虚勢
「トルク」
デグの声がした。
「トルク。しっかりしてくれ」
その言葉で、トルクは自分がほとんど意識を失いかけていたことを知った。
いつの間にか、薄紫色の草原に仰向けに横たわっていた。
俺は、黒のイディムを光で貫いて。
それから、そうか。あいつは石に戻ったんだ。
その後の記憶が混濁している。
目を開けると、デグがいた。必死の表情で、トルクの傷に治癒術を施している。
その顔の向こうに、青い空が見えた。太陽の位置はイディムが見上げた時とほとんど変わっていない。
意識を失っていた時間は、そう長くはないようだ。
そう判断して、立ち上がろうと身体に力を入れてみて、トルクは激痛に思わず声を上げそうになった。
「痛えな」
喉元まで出かかった悲鳴をどうにか呑み込んで、トルクはそう呟く。
全身をイディムの闇に何度も切り裂かれていた。魔力は限界まで使い果たしていた。
むしろイディムが石に戻るまで意識を繋ぎ止められたことが奇跡のようなものだった。
「トルク。起きたのか」
デグがほっとしたように言う。その手の中で光が揺れた。
「ああ」
トルクは唸るように返事をした。
「心配かけたな」
くそ。
トルク。やっぱり君は光じゃないか。
最後にアルマークの声を聞いたところで気を失っちまった。気分悪ぃな。
トルクは舌打ちした。
口の中が血の味でいっぱいだ。唾を吐きたかったが、痛みと脱力感で首も動かせなかった。
「ガレインは」
「向こうで、自分の怪我を治してるよ。あいつも切られて結構血が出てたからさ」
答えながらも、デグは治癒術の手を休めない。
「でもトルクほどの傷じゃねえよ」
「そうか」
トルクはその顔を見上げる。
「デグ。お前の怪我は大丈夫なのか」
「俺なんて」
デグは顔を歪めた。
「あいつにハンマーみたいなので一発腹を殴られただけだ。痛えけど、治療なんか後でどうにでもなる。トルクの血を、まずは止めねえと」
その光が、トルクの肩口に当てられている。イディムの作った獣のような闇に切り裂かれた場所だった。
傷の深さは、自分でも感じていた。やばいところを切られたな、と思っていた。
だから、デグが迅速に治癒術を施してくれていなかったら、トルクはそのまま二度と目を覚まさなかったかもしれない。
もしそうなってたら。
トルクは思った。
そうしたら俺が最後に耳にしたのは、アルマークのわけの分からねえ幻聴だったことになる。それはぞっとしねえ話だ。
「助かったぜ、デグ」
トルクは心からそう言った。
「最大の恥辱を味わうところだった」
「まだ、助かったとは言い切れねえよ」
デグは苦しそうに答える。
「俺の治癒術じゃなかなか治らねえ。傷が深いんだ」
その顎からぽたぽたと汗が垂れる。
「クラン島のウェンディはすごかった。こうしてみると本当によく分かる」
デグは言った。
「ウェンディならこんな傷、もう治せちまってるんだろうな。もっと一生懸命治癒術の練習をしておくんだった。浮遊の術の練習に使った半分でも、治癒術に使っておけば」
「デグ」
トルクはデグの後悔の言葉を遮った。
「そんな贅沢は言わねえよ。助かった」
命は繋ぎ止めた。魔力さえ回復すれば、自分で何とでもできる。傷跡は残るだろうが、それはむしろ勲章のようにも思えた。
俺は。俺たちは、闇の力に勝った。
「お前が傍にいてくれたから、目を覚ませたんだ。ありがとよ、デグ」
その言葉にデグは唇を噛む。
「俺はもっと強くなりてえよ、トルク」
デグは言った。
「トルクみたいに、強くなりてえ」
「強い? 俺がか」
トルクは自嘲気味に口を歪める。
今まで自分が強いと思ったことなんて一度もない。
強くあろう、強く見せよう、とはしていた。
俺のは、単なる虚勢だ。
舐められたくない。逃げたと思われたくない。才能がないことに気付かれたくない。
だから虚勢を張って、強がる。突っ張る。
本当に強いやつってのは……
脳裏にまた、アルマークの姿が浮かんで、トルクは舌打ちした。
ああ、そうだ。大事なことを忘れてたぜ。
「ガレイン」
トルクは声を上げた。
「そこにいるのか」
「ああ」
ずしずしと近付いてくる足音がして、ガレインがひょいっとトルクの視界に顔を出した。
「おう、ガレイン」
トルクはにやりと笑った。
ガレインの顔色は、思ったよりも悪くなかった。
「元気そうだな」
「俺の傷は、そんなに深くなかった」
ガレインが答える。
「もうすぐ俺もデグと一緒にトルクの傷を治す」
「ああ、それは要らねえ」
トルクは言った。
「そんなことより、そこに黒い石が転がってるだろ」
ガレインはそちらに目をやって、頷く。
「ある」
「怪我を治したら、それをな。クラスの連中のところにひとっ走り持って帰ってくれ」
「トルク」
デグが声を上げる。
「ガレインに一人で行かせるのかよ。まずは俺たち二人でトルクの怪我を治さねえと」
だがトルクはデグの言葉に構わず、ガレインに声をかける。
「他のやつらに、なんで一人で帰ってきたって聞かれたらな、ガレイン。敵をあっさりと倒しちまってつまらねえからトルクとデグはその辺を一回り探索してから帰るって、そう言うんだぞ」
その言葉にデグは目を見開いた。
「特に、もしアルマークあたりがもう帰って来てて、余計なことを言いやがったらな。その石を押し付けて、いいからお前はウェンディのことだけ考えてろ、ばかなんだから二つも三つも余計なことを考えるなって、そう言うんだ。いいな」
「分かった」
ガレインは頷いた。
「俺が、誰よりも早くこの石を持ち帰る」
「そうだ。それが大事だ」
トルクは微笑んだ。
「もし誰か先着がいたら、黒の石が一番強かった、闇の力の使い手だったって大声で吹聴しとけ」
「分かった」
ガレインの顔がトルクの視界から消える。
「デグ」
トルクはデグの顔を見上げて、にやりと笑った。
「お前の言う、俺の強さなんてこんなもんだぜ」
「いや」
デグは首を振った。
「そうだった。それでこそ、俺の憧れたトルクだぜ」
それからガレインを振り返って、デグも言った。
「よし、ガレイン。急げよ。帰りは下り坂だから、一気に駆け下りれば速え。他のやつらに負けんなよ」
「おう」
ガレインの元気な返事が聞こえる。
これでいい。
トルクは目を閉じた。
俺の虚勢も、たまには役に立つ。
「悪い、デグ。ちょっと眠るぜ」
それだけ言うと、そのままトルクは意識を失った。
しゃく、と足元の地面が音を立てた。
霜柱を踏んだのだ。
ウォリスは顔をしかめた。
吐く息が、白くなっていた。
低木が立ち枯れている。その葉や幹に白い霜が降りている。
まるで彼の周囲だけが冬に逆戻りしてしまったかのようだった。
森を抜け、ウォリスの歩く道は寒々しい低木地帯に入り込んでいた。
「冬、か」
ウォリスは呟いた。
「まあ僕には、夏の風景などよりもこちらのほうが似合っているかもしれんな」
そう言って酷薄な笑顔を浮かべる。
その眼前に、太陽の光を受けて冷たく輝く宮殿のような建造物が見えてきた。




