匂い
森の中をまっすぐに続く道をひたすらにたどっていくと、徐々に視界が広くなってきた。
高い木の数が減り、アルマークたちの背丈くらいまでの低木が増えてきたのだ。
やがて、背の高い木はすっかり姿を消し、低木と茂みばかりの中を歩くことになった。
道は途切れることなく続いているが、太陽を遮っていた木がなくなったせいで、強い日差しがアルマークとモーゲンの上にさんさんと降り注いでいた。
「ああ、暑い」
モーゲンがそうぼやいてローブの袖をまくる。
「もう。お昼までは冬だったのに、いきなりこんな季節になるんだから。今日は試験の待機時間に寒くないようにちゃんと着込んできたのに」
「そうだね」
アルマークは頷いてモーゲンの背中を見る。
ローブにも汗が滲んでいる。既に全身にじっとりと汗をかいているのだ。
「汗をかいてるね、モーゲン。少し休むかい」
「まさか」
モーゲンが目を丸くして首を振る。
「ウェンディがあんな風にされちゃったのに、休んでなんかいられないよ」
セラハとバイヤー、キュリメの三人と途中の分岐で別れてから、もうだいぶ歩いていた。
どこまでも続くかと思われた森林がようやく少しずつ様相を変え始めている。
「周りの景色が変わってきた。緑の石が近いのかもしれない」
アルマークは冷静に言った。
「休むなら、今のうちだと思ってね」
その言葉にモーゲンは足を止めずにアルマークを振り返り、まじまじとその顔を見つめた。それからため息交じりに首を振る。
「さすがだなぁ、アルマークは」
「え?」
アルマークはきょとんとする。
「何がだい」
「だって、ウェンディがあんなことになって、出発の時の君はすごく殺気立っていたじゃないか」
「殺気立っていたかい」
「うん。すごく殺気立ってた。鳥肌が立つくらいにね」
モーゲンは捲り上げた二の腕をアルマークに示す。
今はもうそこには鳥肌など影も形もなく、汗でじっとりと湿っているばかりだ。
「だから心配だったんだ。君とウェンディのことは僕も知ってるし、あのライヌルっていう魔術師に何をされたのかも知ってるから。君が一人で突っ走っちゃってもおかしくないと思ったし、もし本当に君が走っていっちゃったら」
そこまで言って、モーゲンはにこりと笑う。
「どんなに僕が走って追いかけても、絶対に追いつかないな、と思ってね」
「何だい、その心配は」
アルマークは苦笑する。
「僕が君を置いて走っていくわけないじゃないか」
「うん。そうなんだけどね」
モーゲンは頷く。
「でも、そうしてもおかしくない雰囲気だった。ほんとだよ」
「君がそう言うなら、そうだったんだろうね」
アルマークは素直に認める。
「ウェンディが傷つけられるのは、耐えられないんだ。自分が傷つくことなんかよりも、ずっとずっと」
「うん。分かるよ、君の気持ちは」
モーゲンは頷いて、前に向き直る。
「だから僕は、君をどう落ち着かせようかとか、どう抑えようかとか、柄にもなくそんなことを色々と心配してたんだよ」
「ごめん」
アルマークはモーゲンの背中に謝った。
「気を遣わせたね」
「僕が勝手に思っていただけさ」
モーゲンはそう言うと、アルマークを肩越しに振り返って微笑む。
「でも君は、僕が思ったよりもずっと落ち着いてたね」
モーゲンは丸っこい両腕を広げた。
「ほら。こうやって僕に先頭を歩かせてくれるくらいには」
「それは君がいてくれたからだよ、モーゲン」
アルマークは言った。
「僕一人だったら、きっと」
自分一人だけだったとしたら、僕はどうしただろうか。
アルマークは考える。
全部の石を、自分一人で集める。そんなできもしないことをしようとしていたかもしれない。
ウェンディの命を諦めるという選択肢は、アルマークの中にはない。そうするくらいなら、アルマークは自分の命を捨てる。それと引き替えにウェンディの命を救う。そんな覚悟はとっくの昔にできていた。
けれど、自分の命を捨てたところで九つの石を集めることなどできはしないだろう。そして、それが分かっていてもなおアルマークは歯を食いしばって走るのだろう。
孤独な戦い。
だが、今はその必要がない。
冬の屋敷で。
図書館で。
泉の洞穴で。
夜の森で。
魔術祭で。
クラン島で。
この一年間、アルマークは自分の仲間たちの頼もしさを目の当たりにしてきた。
危機のたびに身の程知らずの心配をして、逆に仲間の強さに助けられてきたのだ。
今日もウェンディを心配するあまり、それを忘れそうになった。
逸るアルマークを引き留めてくれたのは、アインの助言であり、ウォリスの冷静な指示であり、ノリシュの別れ際の言葉であり、そしてモーゲンの存在そのものだった。
「きっと、何だい」
黙ってしまったアルマークを、モーゲンは不思議そうに見る。
「いや」
アルマークは首を振る。
「モーゲン。君がいてくれてよかったよ」
「それはどうも」
モーゲンは笑って前に向き直ると、また両腕を広げた。
「ああ、暑いなあ」
そうぼやくと、足を止めてローブの袖を探る。
「アルマーク。休憩する気は全然ないんだけどね」
「うん」
「ほら。これだけは、溶けちゃうから」
そう言ってモーゲンが取り出したのは、飴玉だった。
「こんなに暑いと、僕が食べる前にローブに食べられちゃう」
モーゲンは自分の口に一つ放り込むと、もう一つの飴玉をアルマークに差し出す。
「アルマークも食べておきなよ」
「いや、僕は」
そう言いかけてアルマークは、朝から何も食べていなかったせいで試験で精彩を欠いてしまったキュリメの姿を思い出す。
魔力の源は生命力。そして生命力の源は食事だ。
「ありがとう」
アルマークは飴玉を受け取った。
すでに表面が少しべたつき始めている。
アルマークは飴玉を口に入れると、ついでにべたついた指をしゃぶった。
口の中に、甘みが広がる。
力になれ。
アルマークは思った。
この甘みが、ウェンディを救う力になってくれ。
「舐めながら歩けるからいいよね、飴は。保存するときも長持ちするし、食べるときも長く味わえるし」
飴玉を褒め称えながら、モーゲンが元気に歩きだす。
「そうだね」
アルマークは言葉少なに同意して、その後に続く。
それからしばらく歩き、口の中の飴玉がすっかり小さくなったころ。
道の先に、小さな原っぱが見えてきた。
「うん?」
モーゲンが犬のように鼻をひくつかせた。
「この匂いは」
「何か食べ物の匂いがするね」
アルマークが言うと、モーゲンは首を振る。
「違う。これはパイだよ。それも、焼き立ての」
「食べ物じゃないか」
「焼き立てのパイは特別でしょ。他の食べ物とごっちゃにしちゃだめだよ」
モーゲンはそう言うと、足を速める。
「あそこにベンチがある」
「本当だ」
アルマークの目にも、原っぱの奥に木製のベンチがあるのが見えた。ベンチの前には、これも木製のテーブルが設えられている。
「まるで休憩所みたいだ」
「そうだね」
モーゲンの言葉に頷いたアルマークは、すぐに低い声でモーゲンを引き留めた。
「気を付けろよ、モーゲン」
「え?」
「ベンチの脇の、低い木の影」
そこに、緑色の髪の毛が見え隠れしていた。
「誰かいる」
モーゲンもそれに気付く。
「緑の髪だ。それじゃあ、あれが」
モーゲンの言葉は途中で途切れた。
木の影から姿を現したのは、女性だった。手にパイの載った皿を持っている。
緑の長衣を着たその女性は、近付いてくるアルマークとモーゲンを見ると、パイをテーブルに置いた。
それから優しい笑顔を浮かべると、手を振ってきた。




