侮辱
「トルクを侮辱するんじゃねえ」
ガレインの叫びを、イディムは穏やかな笑みで聞き流した。
「やはりそれだけか。待ってはみたが、それ以外の言葉は出てきそうにないのう」
そう言うと、右手を前に突き出す。
「何かもう少し面白いことを言うのかと思ったが」
その手の中に、黒い力が渦巻く。足元のアンチュウマソウがざわりと揺れた。
まずい。
トルクは我に返った。
「よけろ、ガレイン!」
だがガレインは動かなかった。
鬼のような形相でトルクの前に立ちはだかると、不可視の盾を広げた。
それはまるで、自分を守るというよりは、後ろに立つトルクを守るかのような大きさだった。
「それで、何を守る」
イディムが嗤う。
「その程度の膜で」
その手の中で闇が形を変えた。漆黒の長い三本のかぎ爪が、凄まじい速度でガレインに向かって伸びる。
不可視の盾は、まるで紙のように切り裂かれた。ガレインの身体もそのまま三本の爪に切り裂かれる。
うめき声も上げずに、ガレインは倒れた。
「ガレイン! てめえ、よくも」
デグが杖を振りかざして前に出た。
「この野郎」
その目が怒りに燃えていた。
「デグ、待て」
だがデグも、トルクの指示を待たなかった。自分の大事なものを守るかのように、杖をかざす。杖の先端に光の力が集う。
光の矢。
輝く矢を放つ時、デグの足元のアンチュウマソウは確かに色を失った。
「良い」
そう言って微笑むイディムの手の中には、もう新たに粘土のような闇が蠢いていた。
闇で手を包んだまま、イディムは飛来した光の矢をこともなげに払い落した。
「この光は汝の才能の輝きそのもの。良いぞ」
「うるせえ」
デグがさらに魔法を放とうとした時、イディムの手の闇が伸びあがった。
今度は漆黒の槌のような形になっていた。それがまるで意志あるもののように飛んで、デグの腹を打った。
「がっ」
吐瀉物を撒き散らして、デグが草原に転がった。
「闇の力」
イディムは言った。
「切り刻むも打ちのめすも、自由自在だ。そしてこんなものは闇の力のほんの一端に過ぎぬということは、汝にも分かるであろう」
そう言ってトルクを見やり、にい、と口角を上げる。
「闇の力を使ってみた汝ならば。なあ、トルク」
トルクは答えなかった。
代わりにゆっくりと杖を持ち上げる。デグが手渡してくれた杖。
魔力を集中する。杖の先端に力が集まるが、先ほどのような高揚感はない。
漠然とした魔力。ぼんやりとした力。
これじゃねえ。
トルクは思った。
今なら分かる。
闇の力を経験してしまったからこそ、はっきりと分かる。
自分が努力の末に身に付けたこの力の、なんと非力で未熟なことか。
「闇はもう抜けておるよ」
イディムは言った。その目が、探るようにトルクの表情を見る。
「闇の後押しがあるとないとでは、まるで違うであろう。今の汝に見えるか? 先を行くあいつらの世界が」
見えない。
トルクはそう認めざるを得なかった。
見えるのは、遥かに引き離された背中だけだ。
一度経験してしまったからこそ、見えてしまったからこそ、その絶望的な差がはっきりと分かる。
「どうするね」
イディムは地面に倒れたデグとガレインを顎でしゃくって見せる。
「この二人と同じように無様に地面に転がるか。それとも」
黒い瞳が、底のない深さを湛える。言葉に粘性の闇がかぶさる。
「今日を境に、まだ見ぬ煌びやかな世界へ行くか」
トルクは答えない。イディムは焦れる様子もなく微笑んだ。
「ためらう理由は何だ。闇への嫌悪か。くだらぬ倫理観か」
そう言って首を振る。
「そんなものは汝を縛る理由にはならぬ。飛び出すのに必要なのは、ただ一つ。勇気だけだ」
勇気。
トルクの眉がぴくりと動いた。
「勇気」
そう口に出して呟く。
「そう、勇気だ」
イディムは頷いた。
「未知の世界に踏み出すのは、誰しもが怖い。だが、それを克服してこそ真の力が手に入る」
「そうか」
トルクは頷く。
「勇気か」
次の瞬間。
トルクの杖に魔力が渦巻いた。
まるで、持てる魔力を全てつぎ込んだかのような乱暴な凝縮。
「むっ」
イディムが眉をひそめる。
トルクが杖を突き出した。
三度、炎がイディムを襲った。
それは最初のトルクの炎よりもはるかに強力だったが、二度目のものとは比べるべくもなかった。
「まだこんなことを試すのか」
イディムはため息とともに両手を左右に振った。
ただそれだけで、炎はかき消された。
その時には、もうイディムの手には闇が渦巻いていた。
「相手を倒したくば、こういう魔法を使うのだ」
黒い闇が一瞬、獣のような形をとった。次の瞬間には、トルクは闇に肩口を切り裂かれて鮮血とともに地面に沈んでいた。
「もう少し、賢いのかと思ったがな」
イディムがゆっくりと歩み寄ってくる。
トルクは激痛の中で、両脇に倒れるデグとガレインの姿を見た。
情けねえ。
トルクは思った。
お前らが教えてくれたってのに、こいつに言われるまで気付かなかった。
勇気。
俺に足りねえのは、それだった。
自分の非力を認める勇気。
トルク。
不意に、忌々しい声が蘇る。
アルマーク。北から来た異分子。
トルク。僕にとって君は、この光のような存在だ。
うるせえ。
トルクは歯噛みする。
黙れ。
トルク。
低く抑えられ、かろうじてトルクの耳に届いた、あの日の兄の声が蘇る。
トルク。この国の未来を、頼む。
くそが。
うるせえんだよ。どいつもこいつも。
俺は俺だ。
俺に余計なものを背負わせるんじゃねえ。
だが、その声が自分の心を震わせることに、トルクも気付いていた。
アルマークの、ブルスターの声が、潰れかけたトルクの誇りに光を照らしていた。
それが、トルクに彼らしい思考を取り戻させた。
トルクを、侮辱するな。
ガレインの声。
おう。
心の中で頷く。
よく言ってくれたな、ガレイン。
そうだ。俺の原点は、それだった。
今でも心に蘇る、学院入学前に参加させられた貴族のパーティ。
兄が捕まってオルアシュールに繋がれた後のことだった。
あの日自分に向けられた、目、目、目。
俺はあの目を見返すために、そうだ、胸を張ってあの目を見下ろしてやるために、今日までくそみてえな努力を続けてきたんじゃねえのか。
俺を、侮辱するな。
闇の力を借りて、それであの目を見返すことができるのか。闇の力でどんなに恐怖を与えたところで、その目の底には侮蔑の感情が残るだろう。
シーフェイ家の男は、いつでも堂々としていろ。
はた迷惑な兄貴だったが、あんたはいいことを言った。
その言葉だけは正しい。
顔を上げ、胸を張る。
俺を、侮辱するな。
アルマークとともに森でジャラノンを追ったあの日。
木漏れ日を受けて返り血を浴びたアルマークの姿は、嫉妬するほどに美しかった。
騎士。
思わずそう形容した。
トルクはそこに、自分の理想とする姿の一端を見てしまった。
光が差していた。
そうだ。あの日のあいつのように。
見返すなら、堂々と光を浴びながら、だ。
俺を、侮辱するんじゃねえ。
不意に、がばりとトルクが体を起こしたので、イディムは脚を止めた。
「ほう」
そう言って微笑む。
「頑丈な身体だ。ますます闇と相性が良い」
「そうかよ」
トルクも笑った。激痛を、強烈な意志の力で抑え込む。
侮辱されたままで、終われるか。
「闇の力。確かにすげえな」
トルクは言った。
「あの力がありゃあ、ひとっ飛びに何歩も先に行けるんだろうな」
「無論だ」
イディムは頷く。
「汝も自ら感じたであろう。汝が積み上げた努力など、闇の力さえあればたった一瞬で踏み越えてゆける。その遥か先へ」
「なるほどな」
頷いたトルクが、ふとうつむいた。
その肩が震える。
「どうした」
イディムは優しく声をかける。
「泣いているのか」
「いや」
くくっ、と笑い声が漏れた。
顔を上げたトルクは傲岸な笑顔を浮かべていた。
「十歩先か、百歩先か、どこまで行けるのか知らねえが」
トルクは言った。
「そういうのをな、だせえって言うんだよ」
「なに」
イディムが目を見張る。
「俺はな」
トルクの目に、自分が今まで積み上げてきた日々が映った。それはがたがたで、でこぼこして、ひどく不格好な塔のようだった。
闇の力を得れば、きっともっとまっすぐな美しい塔が一瞬で建つのだろう。
だが、それが俺だ。
俺はこれからも、一つ一つ積み上げ続ける。不格好な塔を作り続ける。それが、俺の塔だ。
無様さを認める勇気が、俺には足りなかった。
そのせいで、デグとガレインを傷つけた。
「俺は」
トルクは言った。
「自分の手で積み上げた物しか信じねえ」
君は、光だ。
アルマークの声。
うるせえ。俺は光なんかじゃねえ。
だが、闇でもねえ。
「自分の足で踏みしめた道しか信じねえ」
この国の未来を、頼む。
ブルスターの声。
うるせえ。
勝手に託すな。
自分の道は、自分で決める。
「闇だと? 余計な汚ねえもんを俺の中に入れるんじゃねえ」
トルクは唾を吐いた。
俺を、侮辱するんじゃねえ。
俺は、トルク・シーフェイだ。
「俺の中は、もう俺でいっぱいだ」
トルクは笑った。
「俺はそれで勝負する。他には何も要らねえ」




