人
金と銀。
美少年と美青年。
ウォリスとフィラックは、氷の壁を挟んで向かい合っていた。
だがその表情は対照的だった。
フィラックは険しい顔でウォリスを睨みつけ、ウォリスは悠然とそれを受け止めている。
「さすが、氷の宮殿などに無駄な魔力を使わなくなると壁も簡単に崩せなくなるな」
ウォリスは余裕綽々にそう言って、氷を崩し続ける自分の闇をちらりと見た。
闇の獣は間断なく氷の壁を砕き続けているが、氷の壁はかえって厚さを増し始めていた。
「壁だけと思うな」
フィラックは言った。
「私がお前の攻撃を必死に防ぎ続けているだけだと、まさかそううぬぼれているのか」
「なに」
ウォリスがわずかに目を見張る。
氷の壁が厚みを増すのと同時に、ウォリスの周囲にも強い冷気が迫っていた。
氷に包まれた地面から、不意に無数の氷の槍が伸びた。
地面からだけではない。フィラックの冷気に包まれた空中からも、突如として鋭い無数の氷の槍が出現した。
その全ての狙いは、ウォリス一人。
彼を取り巻く全方位、あらゆる角度からの同時攻撃だった。
よける術とてない、絶望的な状況。
ウォリスは動かなかった。
動けなかったのではない。動く必要がなかったのだ。
代わりに彼を取り巻く闇の獣たちが躍動した。
一瞬。
瞬き程の一刹那で、ウォリスの強大な闇の力が全ての氷の槍を打ち砕いた。
小さく砕けた氷の破片がウォリスの金髪を揺らす。
「お前が言ったのはまさか、このいじましい攻撃のことか」
ウォリスが笑った。
フィラックは答えない。
険しい顔のままでウォリスを見据えている。
再び、冷気。
無数の氷の槍が出現し、ウォリスを襲った。
「やれやれ」
ウォリスが顎をしゃくると、それと同時に闇が氷を蹂躙する。
自分の周囲でけたたましく鳴り響く氷の砕ける音にまるで頓着せず、ウォリスはため息をついた。
「これなら、アインあたりのほうがよほど気の利いた攻撃をするんじゃないのか」
不意に、氷の槍の一本が闇の獣をかいくぐってウォリスの顔に伸びた。
しかしウォリスはそれを予想でもしていたかのように、素手でひょい、と掴むと、力任せに握り潰した。
開いた手から、ぱらぱらと氷が落ちる。
「魔法で強化しているな、自分の身体を」
フィラックは言った。
その反射神経。剛力。人の出せる力ではない。
「直接自分の身体に魔法をかけたのか」
人体に直接魔法をかけること。
治癒術などのわずかな例外を除いて、それは魔術師の間ではほとんどタブーとされている行為だった。
魔力の量をわずかに誤るだけで、身体に与える影響は計り知れないからだ。
「そうしない理由がないからな」
ウォリスはそう言って微笑んだ。
「お前の攻撃がこの程度と分かった以上、もう付き合う理由もないな」
ウォリスの右腕が振り上げられる。その上腕の傷跡がまた醜く歪んだように見えた。
闇の勢いがさらに増した。
それは、暴風のようだった。
残った氷の槍は全て、たちまちのうちに霧散した。フィラックの眼前、厚みを増していた氷の壁に、闇の獣たちがまるで槍のようになって突っこんでいく。
闇の槍は、一本ではない。二本、三本、四本。
氷の槍を駆逐した闇の獣たちがそこに次々に加わっていく。
その凄まじいまでの破壊力が、氷の壁の復元速度を上回った。
闇の槍はひと塊の巨大な槍のようになってついに氷の壁を貫いた。そのままの勢いで、フィラックに向かってその鋭鋒が伸びていく。
フィラックは身を守ろうと氷の膜のようなものを出したが、すでに手遅れだった。漆黒の槍が、その身体を深々と貫いた。
だが、次の瞬間フィラックの身体は粉々に砕け散った。
フィラックだった氷の破片が飛び散る。
「ふん」
ウォリスは笑う。
「二度も同じ手が通じるか」
フィラックの偽物を貫いた闇の槍が、ぐるん、と弧を描く。
そのまま、空中の何もない空間を貫いた。
「ぐうっ」
飛び散る鮮血。
姿を現したフィラックが地上に降り立った。
その左腕から血が流れている。
「石の魔術師でも、血は赤いのか」
ウォリスは笑う。
「よくできている」
「おのれ」
フィラックが腕を振るった。それに合わせて空中に天を覆わんばかりの巨大な氷塊が出現する。
氷塊は轟音を立ててウォリス目がけて落下していくが、金髪の少年はもはやそれを一顧だにしない。
「分かっているだろう、自分でも」
そう言いながらウォリスが杖を頭上に突き出す。
その杖の先端に、闇の力が凝縮していた。
「こんなもので僕の命を奪うことなど、できはしないと」
巨大な氷塊に杖が突き刺さった。その瞬間、氷塊はまるで風船のように一瞬で弾け飛んだ。
後に破片も残らないほどの破砕だった。
「むう」
フィラックが呻く。
「これくらいで十分か」
ウォリスは微笑んだ。
「そろそろ終わりにしよう」
そう言ってフィラックに向かって足を踏み出そうとした時だった。
「む」
ウォリスが初めて目を見開いた。
自分の両足が、いつの間にか地面から伸びた氷で固められていた。
「これは」
足に力を入れて動こうとするが、氷は鉄のような硬さでびくともしない。
「なるほど」
ウォリスはフィラックを見た。
「槍や氷塊の派手な攻撃は僕の意識を逸らすため。本命は足元だったということか」
「お前ならばかかると思っていた」
フィラックは険しい顔に、わずかに笑みを浮かべる。
「上ばかりを見ているお前ならばな」
「ふん」
ウォリスは笑う。
「分かったようなことを」
「今、ここに私の全力を込める」
フィラックはそう言うと、両手を前に突き出した。
「お前はここで、この私が仕留める。仕留めねばならない」
「こっちは動けぬ標的だ。外すなよ」
ウォリスは不敵に言い放った後で、表情を改めた。
この戦いでウォリスが初めて見せる真剣な表情。
それが、次の一撃がおそらくこの戦いの掉尾となるであろうことを物語っていた。
「来い。フィラック」
ウォリスは言った。
その身体に、闇の獣たちが舞い降りる。
「消えろ、ウォリス」
フィラックが答える。
「その邪悪な闇の力とともに、永遠に」
フィラックの突き出した両手に、凄まじい量の魔力が凝縮されていく。
「僕一人を凍り付かせるのに、どれだけの冷気を込める気だ」
ウォリスが杖を構える。もう、その顔に笑みはない。
「かああっ」
裂帛の気合とともにフィラックが魔力を解き放った。
この世の全てを凍てつかせるほどの冷気が、渦を巻いてウォリスに襲い掛かる。
ウォリスを守るように、闇の獣たちがぐるりと重なり合った。
その姿が変化する。
獣でも槍でもなく、全ての闇が凝縮したそれは一匹の黒龍だった。
黒龍は臆する様子も見せずに、冷気の嵐に突っ込んでいく。
衝撃。
白い嵐と漆黒の龍が真正面からぶつかり合い、凄まじい爆発が起きた。
勝ったのは、黒い力だった。
弾き飛ばされるようにフィラックが宙を舞う。
そのままフィラックは遥か後方の地面に叩きつけられて動かなくなった。
もうもうとした冷気の煙が晴れると、その身体を半ばまで白く染めた黒龍が誇らしげに宙を舞っていた。
「僕の闇を半ばまで凍らせる冷気を放つとはな」
ウォリスは手に込めた魔力で己の足を押さえつけていた氷を壊すと、そう言った。
その息がまだ白かった。
「さすがは石の魔術師第二の実力者というだけのことはある」
闇の龍がぶるりと身震いすると、ウォリスの頭ほどもある大きな氷がばらばらと地面に散る。
「僕は倒せなかったが、その意地は示したな」
穏やかな口調でそう言いながら、ウォリスはフィラックに歩み寄った。
フィラックはうつぶせに倒れたまま動かない。その身体の下の氷に、鮮やかな赤い血が流れていた。
「さあフィラック。敗北を認めて石に戻れ」
ウォリスの声に反応するように、フィラックがわずかに身じろぎした。
そこに流れたごく微量の魔力に、ウォリスが足を止める。
次の瞬間、ウォリスは自分自身と向き合っていた。
「これは」
目の前で、金髪の美少年が眉をひそめて自分を見ている。
ウォリスはゆっくりとその少年に手を伸ばした。彼の目の前のもう一人のウォリスも同じようにウォリスに手を伸ばす。
ウォリスは途中で気付いて微笑んだ。
「氷の鏡、か」
目の前のもう一人のウォリスも微笑む。
それは氷の迷宮で最初にウォリスを出迎えたのと同じ、磨かれた氷の鏡だった。
「これがお前の最後のあがきか、フィラック」
薄く笑ってそれを叩き割ろうとしたウォリスは、不意に手を止めた。
その顔に初めて驚愕の表情が浮かぶ。
鏡の中のウォリスはいつの間にか消え、鏡には別の人物が映っていた。
そこにいたのは一人の女性だった。
すらりとした体型に、目の覚めるような美貌。艶やかな金髪。
限られた者しか着ることを許されぬ豪奢な衣服。
美しく、だが儚げな雰囲気をまとったその女性は鏡の中で、ひどく悲しそうな目でウォリスを見つめていた。
女性がゆっくりと口を開く。
「ウォリス」
その声に、ウォリスが目を見開いた。
口を開いて自分でも何かを言おうとしたが、ウォリスの口からは何の言葉も出てはこなかった。
代わりにウォリスは手を伸ばして鏡の中の女性に近付く。
と、突然女性の身体にひびが入った。
いや、ひびが入ったのは女性ではなく鏡全体だった。
女性が悲しそうにうつむく。
「母上」
ウォリスが叫んだ時には、女性は氷の破片とともに姿を消していた。
「ここまでが私の魔力の限界か」
低い、フィラックの声。
「これこそが私の本当の目的だった。お前の心の奥底に眠るものを暴き、氷の鏡に映してお前の心を砕く。だが、時間が足りなかった」
地面に倒れ伏したままのフィラックは口惜しそうに呻いた。
「あまりに心の奥深くに隠されていたがゆえに。最初の鏡の迷宮でこの女に気付いていれば、お前を討つことができたであろうに」
その身体が徐々に崩れていく。
「だが忘れるな。水は人の得た最初の鏡。我が氷の鏡は真実を映す。今そこに映ったのはお前の弱さだ」
フィラックは血に染まった顔を上げた。
青ざめたウォリスの顔を見て、高らかに笑う。
「人だ」
フィラックは言った。
「所詮は、お前も人。闇の魔人を気取ったところで、人は闇の中では生きられぬ」
ウォリスは何も答えない。
「ウォリスよ。人ならば、人として生きるのがよかろうぞ」
哄笑を残し、銀のフィラックは消えた。
後には銀色に輝く石だけが残った。
「……だから、僕も言っただろう」
ウォリスはゆっくりと歩み寄ると、腰を屈めて銀の石を掴む。
「お前の力で、僕を殺してくれと」
その顔に一瞬、持って行き場のないやるせない感情が浮かんだ。
「そうしてくれたなら、僕もどれだけ楽だったことか」
石を拾い上げたウォリスが顔を上げる。
彼を包んでいた闇は、いつの間にか消えていた。
ウォリスはしばらくの間、女性の立っていた辺りをじっと見つめていたが、やがて踵を返した。




