話はしていないよ」
「あの女の人は、さっきからパイの話しかしてないよ」
モーゲンはベルデを見た。
「きっとパイが何か大事な意味を持ってるんだ。それとも、アルマーク。あの人にいきなり魔法をぶつけるかい」
「それは」
アルマークは答えに詰まった。
目の前で笑顔を浮かべる女性を見る。
少しでも敵意を見せてくれば、アルマークは容赦なく魔法を叩きこんで戦いを始めていただろう。最初からそのつもりだった。無駄な時間を使う気はさらさらなかった。
だが、この遭遇の仕方は全くの想定外だった。
全く敵意を見せず、それどころか笑顔でパイを勧めてくる女性にいきなり攻撃を仕掛けることは、アルマークにはできなかった。
父には、やはり甘いと言われるだろうか。
「できないでしょ、そんなことは君には」
モーゲンは微笑んでアルマークを見た。
「僕にもできない。だから、テーブルに着こう。パイが冷める前に」
パイが冷める前に。
モーゲンが口にすると、その言葉にまるで何か重大な意味が秘められているような気がしてくる。
「分かった」
アルマークはゆっくりとマルスの杖を下ろす。
「食べ物を前にしたら、やはり僕は君に従うべきだな」
そう言うと、モーゲンの隣に並んだ。
「行こう。パイが冷める前に」




